走り続けた16年(221)

街づくりに重要な お二人②

平成11年4月市長に就任早々、街づくりに重要な小金井市民である元・東京都建設局長・技監であった、多摩都市モノレール社長の木内孝蔵氏にお会いしました。それは、平成8年2月29日大久保慎七市長と木内氏で交わされた覚書の確認でした。内容は、武蔵小金井駅南口の再開発を実施するのであれば、駅前の交通広場は都が責任を持って建設するという内容であり、交通広場の事業費は60億円と試算されており、本来市が負担すべき30億円は都が国費を導入して完成させるというものです。

これは、東京都が都道の管理を地元市に移管したいとの考えによるもので、小金井市は広場整備完成までに広場を市道として認定し広場整備完了後はすみやかに都から移管を受け、その管理を行うとする内容のものです。

この覚書の有効性を確認させていただくためのものでした。

中央線三鷹〜立川間の高架化は昭和44年以降、具体的に進められてきましたが、小金井市が了解しないことから事業は延び延びになっていました。それは、小金井市の地元負担金が80数億円とされ、財政危機の続く小金井市には厳しいもので、簡単に同意できる状況にはありませんでした。

それが、平成に入った頃から市議会も地元負担やむ無し、との考えになったことから動き出しました。これに対し、都は種々の支援策で応えてくれたのです。この平成8年2月に締結された交通広場の建設の覚書もその一環といえます。

木内氏には市の街づくりに対し大変お世話になりました。

小金井市の街づくりに欠くことのできないもう一人は武蔵小金井駅南口の再開発予定地に大きな権利を有するH・M氏でした。

昭和48年市制施行15周年を記念し「第1回市民まつり」が盛大に行われました。従来、分散されて行われていた文化祭や商工まつり、子ども部門等を統合し、盛大に行われました。メイン会場は現在イトーヨーカドーの位置にあった公会堂や、その南のH・M氏所有の更地(現在マンション・コスモフォーラム)を借用して行われました。丁度、私が小金井市に転入してきた時でした。市民まつりは、その後も公会堂周辺をメイン会場に回を重ね、年々盛大になっていきました。

昭和55年9月市議会定例会で「第9回市民まつりの終了後、市はH・M氏所有の更地約2千平米を借用し、収容台数1千800台の駐輪場として使用するため本格的な整備に入る」との報告がされました。放置自転車対策が市民要望のトップであり駐輪場の建設が急がれていました。

それが、次の12月定例会で星野平寿市長の不適切な出張問題が表面化し、その責任をとって、17日の本会議で辞任の挨拶。しかし、3日後にこれを撤回することで市政は大混乱となりました。

年が明け、市議会は市長不信任案を可決。星野市長は自らは辞職せず、議会の解散を選択しました。その市議会議員選挙の結果は反星野一色となり、市長は辞職しました。星野市長と親戚関係にあるH・M氏と市との間に一定の約定はあったが正式契約はなく、市長が代わることから、用地の原状回復、明け渡し請求があり、これに対抗するため市は市民であるH・M氏を訴える形になりました。

(つづく)