走り続けた16年(83)

置き去られた乳児⑥

Aちゃんの1歳の誕生日が過ぎ、6月の市議会定例会の直前に坂田米子福祉推進課長(後に小金井市初の女性部長)と乳児院に面会に行きました。

いつも受付で大歓迎されるのが、その日はなぜか職員の対応がぎこちないのです。これまではすぐに通されたのが「少しお待ちください」と言ってその職員は受付から引き込んでしまいました。

戻ってきた職員は、「申し訳ありませんが、お会いにならないでいただきたいのです」と言うのです。私は驚きました。怪我をしたのか、病気なのか?当然「どうしてですか」と聞くと、職員は申し訳なさそうに「実はAちゃんを養育してくださる方が決まりました。面会にも度々来られ、相手の家にお泊まりに行ったりして、Aちゃんもなついてます。ここで、お二人にお会いするとAちゃんが混乱してしまうのではないか」との心配からの対応でした。

Aちゃんは平成16年3月12日に生まれ、1週間後の19日(金)夜、本町5丁目の教会玄関前に遺棄されました。翌20日小金井警察署から連絡があり、病院で初めて面会しました。その後、私は職務として苗字と名前をつけ、本籍を定め出生の手続きをしました。また、乳児院に移ってからも一人の面会者もいない彼女の面会を続け、祖父母らしき対応をしてきた私たちは、このまま会わないで帰ることにはならないのです。

私は、「どうしても最後に一度だけでも会わせて欲しい」とお願いしました。

職員は再度の打ち合わせの後、「大変失礼しました、どうぞお会いしてください」と言っていつものプレイルームに通されました。後はいつも通りです。職員から「Aちゃん、おじいちゃんおばあちゃんですよ」と入ってきて抱いた腕から下ろされ、よちよち歩きで近付いてきました。そして職員が「Aちゃん、ぎゅうしてあげて」と言うと、Aちゃんは両手を差し出す坂田さんの首に抱き付きました。暫くして「おじいちゃんにも」と言われて、私の番が回ってきました。これが最後だと思うと辛く寂しく複雑な気持でした。

元気で可愛いAちゃんの里親を希望する人は多く、その中から、選ばれて「特別養子縁組」が決まりました。

Aちゃんは現在14歳、中学3年生になっています。一般的に16歳から18歳くらいまでに他から耳に入る前に、養父母から出生の事実が告げられるようです。その時の養父母の気持ち、それを聞くAちゃんを考えると辛くなります。

事情を知った子どもは養父母と乳児院を訪ねるようです。

Aちゃんが乳児院を訪ねると、そこに保管されている彼女の所持品から、私や坂田さんの存在を知ることになります。その時、私たちを訪ねて来てくれることを願うのです。

Aちゃんを遺棄し、罪の呵責に常に苦しんでいる母や、彼女の誕生すら知らない父が誰なのかを知りたくなることでしょう。

彼女には、この世に生を受けたことに、感謝の人生を送ってくれることを切望します。

私も彼女と再び会えることを心待ちに、その時まで元気でいたいと思っています。

(つづく)

走り続けた16年(82)

置き去られた乳児⑤

Aちゃんの母が妊娠していると気付いたのは、父となる人と別れた後であり、誰にも相談することもできず、悩み苦しんだ末一人で出産しました。

そして、Aちゃんは生まれて7日後の平成16年3月19日夜、本町5丁目の教会の玄関前に遺棄され、すぐに救急車で病院に運ばれましたが、元気で1週間後には退院し乳児院に移りました。

その乳児院は児童養護施設と併設されており、種々の事情により家庭で養育できない18歳までの子どもたちが整備された環境の中で生活していました。しかし、その中で親や親族が分からないのはAちゃんだけなのです。そのため、Aちゃんへ面会に来るのは私たちだけなのです。私は時間の都合が付く限りAちゃんに面会するようにしました。

子どもの成長は早いものです。ましてや月1回ぐらいの面会は、会う度ごとに大きな成長が確認され、私を楽しませてくれました。

それは、寝返りをする、お座りができる、這い這いをする。また、掴まり立ちし、そして、一人歩きができる、等々です。子どもの成長を早回しのビデオでも見ているようでした。

私がAちゃんに面会に行く時は、福祉推進課の坂田米子課長(後に小金井市初の女性部長)に多く同行してもらいました。坂田さんはいつも何らかのプレゼントを用意してくれていました。

私もAちゃんに手紙を書いたり写真を撮ってアルバムにしたり、プレゼントをさせてもらいました。

また、当時の大久保伸親副市長や坂田さんの職場の仲間たちからのプレゼントもありました。そのひとつに、「天からの恵み 受けてこの地球(ほし)に 生まれたる我が子 祈り込め育て…」の歌詞で始まる、夏川りみさんの「童神」(わらびがみ)のCDも含まれていました。

