走り続けた16年(53)

苦闘する庁舎問題⑲

新庁舎建設は小金井市最重要課題のひとつであり、長い間、最大の懸案事項でしたが、解決にはいたりませんでした。その最大の要因は財政問題です。

昭和46年から53年の革新市政による大量職員の採用が人件費を増加させ、一般会計に占める人件費比率が10%台になる平成22年までの39年間、昭和51年の45・2%を最大に、40%台が9年、30%台が19年、20%台が11年と、一時の失政が長い間、市民生活に大きな影響を与えました。

平成4年バブル経済の中、やっと蓄えたなけなしの基金40億円を頭金に、市に代って小金井市土地開発公社が80億円の借金をして、総額120億円を注ぎ込んで新庁舎建設予定地として蛇の目工場跡地を取得しました。

しかし、誰もが想定しなかったバブル経済の崩壊により、激減する税収に対し80億円の借金が重くのしかかり、その返済すら滞るような事態となり、リース庁舎を継続せざるを得ませんでした。

平成23年度、懸案の借金の返済も終え、新庁舎建設の議論にもなりましたが、東京オリンピック・パラリンピックや東日本大震災の復旧・復興による、建設コストの異常な高騰により再び建設は困難に直面しました。

そこで、平成26年第3回(9月)定例会に、18億7千万円で第二庁舎(リース庁舎)を取得する補正予算を追加提案しました。

内訳は土地が12億5千万円、建物等が6億2千万円でした。所有者との売買の協議が整い、あとは議会の議決を得るだけでした。

全員協議会の質疑で出た意見は、9月12日に取得を提示し、24日までに議決を求めることは横暴な提案である。平成26年までの22年間で建築費の2倍を超える54億円のリース料を払いながら時価で買うこと。市民参加条例の軽視。根抵当権が設定されている。将来リース庁舎の取り壊し料がかかる。市の購入で固定資産税、都市計画税が減収する。本庁舎の耐震補強は。実質財政効果は出ない。補正予算は撤回すべき等々の厳しい質疑に誠実に対応してきました。

与党議員も私もリース庁舎解消のためにも購入すべきという考えで、議案の撤回は考えていませんでした。

しかし、二元代表制の下、政策実現には議会多数の賛成が必須であり、多数の意向には従わざるを得ません。

その議会を代表する篠原ひろし議長から「審議の状況に鑑み、補正予算の取下げを進言します」との発言があり、それには従わざるを得ませんでした。

補正予算撤回後、第二庁舎は民間不動産業者に所有権が移転しました。また、市が取得を断念し、今日まで2年10か月が経過しました。その間に支払ったリース料は、6億3千万円になります。

西岡真一郎市長の方針は、新庁舎が竣工し第二庁舎を2億円かけて原状回復し、所有者に返還するのは平成34年8月になるようです。そのため今後5年間はリース庁舎を継続することになります。その間のリース料は、現在の条件であれば、11億円を超えることになりますが、市の所有にはなりません。

(つづく)

走り続けた16年(52)

世界平和への願い

あの大戦が終えて72年が経過しました。

戦後生まれが人口の80%を超える現在、戦争の悲惨さを次代に伝えられる戦争体験のある人は年々少なくなっています。

20世紀は戦争の世紀といわれ、21世紀は平和の世紀と期待されていましたが世界中に紛争が絶えません。

日本周辺の安全保障も重要です。北朝鮮の核・ミサイル開発の脅威に対する防衛策も喫緊の課題です。中国の尖閣諸島等への強引な海洋進出も問題です。

イスラエルが、シオニズム運動により1948年イギリスの委任統治の終了とともにパレスチナ地域に移住したユダヤ人により、建国されました。この国家の存在とパレスチナ国家建設の運動が、常に中東紛争の火種となり、報復に次ぐ報復、憎しみの連鎖が世代を越えて増幅しています。どこかでこの憎しみの連鎖を断ち切らなければなりません。

市は、平成20年7月、中東和平に熱心に取り組んでいる旧知の四方八洲男綾部市長の勧めもあり「中東和平プロジェクトin小金井」を実施しました。

これは、イスラエルとパレスチナの紛争で肉親を失った両国の高校生を招いて交流を図るというものです。一歩間違えれば国際紛争の引き金にもなりかねず、大変な緊張感を持って準備を重ね実施しました。

兵役を間近にした両国の高校生たちが「お互いに銃を向け合うことはやめよう」と交わした会話は、このプロジェクトの大きな成果であり、和平への一粒の種を蒔いたとの思いでした。

この事業は同年9月25日、ニューヨークの国連本部で麻生太郎首相が一般討論演説で「日本の市民社会が地道に続ける和解促進の努力」とし、全世界に向けて詳しく発信されました。(事業内容は市のホームページをご覧ください。)

