走り続けた16年(215)

街づくりへの挑戦㈺ 高架工事着工

大久保慎七市長3期12年、最後の議会となった平成11年3月の定例会、残り任期が1か月となったことから、平穏な定例会となり、平成11年度一般会計予算をはじめ提案された議案27件のすべてを可決し、終了しました。

私は、市民の永年の悲願である中央線高架化の条件である東小金井駅北口の区画整理事業の進捗に必要な「施行規程を定める条例」の議決に努めましたが、再度継続審査となってしまったことが悔やまれました。

国鉄の輸送力増強の方針であった「5方面作戦」で、唯一遅れていたのが中央線の高架複々線で、昭和44年に三鷹まで延伸され、これを契機に多摩地域20市3町村により、三鷹から立川までの立体・複々線化を実現させるため「三鷹・立川間立体化複々線促進協議会(複促協)」が発足しました。しかし、三鷹〜立川間で最も重要な位置にある小金井市が国鉄のペースで進むことに対する不信感から加盟しないのです。そのため「複促協」は「停滞協」と揶揄される始末でした。

停滞の大きな要因は小金井市にあり、それは、市の財政事情から事業費の「地元負担ゼロ」の主張と、東小金井駅の街づくりの遅れが原因でした。都や沿線市の関係者からは「しょうがねい市」との陰口も聞かれました。しかし、小金井市の負担金は80数億円であり、それは、大きな負担ではありました。

昭和55年4月、発足から12年を経て小金井市も「複促協」に加入し、活動するようになりました。しかし、昭和56年12月の市議会で再度「本市の財政事情からも地元負担は絶対不可能」との意見書を国鉄総裁や都知事宛てに送付しました。

昭和58年の統一地方選挙で武蔵野市長に就任した土屋正忠氏は、武蔵野市にとっても高架は重要であり、積極的に取組み、保立旻、大久保慎七市長にも説得を試みていました。

昭和60年4月に市議会議員になった私にも土屋氏をはじめ、多方面から中央線の高架事業は都市計画事業であり、都市計画税の課税主体が市にある以上、地元負担ゼロではいつまでも高架は進まないと説明されました。都も関係市も事業の遅れの原因は小金井市の責任だとの主張もあり、次第に議会にも、地元負担やむなしの雰囲気が広がりました。

昭和62年4月の国鉄の分割・民営化により、これまでの都との合意は白紙に戻され、発足したJR東日本は約420億円を負担する高架事業には消極的になっていました。

平成2年3月の市議会で、高架化に必要な資金を積立てる「小金井市鉄道線増立体化整備基金条例」を議決、それに1億円を積立てるなど大きな前進を果たしました。これにより、小金井市も地元負担を認める大きな進展になりました。

次は街づくりです。平成6年に入り東小金井駅北口の区画整理事業の各種手続きも進み前進しましたが、平成10年9月、本欄冒頭に記した「施行規程を定める条例」が地元地権者の過半数が反対である、という理由から議会の理解が得られず継続審議の繰り返しになってしまいました。

しかし、都は平成11年3月18日、「中央線三鷹〜立川間連続立体交差事業着工記念式」を武蔵境スイングホールで関係者約500人の参加で挙行。ついに工事に着手しました。

(つづく)