Aちゃんに面会する度、その成長を見て、今後どうしていくべきか考え悩みました。それを知る知人たちからは私が里親になって引き取ればいいのではないかと言われ、家族とも考えましたが、自分の年齢などを考えればそれは無理でした。

里親制度は、さまざまな事情により家庭での養育が困難で受け入れられない子どもたちを、温かな愛情と正しい理解をもった家庭環境で養育するもので、家庭生活を通して、子どもが成長する上で非常に重要なのです。特定の大人との愛情の中で養育を行うことにより、施設とは違った意味での子どもの健全な育成を図ることになります。

また、里親制度には実親との親子関係を存続したまま、養親との親子関係をつくる「普通養子縁組」や実親と暮らせない子どもが、血縁のない夫婦と親子関係を結ぶ「特別養子縁組」等があります。これは、普通養子縁組と異なり、実親との戸籍は抹消されることになり、養子となる子どもの実親(生みの親)との法的な親子関係を解消し、実の子と変わらない親子関係を結ぶ制度です。これには、養親の年齢制限など細かな成立要件があり、家裁が決定します。

(つづく)

走り続けた16年(81)

置き去られた乳児④

赤ちゃんの誕生は多くの人々に望まれ祝福の中で生まれてくるものです。しかし、Aちゃんの場合はそうはなりませんでした。人に知られず母親は悩み苦しみの中、誰にも付き添われることなく一人で出産しました。出産後はさらに悩み苦しんだ末、遺棄することになってしまいました。

母親の残したA4のレポート用紙に書かれた手紙は、「私には他に頼れる人がいません。あなた様の手で、この子を育ててくださる方を探してもらえないでしょうか。この子は、私といては幸せにはなれません。どうか救ってやってください。私のしていることは間違っていることだと分かっています。母親である私の手もとからこの子を手放したことを、この罪を一生をもって償いたいと思います。どうかお許しください」とあります。

一人で悩まず妊娠したことを親に話せば、親からは激しく怒られるでしょうが、それは、一時の問題で一生をもって償うことにはならず、出産に当たっては親をはじめ大勢の人々が喜んでくれただろうと思うと非常に複雑な気持になります。

赤ちゃんは生まれて7日後の平成16年3月19日夜、本町5丁目の教会の玄関前に遺棄されました。すぐに救急車で病院に運ばれました。母親はパトカーや救急車のサイレンの音をどんな気持ちで聞いていたのでしょうか。

赤ちゃんには病院で数回面会しました。とても可愛く健康で、何の問題もなく元気で1週間で退院し、乳児院に移りました。

その乳児院は児童養護施設と併設されており、保護者の種々の事情により養育することが困難な子どもたちを、養護・養育し、その発達や自立を支援することを目的に設置されています。概ね、0歳から18歳までの子どもをお預かりしており、定数いっぱいの40数名の子どもたちがいました。しかし、親や家族が確認できず、面会人のないのはAちゃんだけでした。そのため、私はできるだけAちゃんに面会するようにしました。施設近くでの仕事帰りや、時間が空けば妻と電車で行くこともありました。また、福祉推進課の坂田米子課長(後に小金井市初の女性部長)にはAちゃんを大変可愛がってもらいました。

坂田課長と一緒に面会に行くと施設の職員は「Aちゃんおじいちゃんとおばあちゃんですよ」と言いながらプレイルームに抱かれて入ってくるのです。

月1回ぐらいの面会でしたがその成長は私たちにとっても大きな楽しみでした。

その当時、市政は一般会計予算が3月26日市議会で否決され、国や都は小金井の街づくりを見限り、都市再生機構は撤退を決め、小金井市への損害賠償の算定に入ったと伝わってきました。

私は、4月に入り国交省に行き、5月24日に招集する臨時市議会で予算を可決させるので、再開発断念を待つように申し入れました。国交省の審議官等の幹部から、可決できない場合はどうするか、と問われたので、「市長を辞職して市民に信を問う」と答えると、その場の雰囲気が一変しました。

(つづく)

走り続けた16年(80)

置き去られた乳児③

平成16年3月19日、本町5丁目の教会の玄関前に乳児が遺棄されました。遺棄された女児が発見された時、毛糸のおくるみで包まれたベビー服だったようです。私が確認した所持品は紙おむつとおしゃぶり、5千円札1枚、手書きのA4のレポート用紙に書かれた手紙と小さな段ボールでした。その手紙は細かい字できちんと書かれた大変リアルな内容で、母親として自分の生んだ子どもを遺棄せざるを得なかった辛く苦しい心境が書かれていました。

