走り続けた16年(151)

保立旻市長辞職⑥

小金井市長5代目の保立旻氏、昭和60年5月からの市長2期目の2年間は、私の議員としてのスタートと重なるもので、市政の諸課題について、市長の近くで貴重な体験をさせてもらいました。

強力な労働組合を相手に行革を強引に進めた星野平寿市長を、任期途中の2年で辞職に追い込んだことから野党や労働組合はさらに勢い付いていました。

昭和60年3月の定年退職制度の導入で、年度末に大量職員が退職し、その補充を求める労働組合と、欠員の不補充を政策として掲げる市長と、2期目就任早々、真っ向からの対決となりました。

議員になって目の当たりにする労使関係は驚きの連続でした。それは、市長や管理職者に対する一部職員の対応は暴力的であり、肉体的にも精神的にも、さらに、自尊心をも傷つけるものであり、市民には想像できない労使交渉の連続でした。結局、現業職5名の採用で労使は妥結しましたが、2期目2週間で安定多数の与党体制にひびが入りました。

また、昭和60年2月に、進めていた二枚橋焼却場の建て替え計画は、「二枚橋の建て替えに合わせて他所に第二工場の建設を」という小金井市議会の全会一致の決議により、調布市、府中市の猛反発となり「この決議がある間は、建て替え計画は進められない」と、完全に暗礁に乗り上げてしまいました。保立市長は、この決議と調布、府中の両市の狭間で大変厳しい対応をされていました。この決議がその後に続く小金井市のごみ問題の端緒になったのです。

さらに、昭和61年12月定例会で、与党の一部も賛成して可決した「老人入院見舞い金支給条例」を、市長が自らの「政策的見地と相入れない」として再議に付したことから、その本会議等での扱いに議会は空転が続きました。議会がこの条例を再度可決するには3分の2以上の賛成を必要とし、それが困難なため、賛成した議員の反発が非常に強く、その調整に年を越すことになりました。これに要する財政負担は多くても450万円というものだったのです、が。

そのような混乱の中、昭和62年2月2日深夜、小金井市も構成市である公立昭和病院の総務部長が収賄容疑で逮捕される事件と、翌3日の庁議を欠席し、高尾山薬王院の節分祭に私的に参加していたことが重なったことが野党の攻撃の標的になってしまいました。さらに、高尾山で市長が転倒して足を骨折したことが問題解決を困難にしました。

市長は、条例を再議に付して否決することで与党代表と合意していたにもかかわらず、自然閉会(流会)で審議未了廃案の方法を取ったことに、与党体制の崩壊と感じ、辞職を決意したのでした。

保立市長2期目の2年間を真近で見て、内憂外患厳しい課題の連続で、その対応に追われていました。私自身与党の一員として全体の流れを変えるには経験不足、力不足を痛感するものでした。

保立市長は、2月12日の自然閉会の翌日13日、議長に退職願いを提出し、20日後の3月5日午前零時をもって任期を2年余り残し、約6年の市長職に終止符を打ちました。これによって小金井市長は2代続いて任期途中での辞職となりました。

(つづく)

走り続けた16年(150)

保立旻市長辞職⑤

昭和61年第4回(12月)定例会は12月8日に開会し、会期を12月24日までの17日間と決定しました。しかし、会期末の24日、先ず、1日の延長、続いて29日、さらに20日間延長し、異例の67日間に及ぶ会期となりました。

次の昭和62年第1回(3月)定例会開会が目前に迫る昭和62年2月12日に自然閉会(流会)となり、大きな争点となっていた老人入院見舞金支給条例を含む議案、請願・陳情の計51件は審議未了・廃案となりました。

その前年の昭和60年12月議会も、都の情報連絡室報道部庶務課長であった市川正氏が助役に選任されたことから「都からの出向人事であり自治権の放棄につながる」との主張で野党議員や職員団体の猛反発となり、12月12日、初登庁した市川氏を大勢の職員が取り囲み、罵声を浴びせるなど市長室は大混乱になりました。その対応に議会も大混乱となり、結局、自然閉会となってしまいました。2年連続しての自然閉会から、12月議会を「魔の12月議会」という一時期もありました。