また、私は「小金井平和の日」の制定を考えていました。戦後70年の節目の平成26年12月議会に、その日を「3月10日」にする議案を提案し、議会の議決をいただき決定しました。3月10日は東京大空襲の日であり、学校で、家庭や地域で、戦争の悲惨さ平和の貴さを話し合う機会にしてほしいと思います。

私は昭和19年11月に旧満州で生まれました。昭和20年8月9日ソ連の参戦により満鉄(南満州鉄道)の社員だった父は死を覚悟し、特別列車で避難する24歳の母と、生後9か月の私をソ満国境の水芬河(スイフンガ)駅で見送りました。父の最後の言葉は「貴方たちも生きて日本には帰れないだろうが、この子より先に死なないように。この子は生まれてこない方が良かった」だったそうです。

奉天(現・藩陽)での辛く厳しい難民生活の1年を経て、昭和21年8月葫蘆島(コロトウ)から引揚船で下関に。そして、鉄道で母の実家のある銚子へ、着の身着のまま辿り着きました。そのため、私は父親の顔を知りません。父も天国で、母と私が今でも元気でいることを驚いているでしょう。

(つづく)

走り続けた16年(51)

世界平和への願い

今年も、平和を考える夏を迎えました。

昭和20年8月6日午前8時15分、一発の原子爆弾が広島に投下され、何物にも代え難い14万人もの貴い命が奪われるとともに、大勢の被爆者が急性障害や後障害に長年苦しんできました。

人類最大の願いは世界の恒久平和です。誰もが平和を望みながら、世界から戦争が無くなることはありませんでした。それは、人種、宗教、国境問題や、貧困・飢餓や自由の抑圧、差別や偏見などが原因で、現在でも世界の各地で内乱や紛争が続いています。

戦争被害の多くは、女性や子どもたちです。シリアやイラクにおける内戦と「イスラム国」との紛争で、何の罪もない多くの人々が犠牲になるとともに、激しい空爆で瓦礫と化した街で恐怖と不安の中、学校にも行けず生活する子どもたちが報じられています。

私も協力させていただいているユニセフや国境なき医師団、そして、国連UNHCR協会(国連難民高等弁務官事務所)の活動報告やニュースレター等によれば、世界各地の紛争等により6千5百万人が難民・国内避難を余儀なくされており、飢餓や感染症などに苦しんでいると報じています。改めて戦争の悲惨さ、愚かさに憤りを感じます。

北朝鮮の核ミサイル開発も脅威です。国民が飢餓に苦しんでいる中で軍事力の増強を進め、全世界を挑発しています。それが、民主政治でなく独裁政治であることに一層の不安を覚えます。

小金井市が一自治体として世界平和について何ができるか考え行動してきました。その一つが、平和首長会議(旧・平和市長会議)への加入でした。

私は、昭島市役所に仕事で度々お邪魔しました。そこにアオギリが植えられているのです。この木は、広島の原爆の爆心地から約1・3㌔㍍の地点で、熱線と爆風で幹の半分が焼け焦げ、枯れ木同然だったのが、翌春、奇跡的に芽を吹き、失意の広島市民を勇気づけ、広島復興のシンボルとなった被爆アオギリの2世でした。

平成14年6月、昭島市は非核平和都市宣言20周年を記念して植えたもので、現在、6㍍まで伸び、その成長を見るにつけ、小金井市も、この木を「平和のシンボル」にしたいとの思いから、広島市側に要請しました。

平和首長会議への加入もあり、小金井市の強い要請に応じ、平成27年2月に平和首長会議から念願の全長30〜40㌢㍍の鉢植えの被爆アオギリ2世が贈られてきました。

植える場所は武蔵小金井駅北口の西側信号機の側と決めていましたが、絶対に枯らせられないことから、その場所に直接植栽することは諦め、少し成長するまで養生することにしました。

一年半後の平成28年8月、この被爆アオギリ2世が植樹されました。そして現在、約2㍍までに成長しています。是非、市民の皆さんには、この「平和のシンボル」の成長を見守ってくださるようお願いします。
(つづく)

走り続けた16年(50)

東京都議会議員選挙③

私の市長として平成11年からの16年間、JR中央線の高架化、駅周辺の整備、市役所庁舎建設、可燃ごみの処理などと共に、最大の課題のひとつは極めて厳しい財政状況の改善であり、身を切る行財政改革は避けて通れない難題でした。また、都の方針もあり新規の現業職(施設管理・用務・調理員等)は採用しないことから、直営での給食調理業務は限界で、代々の調理員に引き継がれてきた伝統ある学校給食も民間委託をせざるを得ない状況でした。

私は市議会定例会が終了すると、教育委員会に学校と日程を調整してもらい、市立小・中学校の給食を指導室長らと食することを常にしており、時には担当する学校教育部長等も同行しました。

校長とは給食前の検食の時などに対話し、私は、子どもたちと教室で一緒に食べます。時間があればクラス全体の子どもたちとの会話や質問に答えたり、それは、楽しい一時でした。食後は栄養士、調理員に感想とお礼を述べて意思の疎通を図りました。

