走り続けた16年(241)

専決処分について

小金井市議会は令和4年10月7日の本会議で西岡真一郎市長が10月14日での辞職を全会一致で認め、市長を辞職しました。

西岡市長は市議会が意見を二分する市立保育園2園を5年かけて廃園する条例案を令和4年9月議会に提案しました。市議会で保育を所管する厚生文教委員会は、廃園に賛成する議員が3人で懐疑的な考えの議員が4人の構成で、懐疑派の議員は専門家を招いて公立保育園についての意見を聞くことを提案。そのため条例等は継続して審査すべしと主張、採決の結果継続と決定しました。委員会での継続審査の結果が本会議で報告されましたが、それについて「反対」の意思表示はなく、本会議で継続審査が確定しました。

もし、1人でも「継続反対」との声が出れば、流れは複雑な展開にはなるが、全く異なった結果になったことでしょう。それは、議会全体を見れば市長提案の市立保育園の廃園を主張している議員が多数を占めていることが明らかだからです。

計画通り廃園するには手続き上、今定例会での議決を必要とする市長は、条例案が継続審査になったことから条例改正を議会の議決を得ない「専決処分」で決裁しました。専決処分とは市長が予算や条例を議会の議決を経ないで決する非常に強力な権限で、災害などで議会の招集が不可能な時や議会が故意に議決をしない場合などに限定されています。

市長が専決処分した場合、直近の議会に報告し承認を求めることとされており、10月7日開会中の本会議で承認を求めたが賛成2、反対20で不承認となりました。意見の異なる重大な条例改正を議会開会中に専決処分することは議会の権能を否定するもので、議会がこれを認めることは議会の自殺行為にも繋がります。不承認となった場合、それに対する対応策を示す必要がありますが、市長にはそれに対応する術がなく辞職を求めたのです。

議会の構成から専決処分をすればどの様な結果になるか、容易に判断できたものを強引に突っ込んだことが理解できません。議会が継続審査を決めたのであれば残り任期の1年2か月の中で市政を混乱させずに当初の目的を達成できたはずで、法的にも問題のある状況で専決処分したのは解せませんし、市長が辞職の道を選択したのも判断に苦しみます。

市長辞職に伴う市長選挙は11月27日に投開票され、市立保育園の廃園を公約する候補者は無く、白井亨候補が共産党推薦の小泉たみじ候補に大差をつけて当選しました。両候補とも市立保育園の存続を選挙公約のトップに挙げていました。

当選した白井市長初議会の12月定例会は会期を縮小し12月16日開会し、26日まで11日間で開かれました。

定例会最終日の26日に上程された市立保育園を存続に戻す条例改正案は委員会への付託を省略し本会議即決とし、活発な議論の末、賛成10、反対12で否決されました。この結果、白井市長の選挙公約は否決され、西岡氏が専決処分し議会が不承認とした2園の廃園が効力を持ち続けることになりました。

私は市長在任中から市直営の保育行政の改革を進めてきたことから、市立保育園の廃園には賛成ですが、それを専決処分で決することには賛同することにはなりません。

(つづく)

走り続けた16年(239)

謹賀新年

新年あけましておめでとうございます。希望に満ちた新春を健やかにお迎えのこととお慶び申し上げます。

昨年のご厚誼に感謝申し上げるとともに、本年も本欄をご愛読いただきますよう宜しくお願いいたします。

昨年を振り替えると新型コロナウイルスの感染とロシアのウクライナ侵攻が世界中を不安に陥れ、それが本年への持越しになってしまったのが残念です。少しでも早くコロナ禍が収まることと、プーチンの狂気の野望が打ち砕かれて終結することを願うばかりです。

小金井市においては西岡市長の市立保育園廃園のための条例改正を議会の議決を経ることなく「専決処分」したことに対し議会に承認を求めたが、賛成2反対20人で不承認となりました。市長はそれに対する対応策を示せず、辞職の道を選択しました。対応策としては元に戻すだけでいいのです。議会は市長案の廃園に賛成の議員が多数を占めているのであり「専決処分」という強行手段が問題で、丁寧に進めれば何ら問題になる案件ではなく、議会対応の稚拙さも影響しました。

