走り続けた16年(197)

街づくりへの挑戦 中央線高架③

国家的事業ともいえる中央線三鷹〜立川間13・1kmの鉄道立体化事業推進のため、東京都は平成元年度900億円の基金を積み立て、平成2年度500億円を積み増しし、年度末には1千400億円とすることで、鉄道立体化に向け事業推進に確かな取り組みが見えました。それは、バブル経済の影響によるものでした。

都にとっての鉄道立体化は中央線だけでなく、府中市の京王線、狛江市は小田急線も立体交差化を進めており都市側負担の都と市の割合は7対3での対応となっていました。

昭和44年に多摩地域の各自治体により設立された「三鷹〜立川間立体化複々線促進協議会」が国や都に事業の推進を陳情するが、ネックになっていたのが「小金井市の負担ゼロ」でした。そのため、昭和60年、積極推進の武蔵野市長土屋正忠氏の応援を得て当選した私には、土屋氏をはじめ多摩各市の多くの市長から積極的な情報提供がありました。

武蔵野市と立川市が基金積み立てを先導し小金井市をはじめ沿線市に基金の積み立てを要請。三鷹市と国立市は事業化が決定し、状況の推移をみて対応するとなりました。かつて本事業が進捗しないのは、小金井市が「負担ゼロ」を強く主張していることが原因だとの認識を都や多摩各市も持っていました。その小金井市が平成2年3月の市議会で「鉄道線増立体化整備基金」の設置と、他市と同様1億円の積み立てを市議会が全会一致で可決したことにより高架化実現に大きな明りが見えてきました。

平成3年4月、統一地方選挙で都知事候補は鈴木俊一知事の4選に対し、80歳の高齢を批判する自民党幹事長小沢一郎氏がNHKニュースキャスターの磯村尚徳氏を擁立、自民党本部と都連との分裂・対決選挙になりました。激しい選挙戦でしたが鈴木氏が222万票を獲得し4選を果たしました。磯村氏は143万票でした。小金井市においても鈴木氏2万票に対し磯村氏は1万1千票でした。圧勝した翌日、立川市のホテルで行われた選挙報告会で、鈴木知事は中央線の高架化の推進を力強く宣言しました。ちなみに、鈴木氏は生れも育ちも昭島で、高校は都立立川高校と生粋の多摩人でした。

知事選の2週間後に行われた小金井市長選挙は大久保慎七市長の2期目の挑戦となり、社会党、共産党推薦候補の合計得票をも上回る52%、1万6千174票を獲得し、2期目の当選を果たしました。私は選対の事務局長として、政策立案や選挙公報の作成など選挙全体に関わらせてもらい、いい経験をしました。

都知事選と小金井の市長選に勝利したことから中央線の立体化は大きな課題を抱えながらも、さらに前進することになりました。

同年11月12日、鈴木都知事とJR東日本住田正二社長が直接会談し、事業推進で合意しました。その内容は、在来線と新線(計画線)を同時に都市計画決定する。在来線の高架を相互に協力し、新線については需要動向、財源確保を見極めつつ検討を進めていく、ということでした。これにより、在来線の高架事業を先行して行うことが決定したのです。

平成5年4月、三鷹〜立川間の全線でなく都心に近い小金井市など東区間を除外し、国分寺〜立川の西区間のみを先行しての事業採択となったのです。

(つづく)

走り続けた16年(196)

街づくりへの挑戦 中央線高架②

小金井市域を南北に分断する中央線の立体交差化は市民の悲願であり、昭和44年三鷹駅までが高架になり、次は立川駅までの13・1kmの高架化への気運が高まりました。

そこで設立されたのが「三鷹—立川間立体化複々線促進協議会(複促協)」でした。目的は、高架複々線の早期完成でした。それは、在来線と新線の各上下の4線を一気に高架にするというものでした。多摩全域の自治体の参加により結成された「複促協」に小金井市は遅れて参加しました。課題は事業費の負担です。小金井、国立の両市が地元負担ゼロを主張することから設立20年を経ても膠着状態が続き、進展しませんでした。

