走り続けた16年(245)

幻の三七(さんなな)協定

昭和36年1月、入所数年の20代前半の若者により再結成された職員組合、以前の給与改定は人事委員会勧告通りの市の提案を受け入れていたのが一変、独自要求するやら勤務時間に食い込む違法なストライキとなる職場大会を打つなどの対抗で結果を出しました。

実績を上げることで闘えば得られるとの思いになることから賃金闘争は一層激しくなりました。自治労による全国的な公務員共闘の賃金闘争に参加し大きな結果を得たことから、昭和37年の第二次賃金闘争はさらに強力で、学歴差別反対、職務給の粉砕を旗印に、時間外拒否、問題の職場大会、徹夜団交などが繰り返されました。

前夜から続いた3月5日午前8時半、混乱する労使交渉の中で一定の合意をみましたが、鈴木誠一市長はこれを認めることはなかったようです。

この賃金交渉の経過について、昭和37年3月定例会の市長報告で職員組合との交渉に当たった関綾二郎助役から報告されました。

その内容は「組合から30数項目の要求書が出され、2月6日から3月4日迄の9日間に10回と他市より多くの団体交渉を持ち、特に大きな問題は一律五千円のベースアップと年齢別最低賃金制の問題でした。他の職場から入所した職員は新規採用と同じ給与でスタートすることから、過去の経験が賃金に生かされていないのは不合理がある。この不合理を是正することに労使が了解点に達した。また、不均衡是正により高額の昇給の場合は具合が悪いので2年か3年に分けて実施する基本線が決まった」という主旨のものでした。

この助役の報告に対し社会党の寺本正雄議員が「組合の要望にもかかわらず団交が開かれなかった」と組合の主張に沿った形の質問に、助役は「たいへん職員には申し訳ないと思っております。できるだけそういうことのないようにして参りたいと思っております」と他市より多くの団交にもかかわらず、この様な質疑・答弁になりました。

与党はこの覚え書問題に関心が薄く、保立旻議員(5代目市長)が一般質問で厳しく追求した程度でした。

鈴木市長の強硬路線に対し、組合との融和を図った関助役の温情ある柔軟な対応は、組合には通じず守勢に回ったのは残念です。

この交渉に当たって職員組合は職場大会を開き、5割休暇とか3割休暇をしたり、超勤拒否の実力行使を行うなど市民生活に大きな影響を与えました。

この不当行為に対しても当局は職員の処分を行う考えはなく、覚え書の「3・7協定」10には「以上各項を決定するに至る交渉過程において発生した諸問題については、甲乙ともその責任を追求しないものとする」と免罪符を与えていました。

また、その欄外には「この覚え書交換の後日の証しとして、甲乙それぞれ記名捺印のうえ、各自1通を保有する。昭和37年3月6日 甲 小金井市長 鈴木誠一 乙 自治労小金井市職員組合執行委員長 M・Y とありますが、市長はこの覚え書の内容に納得せず記名押印しなかったようです。そのため、市に在るべき「覚え書」は存在せず、私の市長16年間の在任中にもこの文書を目にすることなく、幻の「3・7協定」に35年間、小金井市政が振り回されていたということです。

(つづく)

走り続けた16年(244)

三七(さんなな)協定って何?

昭和33年の市制施行を契機に市職員を公募で採用することになり、その公募で入所した20代前半の若い職員により、昭和36年1月御用組合が闘う職員組合に変身して再結成。同時に自治労に加入し全国的な公務員共闘の第一次賃金闘争に参加し、自らの独自要求を押し通す等の成果を上げたことから組合活動はいやがうえにも盛り上がりました。

組合との団体交渉には同年の昭和36年12月23日、助役に就いたばかりの関綾二郎氏(二代目市長)が当りました。初代の鈴木誠一氏と二人の市長には私も長い間、ご指導をいただきました。この大先輩を私が評するのも如何かとは思いますが、鈴木市長の「剛」に対し、関助役は「柔」という感じでした。

自治労の第二次賃金闘争に取り組むため、小金井職員組合が昭和37年1月の臨時大会で決定した方針は、その後長く小金井市財政に大きな影響を及ぼすことになりました。

組合の発想は「賃金は生活給であり、課長だろうが現場の平職員だろうがサンマ一匹、大根一本の値段に変わりはない」との主張で、誰でもが一定の年齢になったら差別なく最低の保障を受けるための「年齢別最低賃金制度の導入」を打ち出してきたのです。

若く経験の少ない執行委員は問題があれば職場懇談会(職懇)等を開いて協議することから要求は次第にエスカレートしました。

2月に入り組合は勤務時間に食い込む違法な職場大会も開きました。3月、市長が出席した団体交渉の中、組合側の要求である「年齢別最低保障」を容認する発言が出されました。その後、当局はこれによる財政負担が高額になることから到底受け入れられないとの認識に至りました。再度の団交で、当局側は文書による確認に至っていないことからこの問題から逃げたが、組合は食いついて放さない状況が続きました。日付が変わってから市長は助役に一任して帰宅しました。明け方まで続いた団交で当局が組合の要求を一部押し返した形の妥協案を示し、組合の意向を打診し組合もこの内容で妥結しました。

その後、登庁した市長はこの妥結内容に不満を示し、容認しなかったとのことです。

この覚え書の標題には「小金井市長と自治労小金井市職員組合執行委員長との協議事項にかかる結果について(覚え書の交換)」とあり、文頭は「東京都小金井市長鈴木誠一を甲とし、自治労小金井市職員組合執行委員長M・Yを乙として、甲乙協議の結果次の通り覚え書を交換する」とあります。

その内容は、10項目の合意事項が列記されており、その4に「年齢別最低保証賃金制度の実施は不均衡の是正の措置を含め、全職種を通じて別表2の初任給基準表を用いるものとし、同表により在職者調査を行う」とされており、5で「経験年数換算分の調整の実施は昭和39年度までに完了するものとする」とあります。そして、合意日は昭和37年3月6日と記されており、この覚え書により小金井市の給与体系は年齢給となり、平成9年の職務給導入まで約35年間、人件費問題が小金井市財政に重くのしかかることになったのです。

この覚え書はいわゆる「37協定」と呼ばれますが、不思議なことに、この文書には市長印がないのです。

(つづく)