新たに就任した白井亨市長の選挙公約は、市立保育園の存続でした。このことから、最初の定例会である12月議会で廃園になっている条例を元に戻す、市立保育園存続の条例改正案を議会に提案したが本会議で否決され、西岡前市長が専決処分した条例が継続されることになりました。

複雑に入り組んだ展開となりましたが、市長選挙での公約の第一であった市立保育園の存続について、白井市長が今後どの様に対応していくのかが注目されます。

明るい話題は、サッカーW杯カタール大会でした。日本チームの大活躍でテレビに釘付けとなり、多くの感動が展開され世界中に夢と希望を与えました。

本年は3月の世界野球大会です。米国で活躍する大谷翔平選手やダルビッシュ有投手等日本人大リーガーの活躍で、再び日本中が熱狂することでしょう。

一方、市民にとって最も身近で重要な市長選挙が最低の投票率になったのは、西岡市長の突然の辞職によることや革新系候補の争いになったことによるものであり、市民の目が市政から離れてしまったことは問題です。

小金井市は市民の担税力が全国トップクラスにあるなど、非常にポテンシャルの高い町です。これを、いかに顕在化させるかです。

私は、平成11年市長就任以来、多くの課題解決とともに、市民が愛着と誇りの持てる小金井市を創ることに腐心し、数々の改革を進めました。

また、平成20年、東京都市長会の政策調査部会長に就任し、市長会の各自治体への共通政策として多摩の知名度アップを目的に「多摩シティプロモーション」を提言しました。その一環として平成25年の「東京国体」が「東京・多摩国体」となり、多摩・島嶼地域を中心に行われ、多摩シティプロモーションの展開となりました。

白井市長の課題である新庁舎建設には、地元のスタジオジブリや日本の標準時を発信する貫井北町のNICT国立研究開発法人・情報通信研究機構等の協力をいただき、JR中央線を利用する人々の目にふれる事により「小金井シティプロモーション」の広告塔になることに期待したいものです。

(つづく)

走り続けた16年(225)

街づくりに重要な お二人⑥

昭和60年4月に市議会議員に就任し、最初の与党会議が大型連休が終えた5月8日に開かれ、6月定例会に提案予定の議案の説明・質疑等があり、自分が市政の政策決定の場にいることに興奮を覚えたものでした。その中に、武蔵小金井駅南口に大きな権利を有するH・M氏との訴訟について、保立旻市長、大久保慎七助役から報告があり、駐輪場用地を返還、使用料と和解金を支払って解決した、と報告がありました。その時は報告を聞くだけでしたが、その後、これが大きな問題を抱えていたことに気付かされました。

その14年後の平成11年4月市長に就任した私が、どうしてもお会いする必要のある人がH・M氏でした。念願叶ってお会いしたのは2か月程経ってから近隣市にある大学病院の病室でした。その場で武蔵小金井駅南口再開発事業の協力の取付けにはなりませんでしたが、昭和56年から4年間続いた市との訴訟に触れることなく、14年間の市との断絶にピリオドを打つことができたことは私にとっては大きな成果でした。

その後、H・M氏に近い方から「同氏が再開発を進めることを望んでいる」との報告を受け、本格的に再開発事業に取り組むことになりました。

そのH・M氏が2か月後の平成11年9月28日逝去されました。享年82歳でした。私がお会いできたのは1回だけに終わりました。

葬儀にあたり市から生花を届けると、業者から受け取りを拒否されたと連絡が入りました。長い間のH家とのわだかまりがやっと解消できたのが元に戻ってしまうのか。私は慌ててH家を訪ね、喪主にH・M氏との話し合いに同席した夫人を交え、その場の状況を伝え、生花は受け取っていただくことになりました。取り込んでいる最中です、帰り際、私の「葬儀に出席させていただきたい」には返事はなく、私は不安でH家を後にしました。