昭和58年に武蔵野市長に就任した土屋正忠氏は青木久立川市長等とともに、高架に積極的に取り組みました。三鷹市、国分寺市は沿線の距離が短いため負担額も少ないが、問題は距離が長く、負担額の多い小金井市と国立市でした。

しかし、全体の雰囲気は次第に地元負担は止むを得ないとの流れに対し、小金井市議会は任期6か月前の昭和59年10月、その流れを変える考えだったのか「事業費の市負担をゼロにする等」の趣旨の意見書を全会一致で議決し、東京都知事等に送付しました。

昭和60年に市議会議員になった私は沿線6市の市長と話す機会も多く、地元負担ゼロを主張していては高架は進まないと判断しました。保立旻、大久保慎七両市長も市議会の議決と複促協の狭間で悩んだことと思います。

地元負担に変化が生じたのは昭和61年で、都は沿線市との負担割合を1対1から7対3にしたことでした。これにより、地元市の負担は軽くなりました。

在来線の高架の負担は、JRが全体の10%弱で、残り約90%の3分の2が国の補助金、そして、残りは都市側負担で都と沿線6市が7対3の割合で負担するものです。

昭和62年4月国鉄が分割され、JR東日本旅客鉄道(JR)と民営化されたことから、高架複々線化は経営基盤が安定してから取り組みたいとの意向でした。新線の建設に関してはJRが事業費を負担するからです。

昭和63年9月定例会で私の考えを質問を交えて表明しました。それは、高架化は実現の可能性の高い在来線を先行させる必要があり、新線の同時高架は難しいことから切り離すべきということでした。また、地元の負担は止むを得ないが、負担額を路線延長だけで決定するのでなく、新たな負担方法も考えるべき、と主張し、地元負担を容認するとの考えを示しました。

平成2年3月定例会の施政方針で大久保慎七市長は「都とJR東日本旅客鉄道株式会社が共同で立体化のための調査を開始しており、その実現に向かって確かな取り組みが見えて参りましたので、鉄道線増立体化整備基金を積み立て、関係市と歩調を合わせながら早期実現を目指してまいります」と表明し、大久保市長は地元負担を明確にしたのです。

市長の施政方針に従って提案されたのが「小金井市鉄道線増立体化整備基本条例」の制定と、線増立体化整備基金積み立てのための一般会計補正予算1億円が全会一致で可決されました。

これにより、鉄道高架へ大きな一歩が踏み出されました。

(つづく)

走り続けた16年(195)

『或る障がい者の死』完

令和3年6月定例会に提案された一般会計予算補正予算、歳入に一般寄付金1億730万7千円が計上され本会議に上程されました。

本欄、令和3年2月11日から8回にわたり掲載された「或る障がい者の死」を読んだ一議員から本会議で「市の対応に失礼はなかったか」との趣旨の発言があり、山ヵ絵里さんの市への寄付が初めて表に出ました。また、市民から「1億円を超える多額の寄付に対して、市が極めて非常識な対応をしたのかしなかったのか厳正な調査を求める陳情書」が市議会に提出され、委員会で審議されました。

私は、多くの障がいのある方々とお付き合いをしてきました。その一人が絵里さんで、身体1種1級、知的1種2度の重度の重複障がいがありました。絵里さんは36歳の平成7年から小金井市障害者福祉センターへ10年間通所しました。センターでは多くの友人もでき、職員の献身的な介護により絵里さんの61年の人生の中で最も楽しく充実した期間だったと思われます。

しかし、自宅からの通所が困難となり、八王子療護園への入所になりました。入所して10数年、次第に体力の衰えが感じられるようになり、身寄りのない絵里さんに、もしもの時には、その財産は国庫でなく、彼女の楽しい思い出のある小金井市に遺贈することを公正証書にしました。

ガンを患っていた絵里さんの症状が悪化、小金井へとの希望から昨年6月、桜町病院のホスピスに入院しました。障害者センター元所長の吉岡博之さんとコロナ禍でやっと叶った面会は、すでに絵里さんの意識はなく、間もなく医師により死亡が宣告されました。

