走り続けた16年(272)

市の病巣にメスが②

小金井市の最大の負の遺産は、長年の常軌を逸した職員組合の横暴とそれを許してきた当局の無力さである。それにより市民は取り返しのつかない財政的な損失を被ったのである。それは、文化、教育、運動施設の不足や街づくりの遅れ等に顕著に表れていた。

市役所内では仕事をしない組合員が幅を利かせ、真面目に仕事に取り組む職員が小さくなり肩身の狭い思いをしていた。この状況を打開するには組合の体質を変えることでした。その組合を支えていた病巣が維持補修係と施設管理係でした。

昭和58年6月、新たな施設警備の導入により任用換等の人事が発令され、この人事に不満の職員が当局を提訴した『丸井裁判』で組合の人事への介入が明らかになった。この裁判で証人として出廷した人事の所管である企画部人事課の部長も課長も関知していないと証言し、管理部長からは異動案がすでに作成されていて、そのまま執行するよう一職員から指示された、と証言した。組合に批判的な職員には本人が望まない職場に異動させることで職員をコントロールしていたのです。訴えは棄却されたが組合の介入が明らかになり、組合は分裂の兆候があらわになった。

昭和62年9月の定例会で大久保慎七市長から「学校施設の管理業務について」の市長報告があり激しい議論になりました。定例会最終日「学校施設管理に関する決議」が共産党を除く全議員の賛成で議決されました。

この決議の内容は①市民が納得できる管理方式を。②分散してる事務室を一か所に。というもので、私の悲願である財政健全化を進めるために必要な条件整備の内容でした。

私の主張の①は、機械警備で市内14校の学校警備は機械化すれば1校分の財源で済むのです。目指すのは公共施設の全ての機械警備です。②に関しては、施設管理係の係長は、天皇とも影の市長といわれるカリスマ的支配の組合執行委員長であり、仕事は本庁舎で宿直した職員からの報告や、駐車場管理の姿を見たこともなく、報告に要する一日の勤務時間は15分とのことであり、市民からも職員からも見えない個室での特別扱いを止めさせることでした。

この決議の内容が全く進展しないことで、私はこの実情をチラシや壁新聞、街宣車で「影の市長」を実名で批判しました。触れてはいけない所に手を入れたのです。覚悟の上ですが、駐車場にある私の車への悪戯や日付を超えての無言電話。注文しない25人前の寿司や蕎麦の出前。パトカーや救急車が我が家へ急行。私の自転車のカゴに詰めた新聞紙に火が付けられ警察の出動となる。遂に警察官が狭い我が家に張り込むことにもなった。犯人は特定できなかったが私の行動と一連の嫌がらせ時を同じくして起こったのです。

次の12月定例会の総務委員会で、私の「市議の市政ニュースに関して」が、翌年3月定例会では私と組合の絡みを大久保市長が組合に公文書で謝罪したことが議論になった。

時を経て、改革が進み、学校をはじめ公共施設は全て機械化され90人超の施設管理係は維持補修係40人と同様現在は正規職員ゼロになっています。

また、「影の市長」は異動されることもなく退職しました。

(つづく)

走り続けた16年(268)

組合の民生化が胎動

昭和60年4月、市議会議員になった私は、市民の目の届かないところで行われる団体交渉が朝になろうとも労使交渉が終るまで常に周辺でその成行きを見ていました。組合から不当介入だと抗議を受けたが続けました。

それは、交渉が暴力的にならないことや当局の安易な妥協を防ぐためでした。さらに過去の組合活動の経過にも注目しました。

昭和37年の「37協定」は役職には関係なく年齢が同じなら同じ賃金の年齢給の導入。職務命令違反で懲戒免職になったM組合委員長の復職。警備員の正職化を求め組合が支援する革新の永利友喜市長への傷害事件。その暴力を恐れてか52年に96人が正規職員に。また、ごみ収集等の多摩清掃公社の直営化で100人の職員増と、信じられない採用の連続でした。市民が納めた血税が組合支配の強い非効率的な職員の人件費として使われました。