9月30日に行われた通夜式は、私の席が用意されていて係りの人の案内を受けました。そして、翌日の告別式も同様の扱いとなり、安堵しました。

〔今、市政で何が〕

西岡真一郎市長は3月16日の市議会特別委員会で「私は、これまで設計等を大幅に見直すことについては否定的でしたが、市議会が可決してきた決議や市民の皆様、市議会からの多様な意見を踏まえて、設計や建設の時期を大胆に見直すことも含め、市議会の皆様と協議を行わせていただくための場を設けさせていただくことをお願い申し上げます」との発言です。私は、4月11日号の本欄で「市長の庁舎建設方針は非常に重要であり、市民に隠さず『市報』で公にするのが市長の責務ではないでしょうか」と公表に消極的な市長に情報公開を指摘しましたが、5月1日号の市報2面の片隅に小さく「(前略)今後は、現在の実施設計および建設時期を見直すことも含め、市長と市議が協議するための意見交換の場を設置するとともに…」と掲載されました。しかし議会発言と比して市報での論調の落差が気になります。

この市長発言を受け5月10日、市長と全市議会議員による「庁舎等建設に関する協議会」を発足させ、座長に五十嵐京子市議が就任しました。協議会は10月を目途に、事業推進のための論点整理を目的にしています。

(つづく)

走り続けた16年(219)

赤字再建団体への危機

平成11年4月25日の市長選挙で当選が確定し、1時間後には任期に入るという慌ただしさでの中で1日目がスタートしました。

都の行政部から、明後日の午後、2時間ほど時間を取って欲しいという予定が入りました。行政部は市区町村の行政運営に関する助言や連絡調整等が所管であり、多摩各市に対しても財政等大きな権限を有しています。

予定通り28日午後1時30分、行政部長の松澤敏夫氏、地方課(現・市町村課)の松本義憲課長等6名の都の職員が来庁しました。

まず、型通りの挨拶の後、出た言葉は「小金井市の財政は極めて厳しい、このままでは自治体としての存続すら危ぶまれる」ということで、赤字再建団体に陥る可能性があるということでした。

小金井市の財政は、平成元年度からの10年間、課題の人件費比率は平成4年度の蛇の目工場跡地を購入し予算規模が膨らんだ年を除いて、常に30%台で多摩平均を10㌽以上も上回っていました。また、平成6、7年度は財政の弾力性を示す経常収支比率は全国ワースト1位、さらに、平成7年度からは人件費が100億円を超え、9年度は退職職員の退職金が払えず、借金をして支払うという厳しい状況が続いていました。(ちなみに、私の市長最後の平成27年度の人件費は約60億円で就任時比40億円減、人件費比率は32・3%から15・33%と半減しました)

そして、平成10年度、大久保慎七市長は退任の1か月前の3月30日、平成10年度一般会計補正予算(第7回)を議会の議決を得ず、市長による専決処分しました。これは、都の指導によるもので、税の減収に対し歳出の増加により一般会計が赤字になることを回避するため都の支援を受けるとともに、特別会計への繰出しを止めるなどして特別会計を赤字にして一般会計の赤字は回避されました。これを指導したのが、行政部であり地方課だったのです。赤字再建団体に陥る程の赤字幅ではないのですが、危機的財政状況を新任の市長に認識させることが目的で設定された会議のようでした。

市議会でも赤字再建団体の議論はありましたが、再建団体に陥れば、国の管理化で指導・監督を受けて財政再建を進めていくことになります。それは、実質的に地方自治でなくなり、再建計画に基づく厳密な予算が組まれ、保育料や国民健康保険税など公共料金の値上げ、独自の福祉施策の廃止・縮小、建設事業の中止・延伸、職員や人件費の削減など、市民にはサービスは低下し、負担は増加することになります。

