走り続けた16年(276)

給与制度の革命

平成10年3月に定年退職する33人の職員の退職金が財源不足により支払えない状況に陥り、全国的にも異例な退職手当債(借金)9億5千万円の発行を平成9年2月市議会の一般会計予算に計上し議論の末に議決した。

しかし、起債(借金)するには国と都の許可が必要であり、総務省は小金井市に起債の条件として多すぎる職員の削減、公共料金の市民負担の適正化、そして、年齢により給与が決まる年齢給から職務・職階による職務給への変更を許可条件とした。課題は昭和37年の「幻の37協定」に基づいて制定され35年間も続いている「年齢給」を「職務給」に変えることであり、部長も一般職も、現業も事務職も、職務・職階、職歴、学歴も関係なく年齢が同じなら同じ給与の悪弊を改善することで数年前から職員組合に提案していたが、既得権を頑強に守ろうとすることから交渉に入ることすらなかった。

しかし、仲間であり組合員である職員の退職金に直接係わる問題であることから平成8年度の団体交渉からは無視することにはならず、12月27日当局は改善策を提案。翌9年5月21日に具体的に給与表を提示し交渉が続いた。同一年齢であっても職務・職責により賃金格差が生じることになり、現業と非現業間でも格差が生ずる当然の職務給への移行です。給与制度改正の絶好のチャンスが到来したのです。

また、9年3月に行われた市議会議員選挙では給与制度の改革を主張した候補者が多く当選を果していた。

労使交渉は膠着状況になりなかなか進展しません。私は、労使合意ができないことを理由に市長が給与条例の改正案を議会に提案しないのであれば、議員提案で条例の改正をする準備を進めた。私の作成した給与条例の改正案は市長案より厳しいもので、その条例案に不備がないか担当部課にチェックをお願いした。これにより、私が条例案を準備していることが組合側にも当局にも広がった。

大久保市長の答弁から「国は給与制度の改正ができなければ赤字再建団体(倒産)になるのも止むを得ない、再建団体にした方が再建が早い」との見解を持っていることを知った。国の厳しい対応は望むところであった。

組合は当局の提案を拒否すれば、市議会の構成から議員提案の職務給導入の条例改正が可決される見通しから決裂を避け労使協議は継続された。

労使は12月中旬からは連日のように公式・非公式の折衝を行っていた。起債申請のタイムリミットである10年2月16日共産系の小金井市職員労働組合との交渉は決裂した。しかし、主となる自治労小金井市職員組合の執行部は「妥結せざるを得ない」との雰囲気に傾いた。そして、組合の緊急拡大職場委員会で妥結案が説明された。もし、起債ができなければ組合員の定期昇給やボーナスのカットも想定され、妥結しなければより厳しい議員提案の賃金体系になることなどが説明され、時間をかけて同意を求めた。執行部は採決に当たって挙手ではなく拍手での同意を確認し組合員に承認された。

それを受けて待機していた当局と17日未明から開かれた団体交渉で職務給の導入が合意され歴史的な節目を迎えた。より職責と能力、意欲のある職員が給与の面でも恵まれなければならないのです。

労使交渉を常にチェックしてきた私は労使合意ができなければ議員提案での条例改正の準備が出来ていたので不安は無かったが、組合が同意したことで混乱することもなく議会への「職員の給与の一部を改正する条例」の提案となり、本会議に上程後、私が委員長を務める総務委員会に付託された。3月16日の委員会で質疑となりました。主たる質問は二つある職員組合の片方でなく両方の了解を得るべきだとの質問でした。他にも案件が多く採決は日付を越えた1時過ぎとなり、共産党が退席し残りの全委員の賛成で可決された。

30日の本会議も退席の共産党を除く全議員の賛成を得て、35年の長い間市民を苦しめ続け、混乱させてきた年齢給、最悪の制度に終止符が打たれた。

(つづく)

走り続けた16年(275)

職務給導入で組合と合意

昭和33年10月1日の市制施行を記念し、それまで職員は地元から選考で採用していたが、翌年から地元に限定せず大学卒も公募で採用することにした。採用された職員の中には学生運動で活動した者もおり、次年度以降はその活動仲間を誘って受験させ入所するようになった。