給食は市内だけでなく、ランチルームやセンター方式などを見学するため他市にまで足を延ばしました。

平成18年9月から市立第一、第二中学校の給食を委託し、検証を経て平成20年には、残り3校の中学校も委託しました。

さらに、平成25年春、第3次行財政改革大綱の趣旨や目的を踏まえて、2年半をかけて小金井市職員組合と、9月に小学校5校の給食の民間委託を実施することで合意しました。

また、より多くの議員や職員の理解を得る必要から、総務部長にはもうひとつの小金井市職員労働組合(市職労)の同意も得るように指示しました。総務部長は組合との交渉の窓口であり、時々、学校を訪ね給食を食べて調理員との交流も図っていました。その結果、市職労として初めて民間委託の同意で、信じられない思いでした。

職員は厳しい日程の中で、各々、市民説明会の実施や議会や組合対応するなど懸命の努力には感謝でした。9月実施のため非常勤職員の任用を夏休み前の7月までにすることや、委託業者の募集も始めるなど、退路を断っての対応でした。

最大の難関は、民間委託の補正予算の議会の議決です。各会派の動向を企画財政部、総務部、そして学校教育部と問題を共有しながら意思の疎通を図り、問題の解決に向け全力を注ぎました。

その結果、補正予算は賛成14反対9で可決されました。

平成25年3月の市議会議員選挙では与党の全候補者の応援をさせていただきましたが、6月の都議選は一切の支援をお断りしました。それは、行革を断行するためには市政の安定が不可欠であり、候補者の木村基成さん、地元衆議院議員の土屋正忠さん、また、木村候補を応援する市議会議員等に、市政の実情からその対応につき了解を得てのことでした。

しかし、私の妻は別で、木村候補の奥様と連日、猛暑の中で集票活動に邁進していました。

選挙の結果は木村さんが447票の僅差で現職の西岡真一郎さんに勝利しました。

(つづく)

走り続けた16年(49)

東京都議会議員選挙②

前回、平成25年の都議選で僅差で当選した木村基成氏、小金井市が一人区になった平成元年以来、自民党の初めての勝利でした。

しかし、任期が残り僅かになり選挙が近付いてきた2月、都議会自民党からの会派離脱、その後、離党して「都民ファーストの会」へ。さらに、国替えで小金井から世田谷へ転じての立候補となりました。そのため、自民党は4月22日、都連公募の広瀬まきさんを公認候補とすることを決定しました。

6月23日の告示まで1か月を切った5月末、自民党員でもない私に選対本部長の要請がありました。それは荷の重い役割でしたが、これを断れば選挙の準備がさらに遅れることや、広瀬さんが都議に相応しいと判断したことからお受けすることにしました。

候補予定者から私への要望は、本部長だけでなく朝晩一緒に駅頭に立つことや、できるだけ選挙車に乗ってマイクを持ってほしいということでした。

受けた以上、私にできることは全力でやるという決意でした。

選挙戦の直前、マスコミの取材には「当選ラインは1万4千票であり、3月の市議選で自民党の得票は五十嵐京子さんを入れても7千票にも届かず、どれだけ上乗せできるかが勝負です。それには、どの陣営にも与みしない市議の票や友党である公明党の票を加えて、当選ラインに達することが目標です」と答えました。

しかし、これまで市長選や都議選等は公明党の支援を受けて共に戦ってきましたが、その公明党が都民ファーストの支援に回ったのは痛手でした。

さらに、国会運営や国会議員の不祥事、豊田真由子衆議院議員の秘書に対する罵声、稲田朋美防衛相の失言などが連日マスコミで報じられ、自民党批判の逆風が次第に強まり、それが投票行動に直結し勝敗を大きく左右したと思われます。

選挙戦を通じて、無所属の漢人明子候補に追いつくことが当面の私の目標でした。漢人候補を支援する市議の3月の選挙で得た票は約1万票。その上、菅直人元総理が応援に入ることで民進党の市議選の4千票がどう動くか。政治信条は私とは異なりますが候補者の中では、16年の市議経験は最も小金井を知り市民に知られている人だとの思いからです。

小池百合子都知事への期待はあるにしても、都民ファーストの会で当選した辻野栄作さんを知るのは選挙公報とポスターによるくらいで、投票率が上がったにしても公明党の基礎票の3倍以上の得票はいまだに理解できません。

選挙の結果は、都民ファーストの会の辻野栄作さんが1万6039票、無所属の漢人明子さんが1万3531票、自民党の広瀬まきさんが1万1293票、無所属で共産党推薦の朝倉法明さんが4879票、無所属の内古閑宏さんが1242票でした。

小池知事への期待と、自民党への厳しい批判がもたらした結果でしょうか。

(つづく)

(『苦闘する庁舎問題』は休みました。筆者)