走り続けた16年(243)

強力な市・職員組合

小金井市は非常に潜在能力の高い町です。都心からJR中央線で30分程度に位置し、水と緑に恵まれた自然環境にあり、市民の意識は高く、その担税力は全国でもトップクラスにありながら、街づくりは遅れ危機的財政状況が数十年も続き、文化施設やスポーツ施設など公共施設の不足は市民の悩みでもあり、不便な生活を強いられました。なぜ武蔵野市や三鷹市、府中市など近隣市と比較して、市民サービスとしての還元が少なかったのか。

それは、市制施行当時から尖鋭化した職員組合に対し当局が適切な対応ができていなかったことが長く尾を引いたことと、昭和46年から2期8年間の革新市政でさらに組合が強力になったことに起因します。それは、市民にとって取り返しのつかない大きな損失となりました。

昭和33年、小金井市が市制施行を契機に職員採用を地元中心から広く公募で行うことにしました。それまで必要に応じて地元の人を選考等で採用していたのが、ここで大学で学生運動などを経験した新卒の学生が入所してきました。

公募で採用された20歳代の若者を中心に給与等労働条件の改善を求める声が次第に大きくなり、昭和36年1月それまで互助会的な活動を主とし、話し合いにより交代で管理職が執行委員長等を務めてきたポツダム組合が、慣例を破って入所早々の24〜5歳の若手職員が立候補し、若手平職員による執行部が誕生しました。闘う組合が無投票で再建・結成されました。これを、組合は無血クーデターと表していました。

怖いもの知らずの若手執行委員は早速賃金闘争に取組み、その要求は強引で当局は慣れない守りに必要な理論武装が不十分なことから、労使交渉は組合のペースで進みました。

同時に懸案の、全国の地方公務員による組合組織である自治労(全日本自治団体労働組合)に加入し、全国的な公務員共闘の第一次賃金闘争に参加することにもなりました。

当時の職員の待遇は必ずしも恵まれていたという状況にはありませんでした。特に中途採用の現業職員の待遇は厳しいものでした。そこに、御用組合から脱皮した職員組合は初めての賃金交渉に取り組んだのです。

交渉に当たる執行部は臨時大会での決定を実現させるため、当局に要望を飲ませることに懸命でした。

昭和36年2月の組合の臨時大会では人事院の勧告に沿う市の給与改定案を拒否。独自の要望を提案し、組合の要望が生かされる結果になりました。また、懸案だった時間外手当支給の頭打ちの解消や、一時金(賞与)の支給を勤務評定によることを止めさせるなどに成功し、組合活動の意気はいやがうえにも盛り上がりました。

当時、助役を務めていた鈴木祐三郎氏の体調不良により、鈴木誠一市長は同級生の東京都職員だった関綾二郎氏(二代目市長)を昭和36年12月に助役に起用し、職員組合との交渉に当りました。鈴木助役は昭和37年3月末に辞職しました。

昭和37年1月、臨時大会は第二次賃金闘争に取り組む方針決定のために開かれました。

組合の発想は賃金は生活給であり、誰でも一定の年齢になったら差別なく最低の保障を受けるための「年齢別最低賃金制度の導入」を打ち出したのです。

(つづく)