市議として2年を経た62年4月大久保慎七市長が誕生しました。私が議員として市政に参画する目的は、危機的財政の健全化で、それには全国ワーストの人件費の改善が必須です。そのためには組合主導から民主的な労使関係の構築のため、大久保市政の12年間も私は労使交渉を常にチェックし続けました。

組合の指導者はカリスマ支配のM執行委員長で影の市長とも天皇とも言われており、それを信奉する職員も少なからずいて、反社会的勢力と比喩される程に尖鋭化していたのです。その中核をなすのが建設部維持補修係や施設管理係など現業職が主で、それは、想像を絶するものでした。

大久保市長就任5か月後の9月定例会で計らずも問題の「西部浄水場用地の適正化について」と「学校施設の管理業務について」の市長報告がありました。

「西部浄水場用地の適正化」は、多摩地域の安定給水のため小平市上水南町3にある都水道局用地に2万トンの配水池を築造するため当該地東側にある市建設部資材置場の返還要求についてでした。

この用地は市が配水池用地として取得し、その一部を資材置き場として使用していたものを、49年、水道施設等を提供することで都の一元化に加わりました。しかし、資材置場は使用許可の契約もしないまま済し崩しで使用していました。

建設部維持補修係は40人前後の職員を擁し、中堅建設会社以上の重機も保有し、小金井建設(株)と揶揄される程でした。典型的非効率で無駄な事業の執行を続け、他市にある資材置場の管理も不十分で最も改善が必要な職場の一つでした。

都の強硬な返還要求に、職員組合は確保を主張したが、市長は水道水の安定供給の必要性から代替地の確保に努めました。その結果、梶野町4に借地し移転しました。

私の市長時代、この問題のある職場は民間委託を決めて実行しました。現在、この部署の正規職員はゼロになっています。市の行政改革の一例であり、これにより、職員組合の民主化も進みました。

また、梶野町の資材置場も返還し、新小金井駅東の狭い市有地に移っています。

現在、都水道局上水南浄水場の配水池の上部を市が借用し、小金井市テニスコート場として7面の人工芝のコートやクラブハウス、シャワー室や談話室等を備え、多くの市民に利用されています。

(つづく)

走り続けた16年(249)

職員組合M委員長を免職に③

昭和36年に若手職員により再結成された職員組合は給与改定闘争で画期的な成果を収め、次は年齢別最低賃金を保証する「三七協定」の締結で一層勢いづきました。これは、「部長であろうと平職員であろうと大根一本の値段に変わりない」という理屈で、給与は学歴や職歴、職務・職階に関係なく年齢によって定めるというもので、組合の要求が次々に実現していました。

昭和38年春の賃金闘争も激しく、超過勤務や宿日直の拒否などの実力行使を武器に、連日の団体交渉に加え休暇闘争にも発展し、当局は追い詰められる状況でした。

市長選と市議選を間近に昭和38年4月10日、職員組合の執行委員長である「小金井市事務吏員Mを地方公務員法第二十九条第一項の規定により免職する」という辞令が本人に交付されました。

地公法第二十九条第一項は、法律、条例等に違反したり、職務上の義務に反したり職務を怠った場合や全体の奉仕者に相応しくない非行があった場合は懲戒処分として戒告、減給、停職又は免職の処分することができる、との規定です。

懲戒免職したにもかかわらず当局は組合が怖いのか、市長選で革新系候補が勝利した場合を考えてか、M氏の机を処分できず、M氏はその職場の机を使って数か月、読書にふけっていたようです。