母親は遺棄する前日、教会に電話しており「(教会の方に)話を聞いてもらい、温かい言葉をかけてもらえたこと、本当に救われた思いがしました。心からありがたく思います。あのままではどうなっていたか分かりません」と感謝の言葉がありました。また、教会の方の助言を無視して、遺棄する行動についてのお詫びも書かれていました。

この手紙はその時、電話で対応してくれた教会の方に向けたもので、その内容は、

「私の言葉をもう少しきいてください。」の書き出しで、妊娠していると気づいたのは付き合っている人と別れた後で、悩み苦しみ、おろすことも考えたようです。しかし、そのためのお金も相談する人もいないでいるうち、どんどんお腹が大きくなってしまい、どうすることもできず、人に隠し、病院にも行けずに、3月12日に一人で出産したとのことです。出産して、現実的にこの子を育てることができないと分かったようです。金も、時間も、助けてくれる人もいなく、親にも友達にも言えなかったのです。

「毎日、子どもを抱きしめ、命の重さを感じ、解決策を探しもとめました。しかし、考えても考えても答えは見つかりません。すぐに泣いてしまうこの子から少しでも離れることが怖くて、出産後からは我が子を腕に必要なものを買うため、暗くなってから出かけたりしています。動き回っているせいか体調も悪く体もだめになりそうです。そんな毎日が苦しいのです。ただ怖くて、一人ではどうすることもできなくて、壊れてしまいそうです」とあります。

「お願いします。私には他に頼れる人がいません。あなた様の手で、この子を育ててくださる方を探してもらえないでしょうか。この子は、私といては幸せにはなれません。どうか救ってやってください。私のしていることは間違っていることだと分かっています。母親である私の手もとからこの子を手放したことを、この罪を一生をもって償いたいと思います。どうかお許しください。」

「このような紙に、つたない文章で申し訳ありません。どうか、この子を、私を、お許しください。どうか、よろしくお願いいたします。あなた様を信じさせていただきます。3・19」と悲痛な叫びでした。

これは、母親が名乗り出ないこと、また、捜査が進まず情報が得られないことから小金井署が公開したものです。

教会関係者の適切な対応で最悪の事態は避けられました。

(つづく)

走り続けた16年(79)

置き去られた乳児②

今から14年前の平成16年3月19日の夜、本町5丁目の教会の玄関前に生後間もない乳児が遺棄され、救急車で病院に収容されました。遺棄された女の子は食欲もあり元気で可愛くて、その季節から看護師から「はるちゃん」と呼ばれて可愛いがられていました。私も病院で面会の度に抱っこさせてもらっていました。

戸籍法第57条によれば、遺棄された乳児が発見された場合、その地の首長は、氏名をつけ本籍を定めなければならない、と規定されており、私は苗字と名前を付け、本籍を定めさせていただき、届け出を済ませました。

警察が早く母親を見つけることを願っていました。警察は、母親が名乗り出るのを期待しながらも、防犯カメラの映像をチェックするなど内偵捜査が進められていましたが、なかなか捜査が進まないことから25日公開捜査に踏み切りました。私はAちゃんのお母さんを探すこと、警察は保護責任者遺棄容疑での捜査でした。しかし、母親を捜し出すことができませんでした。

Aちゃんは体調も良く、何の問題もなく1週間後、元気で退院し乳児院に移りました。

この時期は市議会定例会が開会中で、平成16年度一般会計予算が審議されており、23日の予算特別委員会(予特)の採決では可否同数となり、委員長裁決で予算が可決されました。そして、最終本会議は予特で賛成票を投じた委員長が加わることから可決されるものと信じていたものが、25日朝、予特で賛成した一議員から「予算には賛成できない、退席する。」という内容の電話でした。私は驚き懸命に説得したが無駄でした。議長を除く23議員で一人退席すれば予特の結果から、11対11と賛否同数になり議長裁決になります。議長は共産党であり、共産党は武蔵小金井駅南口の再開発や東小金井駅北口の区画整理などの街づくりに反対であり、予算は否決されてしまうからです。大久保伸親副市長をはじめ管理職も八方手を尽くしたが、当該議員の意思は変わらず予算は否決され、4、5月2か月の暫定予算となりました。

予算否決により小金井の街づくりは完全に暗礁に乗り上げてしまいました。そのストレスからか胃潰瘍で苦しむことになりました。

その様な混乱が続くことから私は、Aちゃんの件に関しては、福祉推進課長補佐の坂田米子さんに対応してもらうことにしました。(坂田さんは数日後の4月からは課長となり平成19年4月からは収入役に代わる会計管理者として、小金井市初の女性部長になりました)

また、その後、5月の市議会臨時会でも予算が否決され、私は、南口の再開発等に関し「市民の信を問う。」と市長を辞職して再選挙に臨みました。この件に関しては後日詳しく報告いたします。

当時、私にとって乳児院でAちゃんに会うのが大きな楽しみになっていました。

(つづく)