走り続けた16年(268)

組合の民生化が胎動

昭和60年4月、市議会議員になった私は、市民の目の届かないところで行われる団体交渉が朝になろうとも労使交渉が終るまで常に周辺でその成行きを見ていました。組合から不当介入だと抗議を受けたが続けました。

それは、交渉が暴力的にならないことや当局の安易な妥協を防ぐためでした。さらに過去の組合活動の経過にも注目しました。

昭和37年の「37協定」は役職には関係なく年齢が同じなら同じ賃金の年齢給の導入。職務命令違反で懲戒免職になったM組合委員長の復職。警備員の正職化を求め組合が支援する革新の永利友喜市長への傷害事件。その暴力を恐れてか52年に96人が正規職員に。また、ごみ収集等の多摩清掃公社の直営化で100人の職員増と、信じられない採用の連続でした。市民が納めた血税が組合支配の強い非効率的な職員の人件費として使われました。

市議として2年を経た62年4月大久保慎七市長が誕生しました。私が議員として市政に参画する目的は、危機的財政の健全化で、それには全国ワーストの人件費の改善が必須です。そのためには組合主導から民主的な労使関係の構築のため、大久保市政の12年間も私は労使交渉を常にチェックし続けました。

組合の指導者はカリスマ支配のM執行委員長で影の市長とも天皇とも言われており、それを信奉する職員も少なからずいて、反社会的勢力と比喩される程に尖鋭化していたのです。その中核をなすのが建設部維持補修係や施設管理係など現業職が主で、それは、想像を絶するものでした。

大久保市長就任5か月後の9月定例会で計らずも問題の「西部浄水場用地の適正化について」と「学校施設の管理業務について」の市長報告がありました。

「西部浄水場用地の適正化」は、多摩地域の安定給水のため小平市上水南町3にある都水道局用地に2万トンの配水池を築造するため当該地東側にある市建設部資材置場の返還要求についてでした。

この用地は市が配水池用地として取得し、その一部を資材置き場として使用していたものを、49年、水道施設等を提供することで都の一元化に加わりました。しかし、資材置場は使用許可の契約もしないまま済し崩しで使用していました。

建設部維持補修係は40人前後の職員を擁し、中堅建設会社以上の重機も保有し、小金井建設(株)と揶揄される程でした。典型的非効率で無駄な事業の執行を続け、他市にある資材置場の管理も不十分で最も改善が必要な職場の一つでした。

都の強硬な返還要求に、職員組合は確保を主張したが、市長は水道水の安定供給の必要性から代替地の確保に努めました。その結果、梶野町4に借地し移転しました。

私の市長時代、この問題のある職場は民間委託を決めて実行しました。現在、この部署の正規職員はゼロになっています。市の行政改革の一例であり、これにより、職員組合の民主化も進みました。

また、梶野町の資材置場も返還し、新小金井駅東の狭い市有地に移っています。

現在、都水道局上水南浄水場の配水池の上部を市が借用し、小金井市テニスコート場として7面の人工芝のコートやクラブハウス、シャワー室や談話室等を備え、多くの市民に利用されています。

(つづく)