職務給導入で組合と合意
昭和33年10月1日の市制施行を記念し、それまで職員は地元から選考で採用していたが、翌年から地元に限定せず大学卒も公募で採用することにした。採用された職員の中には学生運動で活動した者もおり、次年度以降はその活動仲間を誘って受験させ入所するようになった。
36年1月、それまで職員組合の執行部は役所の管理職が交代で務めていたが、引き受け手がなく入所数年の若手の平職員が過去の推薦の慣例を破って立候補し就任した。戦い慣れた怖いもの知らずの新執行部に対し、これまで仲間内の御用組合を相手にしてきた管理職では到底太刀打ちできなかった。
発足早々の若い組合は目の前の賃金闘争に勝利し、意気上がり組合員の期待も膨んだ。
2月の団体交渉で「年齢給」を意味する年齢別最低保障に当局から前向きな発言が出たことで組合は勢い付き、違法なストを構えての交渉となった。
当時の会議録等によれば、団体交渉が続く3月4日は日付を跨いだことから鈴木誠一市長は団交を関綾二郎助役(2代目市長)や労務担当者に任せて帰宅した。後を任せられた助役以下は何とか妥結に持ち込みたいと組合側と交渉を重ねた。5割や3割休暇、超過勤務の拒否などの違法な実力行使で行政執行に支障を来していたこともあり、当局は朝8時30分にこの内容なら市長も納得するだろうとの思いから組合と妥結した。しかし、登庁した市長はその内容に不満を示し激怒したとのこと。そのため、この覚え書きに市長は署名・押印しなかったのである。それが「幻の37協定」と言われる所以である。
この「37協定」による年齢別最低保証制度は学歴や職歴、職務・職階に関係なく年齢により給与が決まるもので、組合は大根一本、サンマ一匹、部長が買っても平職員が買っても値段は同じ、との屁理屈が原点であり、勤労意欲に欠ける職員には歓迎の制度だった。
「協定」は市長の署名がなく幻に終わったが助役をはじめ労務担当職員が一旦合意していたことからか3月定例会に「協定」に倣った「職員の給与に関する条例の一部改正」の議案が提案され議決されたのです。これがその後、長い間小金井市財政を苦しめる根源となる「年齢給」の導入だったのです。しかし、総務委員会や予算特別委員会でも特段の議論にはならず、本会議で与党の保立旻議員(5代目市長)が追求したが及ばなかった。
これは、職員の勤務意欲を失わせ職場の活性化を阻むものであり、この改正された条例は、地方公務員法第24条第1項の「職員の給与は、その職務と責任に応ずるものでなければならない」との法に反するものでもあった。「37協定」には10項目であり、その中身は②年齢別最低保障。③在職調整を行う。それは⑤昭和39年度までに完了する。⑧外部への公表については甲乙協議の上決定。さらに、⑩本覚え書きの交渉過程において発生した(法律違反など)諸問題についての責任は追及しない。というものでした。
問題は「37協定」が幻にも係わらず鈴木市長の後の、関、永利、星野、保立、大久保と歴代の市長も給与改定等において「所謂『37協定』による給与の調整」という1項目がついて回っていたのが解せないのである。
この年齢給とともにその後50年前後の革新市政による大量職員の採用が小金井市民を長い間苦しめ続けた。
(つづく)