遺言執行者の吉岡さんと私は遺言の執行に取り組みました。

家庭裁判所、銀行等との手続きも終え、絵里さんの全ての預金を解約し、みずほ銀行小金井支店の私の口座に1億730万6千688円を振り込みました。

私は、絵里さんの寄付と生きた証しを多くの市民に知ってもらいたいとの思いから、市報への掲載をお願いしたが、個人情報の関係から断られました。公正証書で市に寄付する意思を示した絵里さんが、それが公になることを拒むことにはならないし、ましてや故人の名誉を毀損することにもなりません。

最後の手続きとなる「包括遺贈に係る確認書」を西岡市長と私たち遺言執行者で対面で調印することについては、写真撮影は駄目だが公にしなければ可能とのこと。市長が公務で重要な書類となる確認書の調印を公にしないことの条件には理解ができません。結局、4月8日私たちが押印した確認書を市職員に渡し、正午に事務的に市長印を押した確認書を担当職員から受け取りました。確認書の交換が終えた私は、その足で、みずほ銀行小金井支店を訪ね、私の口座に預かっている1億730万6千688円の全額を小金井市会計課に振り込みました。しかし、市からは4か月以上経った今も受領したことの報告はありません。

また、包括遺贈にもかかわらず、絵里さんの身の回りの品物は預かれないとのことから遺言執行者で処理せざるを得なかったことも理解に苦しみます。

法令や条例などに抵触しないとしても、地方公共団体としての小金井市の取るべき対応が適切だったか疑問を持たざるを得ません。

市には山ヵ絵里さんの生きた証しを残してほしいものです。

(つづく)

走り続けた16年(194)

『八月や六日九日十五日』

今年も世界平和を考える猛暑の8月を迎えました。本年が例年と決定的に違うのは、東京を日本を、そして、世界中を震撼させている新型コロナウイルスが猛威を振るい、感染力の強い変異ウイルスデルタ株により感染が拡大し、4回目となる緊急事態宣言が発令されていることです。

その中での平和の祭典、東京オリンピック・パラリンピックの開催です。感染拡大防止のため、ステイホームでパラリンピックの競技をテレビの前で応援し、そして、平和の尊さを確認する8月にしたいと考えます。

国民の90%が戦後生まれとなり、戦争を体験し、戦争がいかに愚かで残虐であるかを次世代に伝えられる人々が次第に少なくなりました。報道機関を通しても、この8月を戦争の悲惨さ、平和の尊さを考える機会であることを願うものです。

昭和19年11月に満州(中国、東北部)で生まれた私は、昭和20年8月9日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄し、ソ連軍は私たちの住むソ満国境の牡丹江省綏芬河(スイフンガ)に侵攻し、母と私は近付く砲弾の音で大混乱の中、南満州鉄道会社(満鉄)の用意した列車で、満鉄社員の父を残して国境の街を離れました。私の人生を大きく変えた日でした。

父の葬儀は小学校5年生の時、父の実家で行われ、私の名前は布施から稲葉に変わっていました。葬儀に同行した父の親友でもあった伯父に「骨箱の中に何が入っているの」と尋ねると、「一枚の紙と石が…」との答えでした。墓碑の没年月日は昭和20年8月15日とあり、享年28歳です。

民間人も靖国神社に奉られることがあると知り、父の名前があるか問い合わせました。「御祭神調査の件(回答)」とする文書が靖国神社から届きました。

その文書は、布施 忠次 命 一、階級・陸軍兵長 二、所属部隊 歩兵二百七十一聯隊 とありますが、これは誤りです。父は満鉄の社員であり、軍人でないので改める手続きが必要です。三、死歿年月日・昭和20年8月15日(戦死) とありますが、これは、推測ではないかと思っています。また、四、死歿場所・綏芬河天長山 とあります。この天長山については初めて知った地名です。「天長山」をネットで検索すると次のように記載されています。