今回の混乱の原因は一旦成立した議員提案の老人入院見舞金支給条例が、市長自らの「政策的見地と相入れない」として再議に付したことからで、議会がこの条例を再度可決するには3分の2以上の賛成を必要とし、それが困難なため、賛成した議員の反発が非常に強くなったのです。

ようやく最終日の2月12日、議会運営委員会で再議の扱いを、本会議に上程したうえ厚生文教委員会に付託することで与野党の合意が整ったにもかかわらず、午後5時前、会議時間の延長を諮るに際し、出席議員が半数に達せず午後5時を経過し、自然閉会となり、再議に付せられた老人入院見舞金支給条例は審議未了・廃棄となりました。しかし、市長は、本会議で否決することで解決するとの考えで与党代表と合意していたにもかかわらず、自然閉会で審議未了廃案の方法を取ったことに納得できず、与党体制が崩壊したと感じ、現状では3月議会は乗り切れない、人心の一新が必要だ、と考えたようでした。

流会による審議未了廃案と、再議による否決と市長と与党での思惑が違っていました。

自然閉会が決定した午後5時過ぎ、保立市長から「これでは続けられない、辞めたい」との言葉を聞かされました。事の重大性からその真意を聞くため同僚議員と2人で市長宅に行き、3人で遅くまで話し合いました。途中で近くのうなぎ屋さんから届いた鰻重を食べながら話し合いが続きましたが、保立市長の意思は堅く、翻意には至りませんでした。

辞任の理由については、3月議会に持ち込まれれば乗り切れない。議会が再議の議案を上程しない。与党体制の崩壊である、などを話していました。

翌朝、登庁する保立市長を待ち受け説得を試みたが、市長の意思は堅く、そのまま、用意していた退職願を持って議長室に入り議長に手渡し受理されました。その後、報道機関への記者会見を開き辞職を公にしました。

市長は、その後に開いた臨時会等に出席することもなく、3月5日午前零時をもって退職となりました。

議員になって1期目前半の2年は私には驚くことの連続でした。

(つづく)

走り続けた16年(116)

市議会議員、そして、市長として③

本来、住んでいる自治体によって市民サービスに優劣があってはならないことです。

昭和59年度一般会計決算は小金井市民一人当たりの個人住民税が651市で5位、多摩地域では武蔵野市に次いで2位の納税をしながら、市民サービスは近隣市と比較して大きく劣っていることに市民は怒らなければなりません。まして、その原因が人件費にあり、その比率41・2%は全国ワースト1位なのです。市民のための市政とは到底いえない行政が長い間続いていたのです。この状況を打破するため、昭和60年に予定される市議会議員選挙に、立候補する決意をしました。

昭和58年の土屋正忠氏の武蔵野市長選挙や、就任直後、大混乱の中での高額退職金是正の公約を果たす土屋市長の言動を目の当たりにし、私は市政は変えられるし、小金井市政も変えなければならないと確信しました。

小金井市に転入し10年が過ぎたとはいえ、親戚一軒友人一人いない町に越してきての選挙は厳しいものがありました。相談する人もいない中、ひとりで決断するのです。

昭和60年の新年を迎えるに当たり、その年賀状に立候補を決意したことを表す文言を記載しました。しかし、それを投函する勇気が出ず毎日年賀状とにらめっこが続きました。そして、元旦に届くタイムリミットの日、もう後戻りはできない、と自らに言い聞かせ、ポストに入れました。

新しい年を迎え、地域の有力者や市内4か所に加入している商店会の役員を訪ね、私の考えに理解を求めることから始めました。知名度が全く無く、話を聞いてもらえれば上出来と言う状況でした。その様なとき、市議会議長も務められ、地元で非常に信頼の厚い大久保耕吉氏の支援が得られたのです。

大久保氏からは「稲葉さんは地元に溶け込んでいます。郷土を愛する若い政治家が育つことに期待しています。緑町の地域代表として頑張って下さい」とのメッセージはすぐにリーフレットに使わせていただきました。