36年1月、それまで職員組合の執行部は役所の管理職が交代で務めていたが、引き受け手がなく入所数年の若手の平職員が過去の推薦の慣例を破って立候補し就任した。戦い慣れた怖いもの知らずの新執行部に対し、これまで仲間内の御用組合を相手にしてきた管理職では到底太刀打ちできなかった。

発足早々の若い組合は目の前の賃金闘争に勝利し、意気上がり組合員の期待も膨んだ。

2月の団体交渉で「年齢給」を意味する年齢別最低保障に当局から前向きな発言が出たことで組合は勢い付き、違法なストを構えての交渉となった。

当時の会議録等によれば、団体交渉が続く3月4日は日付を跨いだことから鈴木誠一市長は団交を関綾二郎助役(2代目市長)や労務担当者に任せて帰宅した。後を任せられた助役以下は何とか妥結に持ち込みたいと組合側と交渉を重ねた。5割や3割休暇、超過勤務の拒否などの違法な実力行使で行政執行に支障を来していたこともあり、当局は朝8時30分にこの内容なら市長も納得するだろうとの思いから組合と妥結した。しかし、登庁した市長はその内容に不満を示し激怒したとのこと。そのため、この覚え書きに市長は署名・押印しなかったのである。それが「幻の37協定」と言われる所以である。

この「37協定」による年齢別最低保証制度は学歴や職歴、職務・職階に関係なく年齢により給与が決まるもので、組合は大根一本、サンマ一匹、部長が買っても平職員が買っても値段は同じ、との屁理屈が原点であり、勤労意欲に欠ける職員には歓迎の制度だった。

「協定」は市長の署名がなく幻に終わったが助役をはじめ労務担当職員が一旦合意していたことからか3月定例会に「協定」に倣った「職員の給与に関する条例の一部改正」の議案が提案され議決されたのです。これがその後、長い間小金井市財政を苦しめる根源となる「年齢給」の導入だったのです。しかし、総務委員会や予算特別委員会でも特段の議論にはならず、本会議で与党の保立旻議員(5代目市長)が追求したが及ばなかった。

これは、職員の勤務意欲を失わせ職場の活性化を阻むものであり、この改正された条例は、地方公務員法第24条第1項の「職員の給与は、その職務と責任に応ずるものでなければならない」との法に反するものでもあった。「37協定」には10項目であり、その中身は②年齢別最低保障。③在職調整を行う。それは⑤昭和39年度までに完了する。⑧外部への公表については甲乙協議の上決定。さらに、⑩本覚え書きの交渉過程において発生した(法律違反など)諸問題についての責任は追及しない。というものでした。

問題は「37協定」が幻にも係わらず鈴木市長の後の、関、永利、星野、保立、大久保と歴代の市長も給与改定等において「所謂『37協定』による給与の調整」という1項目がついて回っていたのが解せないのである。

この年齢給とともにその後50年前後の革新市政による大量職員の採用が小金井市民を長い間苦しめ続けた。

(つづく)

走り続けた16年(274)

職員の退職金が払えない

200人の職員削減を公約に平成7年4月大久保慎七市長が3期目の当選を果しました。

昭和62年4月からの2期8年間はバブル経済の波に乗り、遅れていた公共施設の建設に取組み、緑児童館、土水会館、東センター、総合体育館、三楽集会場、緑センター等の開館や清里山荘の改築、浴恩館公園の整備、そして44年から続いていた公共下水道工事の竣工と長い間の市民要望に応えたもので、本市にとって最も発展した華やかな時代でした。

しかし、その間も財政危機は続いており大久保市政の12年間、市財政の指標である人件費比率は庁舎建設用地として蛇の目工場跡地を取得したため予算規模が膨らんだ平成4年度を除いては常に30%台であり多摩全市の平均を常に10%以上も高い状況が続いていた。

大久保市長就任前の15年間での9年は人件費比率は40%台であり全国ワースト1位を繰り返していた。公共施設は増やしたが職員を増員しないで踏み止どまっていたが、この12年間に要した小金井市の人件費の総額は約1千117億円であり、これを多摩全市平均の人件費比率で収めれば約124億5千万円が節減されることになり、都や国の補助事業であれば400〜500億円の事業が可能だったのです。