この市長選は革新系の岩内義明候補が勝利すれば「首が戻る」から頑張ろうという組合側の選挙だったようですが、鈴木誠一市長が現職の強みを発揮し再選されました。

また、同時に行われた市議選後の初議会は5月18日の臨時市議会でした。初当選の社会党の岡田清則議員から「市職員組合委員長の免職について」の緊急質問が行われました。岡田議員は、当局と組合が賃上げ交渉中の処分であり、いかなる根拠に基づいて組合委員長を免職にしたか、処分するだけの客観的な事実を示すよう答弁を求めました。

しかし、市長は、組合活動や賃上げ交渉とは別問題であり、市民に対するサービス、職場における綱紀の問題、あくまで業務命令違反の一点ばりで、懲戒免職の具体的な事由は示さなかった。さらに処分撤回を求める発言には、しかるべき機関(東京都人事委員会)に提訴し、判断はそこの審査結果による、と論争を回避する答弁に終始しました。

続いて、同じく初当選の共産党朝倉篤郎議員から「市長の行政処置について(市職員組合委員長の免職について)」の表題で緊急質問が行われました。

朝倉議員はM職員の懲戒免職による業務への影響を質しました。

M職員は固定資産税課償却資産担当で免職により事務の引き継ぎが行われず業務に支障が出たのではないか、に対して、固定資産評価委員であり総務部長は係長が事務を引き継いで支障のないように対応したとの答弁に、担当課長は「償却資産の仕事はM君一人でやっていたので若干令書の発送に支障を来したことは事実です」との答弁になりました。市長からは「今後、異論のないように十分措置したいと考えております」との答弁で緊急質問は終了しました。

請求期限切れの直前の6月に入り、M氏の不利益処分取り消しの審査請求が東京都人事委員会に提出され、審査が開始されました。

(つづく)

走り続けた16年(247)

職員組合M委員長を免職に

昭和36年1月に再結成された職員組合は同年の自治労・第一次賃金闘争で成果を上げ、翌年の第二次賃金闘争では「年齢別最低賃金」を約束させる「三七協定」を昭和37年3月に合意させたことで、4月にはほとんどの職員が大幅な賃上げを果すことになりました。

この「年齢給」は平成9年度に「職務給」に改善されるまで約35年間にわたり小金井市民が人件費問題で苦しむ原因になりました。職員組合は次の目標を夏の一時金(ボーナス)闘争に定めました。大幅な昇給を決めた後だけに当局は条例通りの提案をしたが、勢い付く組合は前年の支給率を既得権に大幅増の要求になりました。

6月に入り組合は超過勤務拒否や宿日直拒否の実力行使に入りました。当局は市民に迷惑をかけない円滑な行政執行を何より望むものです。そのため、実力行使による行政の停滞は市長にとっては最大の悩みになります。職員側にしても、超勤を拒否することは仕事が溜まることで辛いのですが、組合の方針に逆らうことにはなりませんでした。

その様な状況の中、7月1日に執行される参議院議員選挙を目前に選挙管理委員会事務局は連日の残業で事務作業をしてましたが、選管の職員も組合の方針に背くことにはならず事務作業は遅れ、選挙執行が危険視されるようになりました。選管の委員は辞職も念頭に超勤拒否の解除のため妥結することを強く市長と組合に求めました、小金井市において参院選挙が適切に執行されなければ全国的な大問題になります。結局は市長が条例通りの提案を見直すことを約束することにより、組合は超勤拒否の闘争から選管事務局を外すことにはなりました。

6月15日の一時金支給日が過ぎても決着できず交渉が継続されます。市長の公務出張の日程の変更や出先まで乗り込んで抗議するなどが続き、結局、当初の提案を大きく上回る結果で妥結することになりました。夜を徹しての団交、そして、集団交渉による成果で、さらに組合の結束は強化されました。

当時を知る人は市役所の前庭を赤旗を掲げて職員集会が開かれていたことを思い出されることでしょう。

昭和38年4月下旬には統一地方選挙で小金井市は市長、市議選が行われます。

4月9日午後、市長から職員組合M執行委員長に免職に伴う弁明書が渡されました。それに記載されていた弁明の機会がその場であることにM執行委員長が気付かなかったことから弁明の機会を逃すことになりました。