天長山の悲劇 「第2次世界大戦末期、旧満州・綏芬河の天長山の防空壕で女性や子どもを中心に数百人といわれる犠牲者が出た。生還者は3人。死者数は、旧南満洲鉄道社員や家族でつくる満鉄会によると、一般邦人350人、国の調査では300人と詳細は不明。中隊長以下全滅した兵員数も不明。市街地から徒歩30分の場所にあった山頂の防空壕は地下3階、千人収用で当時は『東洋一』といわれたが、ソ連軍の猛攻で崩壊した。生還者によると、兵士や避難した邦人は壕の安全性と「必ず援軍がくる」の言葉を信じて豪を頼り、ソ連軍と戦った。西日本新聞」とあります。

昨年7月からコロナ禍で延期している20年振りの綏芬河に行くとともに、この天長山にも行かなければなりません。区切りある人生です。自分で片付けられるものは片付けなければと思っています。

私にとっての戦後はまだ終えていません。

(つづく)

走り続けた16年(193)

街づくりの挑戦 中央線高架

中央線は明治22年私鉄の甲武鉄道により敷設されました。当初の計画は甲州街道沿いの路線だったようです。しかし、計画路線区域の理解が得られにくいことから、新宿から立川を直線で結んだ線に変えたとのことです。その線が小金井村の真ん中を南北に二分する位置になりました。

小金井市の街づくりが進まなかったのは財政難と中央線の線路と道路との平面交差に原因がありました。

小金井市にとって中央線の恩恵は計り知れません。それは、都心への利便性などにより大きく発展できた要因でもあります。一方、多摩地域の通勤・通学者等の急増により、過密な列車ダイヤにより「開かずの踏切り」の発生となりました。

昭和44年に中央線荻窪駅から三鷹駅までの高架が完成し、次は三鷹から立川までとの期待が膨らみました。中央線は多摩地域の背骨であり大動脈でもあります。そのため、立川以西の自治体にとっても輸送力増強につながる中央線の高架に期待が高まりました。特に小金井市においては中央線が市域を南北に二分し、朝晩のラッシュ時は踏切りが開かず、特に武蔵小金井駅東側の小金井街道踏切りの遮断機が上がるのは1時間で1分間前後であり、「開かずの踏切り」の呼称は全国にその名を馳せていました。

三鷹までの高架が完成したことから、同年立川以西も含み、多摩全域の20市3町1村の参加により「三鷹—立川間立体化複々線促進協議会」(複促協)が設立されました。しかし、この高架化により最も恩恵を受けると思われる小金井市はこれに参加しませんでした。それは、複促協に加入することにより国鉄のペースで事が運んでしまうことを危惧したようです。しかし、昭和55年に11年遅れての加入となりました。

この複促協は促進を決議はするがなかなか進まず「停滞協」と揶揄されていました。

昭和58年、武蔵野市長に就任した土屋正忠氏が、鈴木俊一都知事や青梅市選出の都議会自民党幹事長の水村一郎氏などの力を借りて、中央線を動かすことになりました。

高架促進の大きな問題は、建設費の「地元負担なし」を全会一致で決議している小金井市議会を翻意させることでした。その根拠は荻窪—三鷹間の高架化には地元負担が無かったことを例に挙げてです。しかし、国や都の考え方は、東京都の区は都市計画税を撤収せず、都が課税主体になることから都が負担することになるが、市は、都市計画税を徴収してることで市が一部負担することになる、という解釈でした。

当時、2千億円近い総事業費の内、小金井市の負担は約90億円といわれていました。

小金井市が地元負担ゼロを主張してる限りこの事業は進まないことになります。都心から立川まで高架になり、小金井市域だけが地上を走るということにはならないのです。

昭和60年、市議会議員になった私は、古くからの友人でもある土屋氏の指導を仰ぐことになり、このままでは何年経っても高架化はできないことから、保立旻市長と地元負担について話し合い、引き継いだ大久保慎七市長が地元負担を決断し、停滞していた三鷹—立川間の高架化が進むことになりました。

(つづく)