職員の増員は押さえたが74億円でスタートした人件費は革新市政時代に採用された大量職員の年齢が上がるにつけ、80億円90億円と吊り上がり、ついに、平成6年度の人件費は100億円超となり、それが7、8年度と続き、財政の弾力性を示す経常収支比率は全国664市の中でワースト1位になってしまった。

平成6年頃から大久保市長は度々「早晩職員の退職金が払えなくなる時が来る」と発言していた。6年度に(財)日本都市センターに委託した「行政診断調査報告書」でもそれが指摘されていた。

その時が到来した。平成9年は市議会議員選挙の関係で2月に開会した定例会の9年度一般会計予算に退職手当債(借金)9億5千万円が計上された。

市民の声は職員に厳しく、退職する職員の退職金がなければ払わなければいいとか、これまでの市民に奉仕してきた職員の退職金を将来の市民に返済させるのはおかしい、等多くの意見が出ました。市議会では何かの事業を削って、とか、別の目的を持つ基金を取り崩して、とか、市有地を売却して等、色々な意見が出されたが私たちは借金もやむを得ないと判断し予算は可決された。予算は可決されてもそれを執行するには国や都の起債許可が必要になります。市独自の判断だけでは借金はできません。

この直後に行われた市議選は退職手当債に対する批判もあって与党自民党には厳しい審判になったが私は4選を果しました。私はこのピンチをチャンスに変えようと考えていました。

本来、税収に恵まれて地方交付税の不交付団体でもある本市が退職手当債に頼るのは問題であり、国も都も大きな改革を許可条件にしたのです。

それは、職員削減、適正な市民負担、そして、「37協定」に伴って続いていた給与制度の改正でした。

いよいよ35年間小金井市を蝕んできた病根の摘出です。同一年齢同一給の年齢給を法に基づく職務・職階による職務給への改革の時が来たのです。

(つづく)

走り続けた16年(273)

職員二〇〇人削減へ

昭和51年度の全国自治体の財政状況を日本経済新聞が調査し発表した。革新市政の小金井市が人件費比率でワースト1位になり、以後ワーストを繰り返していた。この原因は職員が200人過剰だというのが行革を標榜する議員の主張でした。これを職員組合を含め市全体の共通認識にするにはどうしたらいいかと常に考えていた。

平成5年9月議会の私の一般質問でかなり前向きな答弁が出ました。そして、翌年2月1日の総務委員会で3期目に入った今は亡き同期の小川和彦議員と「今日の委員会で何か成果を上げたいね」と話して臨みました。大久保慎七市長2期目の任期も残り1年で予算編成も最終局面であり、ここで行革を一歩でも進めなければとの思いがあった。

委員会で市長から、「職員の退職金を支払う自信がない、大変深刻な問題だ」、また、「起債(借金)が認められない状況もある」とかなり厳しい答弁が繰り返された。

また、前年11月、助役を座長に部長職による行財政対策会議を設置した、との報告があったが血を見る改革は内部からでは無理だと私たちは主張した。

私の、外部の専門的第三者機関に委託すべきとの提案に、市長は「(星野市長時代に助役として)行対審のあの紛争の状況は空恐ろしくなる。行対審で外部の委員に大変迷惑を掛けた」、「理論的に他に委託は可能だと思うし、市民参加がいいか、もっと別の方法がいいか十分考える必要がある」との答弁を引き出しました。

委員会終了後、市長室で大久保市長と二人で話し合い、外部の専門的第三者機関に委託することで意見が一致しました。市長の了解を得たことでその足で既に決定している予算(案)に委託費を加えるよう企画財政部長に伝え、担当職員の「金額は?」に私は1千万円を要求しました。

1か月後の定例会に提案された平成6年度予算(案)に行政診断調査委託費として721万円が計上されました。総予算は453億6千万円その内の一般会計312億9千万円と比べて、決して大きな金額ではないが行革に反対する議員の執拗な質疑は続きましたが、予算が可決され(財)日本都市センターに行政診断が委託されました。