また、2年前に武蔵野市長に就任し、飛ぶ鳥を落とす勢いの土屋正忠氏の応援もいただくことで泡沫候補からは脱却しました。

私の選挙公約は行財政改革が主体です。それは、職員定数の削減、給与制度の是正、業務の民営化の推進、昼休みの窓口業務の開始等、活力ある市役所づくりです。また、三鷹—立川間の高架化や駅周辺整備など街づくり、教育や環境問題、そして、情報公開を積極的に行うことを約束しました。

自分の日頃の持論をマイクを通して言えることは大変に気持ちの良いことですが選挙の結果については非常に不安でした。多くの候補者の選挙戦での訴えは行財政改革でした。

選挙戦残り1日となった金曜日夜、土屋市長と票読みをしました。少ない票田を積み上げた結果、1千150票で中位で当選と判断しました。その時の土屋市長のメモは今でも大切に保管しています。

3月31日が投票日、翌日4月1日の開票で、私の得票は1千151票、19位で当選させていただきました。

市議選が終えて間もない5月は市長選挙です。自らの公約実現には保立旻市長の再選がどうしても必要です。

(つづく)

走り続けた16年(17)

財政健全化への闘い⑨

昭和60年4月5日、私の選挙後の市議会議員としての任期がスタートしました。

当選した議員の選挙公約は、職員削減による行政改革で人件費問題を改善し、財政を健全化することが全体の主張であり、それが議会共通の認識でした。

行革には批判的な共産党の候補者ですら、中身は分かりませんが「『行財政改善委員会の設置』で無駄のない市政」等を公約とする程でした。党派を超えて職員削減が最大の課題だったのです。

市議選の約2カ月後の市長選挙では、二期目を目指す保立旻市長の選挙公約も、第一は「行財政改革をさらに推進します」とし、具体的には「民間活力の導入による職員数の削減」を掲げました。

結果、次点の候補にダブルスコアで再選を果たした保立市長の二期目が、5月31日から始まりました。

前任期中に定年制を導入したことから多くの退職者が出たこともあり、職員組合はその欠員補充を激しく求めてきました。交渉は、成立した予算の定数に余裕のある5人の職員を採用するか否かでしたが、保立市政を支持する議員、そして市長本人も直前の選挙公約は職員の削減でした。

連日、長時間の、常軌を逸した激しい交渉は、市長、助役をはじめ担当者にとっては、精神的にも肉体的にも苦痛を伴い、自尊心をも傷つけられるものでした。

その結果、ついに6月12日労使による覚書きが締結され、5人の現業職員の採用が決まりました。

当欄6月1日付の⒀号に記したように、保立市長が職員組合と市議会との軋轢(あつれき)、そして、選挙公約との関係から辞職を考えたのはこのタイミングだったのです。二期目が始まって、まだ2週間の時点にです。

大久保慎七助役がその責任を取る形で10月に辞職し、後任の助役に東京都の職員である市川正氏の選任同意議案が12月議会に提案され議員の質問に保立市長は「大久保助役は6月頃から辞任の意思を示されており慰留は無理だった」と答弁しました。市長選挙に勝利して間もない時点で市長も助役も辞めることを考えていたのです。

革新市政の昭和48年4月、警備職場が1施設3人制となり、その体制は、1日働いたら2日の休みを繰り返すという勤務体系となりました。

昭和52年4月、職員定数の一部改正が議会で可決されてしまいました。それに伴って、その警備員は臨時職員の個人委託等から小金井市の正規職員になったのです。

「月に10日の勤務」とか「775万円(年収)の警備員も」等当時のマスコミで多く報じられるなど、この警備員問題は市政の大きな課題となりました。

昭和62年9月議会で①市民の納得を得られる学校施設管理を②施設管理係の事務室を一カ所に、という決議が議決されましたが、当局の対応が遅々として進まず、賛成の私は独自の行動に出ました。

果たして、虎(?)の尾を踏むことになるのか、です。
(つづく)