私は市の財政状況は十分に理解しており、自主再建のため全力を尽くすことで都は特段の協力依頼で、応えてくれました。

【今、市政で何が】

市議会第1回定例会は、今期を4日延長し3月28日の最終日、西岡市長は「令和3年11月以降、庁舎等複合施設建設事業等の具体的な方針が提示できなかったこと、また、今定例会の議会日程に影響を及ぼしたことに、市長としての責任を明確にするため」とし、自ら4月分の給与を10%減額する条例を提案し賛成15で可決されましたが、7人の議員が反対してます。責任を取るというなら中途半端な提案でなく、全会一致になるよう思い切った提案が必要だったのではないでしょうか。

(つづく)

走り続けた16年(218)

市長任期のスタートに当って

統一地方選挙で当選した市長の任期は一般的には5月1日からですが、小金井市においては第4、第5代市長が任期途中で辞職したことから、大久保慎七市長の任期は平成11年4月25日までであり、市長選挙の当選が確定して1時間も経たない内に、私は市長の任期に入りました。

同時に5選を果たした土屋正忠武蔵野市長の選挙事務所から明け方近くに自宅に帰り、新聞に目を通し、テレビを見て、慌てて職員向け就任の挨拶文に手をつけました。

午前10時からの選挙管理委員会の当選証書授与式に出席するため、ひとり歩いて第二庁舎へ。当選証書を手に大勢の市民や職員が迎える本庁舎へ。支援してくれた市民や議員、それに職員の出迎えを受け、玄関前で決意表明や花束が贈られるなど型通りのセレモニーの後、皆さんに見送られ市長室へ。

早速、理事者と部長職による第一回の庁議を開く。続けて、第一会議室で管理職を集めて就任の挨拶は市役所全体に流されました。

それは「職員との対話を重視し信頼関係をもって、この危機的状況の財政再建、遅れている中央線の高架化や駅周辺の整備、そして、介護保険の円滑な導入を皆で力を合わせて乗り越えていきたい。職員の皆さんは民間企業の厳しさを認識し、目標を持って仕事に取り組んでいただきたい。仕事はミスを恐れず、今までの倍以上の意欲をもって積極的に行動してほしい。そこで起こった責任は市長である私が取ります、お互いに力を合わせて頑張りましょう」これが私の職員に向けた最初の挨拶でした。

早速、担当職員との日程調整です。「明後日の28日の午後、東京都の行政部長が是非お会いしたいので2時間程時間を取ってほしいとのことですが」とのこと。就任して3日目に都の市区町村を所管するトップの職員が何の目的で来るのか。

そして、28日午後2時、行政部長松澤敏夫氏、地方課長松本義憲氏等6〜7名の都職員が来庁し、話し合いが始まりました。

【今、市政で何が】

令和4年3月定例会の16日に開かれた特別委員会で西岡真一郎市長から、庁舎等複合施設について重大な発言がありました。

まず、「第1回定例会の議会日程の変更までも余儀なくする結果となり、議会運営への混乱をもたらしたことを深くお詫び申し上げます。そして何よりも市政運営への不安を与えてしまった原因は全て私自身にあります。誠に申し訳ございませんでした」とし、「庁舎等建設は、市議会の皆様と市民の皆様と行政が一体となって一緒に作り上げていくものです」とのことです。しかし、この文言は6年前の平成28年10月、「庁舎建設をゼロベースで検討を」の時に使われたものです。さらに「市議会や市民の多様な意見を踏まえて、設計や建設の時期を大胆に見直すために、市議会の皆さんと協議の場を設けます」とし、「市議会と合意した場合も市長ひとりの成果としないことを明言する」とのことです。市民のために成果を挙げるのは当然であって、自分の手柄にはしないとの趣旨のこの発言に違和感を覚えます。

また、市長の庁舎建設の方針変更は非常に重要であり、市民に隠さず「市報」で公にするのが市長の責務ではないでしょうか。

(つづく)