翌7年3月、小金井市行政診断調査報告書が(財)日本都市センターから納品されました。その緑の表紙の報告書を私は「小金井市行革のバイブル」と呼んでいました。その調査は事務事業、組織、定数管理等の現状と問題点を客観的な立場から調査・分析したもので、市の財政難の原因は革新市政時代の大量職員の採用にあり、総合的に判断して200人の職員が過剰だとの診断でした。そして、数年後には職員の退職金も払えなくなると警告しています。この報告書は多岐に亘り今でも行政執行の指針として十分通用するものです。

7年4月の大久保市長3期目の市長選挙は前回に続き選対事務局長を任せられ、公約の作成など選挙全体を指揮することになった。市長はやるべきことは分かっていると200人の職員削減を選挙公報に掲載することに消極的でした。しかし、公約にすることで、市民の理解が得られたことになり、職員削減がしやすくなるとの私の主張に、最後は了解してもらい、小金井市初の3選を果たしました。

(つづく)

走り続けた16年(272)

市の病巣にメスが②

小金井市の最大の負の遺産は、長年の常軌を逸した職員組合の横暴とそれを許してきた当局の無力さである。それにより市民は取り返しのつかない財政的な損失を被ったのである。それは、文化、教育、運動施設の不足や街づくりの遅れ等に顕著に表れていた。

市役所内では仕事をしない組合員が幅を利かせ、真面目に仕事に取り組む職員が小さくなり肩身の狭い思いをしていた。この状況を打開するには組合の体質を変えることでした。その組合を支えていた病巣が維持補修係と施設管理係でした。

昭和58年6月、新たな施設警備の導入により任用換等の人事が発令され、この人事に不満の職員が当局を提訴した『丸井裁判』で組合の人事への介入が明らかになった。この裁判で証人として出廷した人事の所管である企画部人事課の部長も課長も関知していないと証言し、管理部長からは異動案がすでに作成されていて、そのまま執行するよう一職員から指示された、と証言した。組合に批判的な職員には本人が望まない職場に異動させることで職員をコントロールしていたのです。訴えは棄却されたが組合の介入が明らかになり、組合は分裂の兆候があらわになった。

昭和62年9月の定例会で大久保慎七市長から「学校施設の管理業務について」の市長報告があり激しい議論になりました。定例会最終日「学校施設管理に関する決議」が共産党を除く全議員の賛成で議決されました。

この決議の内容は①市民が納得できる管理方式を。②分散してる事務室を一か所に。というもので、私の悲願である財政健全化を進めるために必要な条件整備の内容でした。

私の主張の①は、機械警備で市内14校の学校警備は機械化すれば1校分の財源で済むのです。目指すのは公共施設の全ての機械警備です。②に関しては、施設管理係の係長は、天皇とも影の市長といわれるカリスマ的支配の組合執行委員長であり、仕事は本庁舎で宿直した職員からの報告や、駐車場管理の姿を見たこともなく、報告に要する一日の勤務時間は15分とのことであり、市民からも職員からも見えない個室での特別扱いを止めさせることでした。

この決議の内容が全く進展しないことで、私はこの実情をチラシや壁新聞、街宣車で「影の市長」を実名で批判しました。触れてはいけない所に手を入れたのです。覚悟の上ですが、駐車場にある私の車への悪戯や日付を超えての無言電話。注文しない25人前の寿司や蕎麦の出前。パトカーや救急車が我が家へ急行。私の自転車のカゴに詰めた新聞紙に火が付けられ警察の出動となる。遂に警察官が狭い我が家に張り込むことにもなった。犯人は特定できなかったが私の行動と一連の嫌がらせ時を同じくして起こったのです。

次の12月定例会の総務委員会で、私の「市議の市政ニュースに関して」が、翌年3月定例会では私と組合の絡みを大久保市長が組合に公文書で謝罪したことが議論になった。

時を経て、改革が進み、学校をはじめ公共施設は全て機械化され90人超の施設管理係は維持補修係40人と同様現在は正規職員ゼロになっています。

また、「影の市長」は異動されることもなく退職しました。

(つづく)