翌日、M執行委員長に届けられた書類には「辞令 小金井市事務吏員 M・Y 地方公務員法第二十九条第一項の規定により免職する。 昭和三十八年四月十日 小金井市長 鈴木誠一」というものでした。

また、処分説明書の処分理由では「昭和38年1月4日から同年3月30日までの間に、あなたの行った職務命令違反等の行為は、地方公務員法第三二条等に違反するものである」とあります。法三二条には「職員は、その職務を遂行するに当たって法令、条例、地方自治体の機関で定める規定に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」と定められており、職員は上司の命令に従う義務があるとされているのです。

(つづく)

走り続けた16年(243)

強力な市・職員組合

小金井市は非常に潜在能力の高い町です。都心からJR中央線で30分程度に位置し、水と緑に恵まれた自然環境にあり、市民の意識は高く、その担税力は全国でもトップクラスにありながら、街づくりは遅れ危機的財政状況が数十年も続き、文化施設やスポーツ施設など公共施設の不足は市民の悩みでもあり、不便な生活を強いられました。なぜ武蔵野市や三鷹市、府中市など近隣市と比較して、市民サービスとしての還元が少なかったのか。

それは、市制施行当時から尖鋭化した職員組合に対し当局が適切な対応ができていなかったことが長く尾を引いたことと、昭和46年から2期8年間の革新市政でさらに組合が強力になったことに起因します。それは、市民にとって取り返しのつかない大きな損失となりました。

昭和33年、小金井市が市制施行を契機に職員採用を地元中心から広く公募で行うことにしました。それまで必要に応じて地元の人を選考等で採用していたのが、ここで大学で学生運動などを経験した新卒の学生が入所してきました。

公募で採用された20歳代の若者を中心に給与等労働条件の改善を求める声が次第に大きくなり、昭和36年1月それまで互助会的な活動を主とし、話し合いにより交代で管理職が執行委員長等を務めてきたポツダム組合が、慣例を破って入所早々の24〜5歳の若手職員が立候補し、若手平職員による執行部が誕生しました。闘う組合が無投票で再建・結成されました。これを、組合は無血クーデターと表していました。

怖いもの知らずの若手執行委員は早速賃金闘争に取組み、その要求は強引で当局は慣れない守りに必要な理論武装が不十分なことから、労使交渉は組合のペースで進みました。

同時に懸案の、全国の地方公務員による組合組織である自治労(全日本自治団体労働組合)に加入し、全国的な公務員共闘の第一次賃金闘争に参加することにもなりました。

当時の職員の待遇は必ずしも恵まれていたという状況にはありませんでした。特に中途採用の現業職員の待遇は厳しいものでした。そこに、御用組合から脱皮した職員組合は初めての賃金交渉に取り組んだのです。

交渉に当たる執行部は臨時大会での決定を実現させるため、当局に要望を飲ませることに懸命でした。

昭和36年2月の組合の臨時大会では人事院の勧告に沿う市の給与改定案を拒否。独自の要望を提案し、組合の要望が生かされる結果になりました。また、懸案だった時間外手当支給の頭打ちの解消や、一時金(賞与)の支給を勤務評定によることを止めさせるなどに成功し、組合活動の意気はいやがうえにも盛り上がりました。

当時、助役を務めていた鈴木祐三郎氏の体調不良により、鈴木誠一市長は同級生の東京都職員だった関綾二郎氏(二代目市長)を昭和36年12月に助役に起用し、職員組合との交渉に当りました。鈴木助役は昭和37年3月末に辞職しました。

昭和37年1月、臨時大会は第二次賃金闘争に取り組む方針決定のために開かれました。

組合の発想は賃金は生活給であり、誰でも一定の年齢になったら差別なく最低の保障を受けるための「年齢別最低賃金制度の導入」を打ち出したのです。

(つづく)