さくら通信

当選祝いとお中元

今年もお中元の季節を迎えました。

1年の半分を無事に過ごした感謝と、日頃の疎遠をお詫びしながらの贈り物の交換は、日本の慣習でもあります。

平成11年4月25日の市長選挙に初当選し、間もなくお中元の時期です。

当選祝いとお中元が重なり、宅配便で届く贈り物の数は半端ではありませんでした。狭い玄関に続く廊下は荷物でいっぱいです。

これを全て返すことにしました。

それは妻の役割で近くの店から送り返したのですが、25年経った今になってもあの時は大変だったと言っています。

送り返した品物を、私からの贈り物と勘違いして礼状が届いたり、便宜を頼むとでも思っているのか等、誤解されるトラブルも多くありました。

その後も一切 受け取らないで通しました。

I スーパーマーケットのK社長が来庁し、帰り際にホールインワンの記念のカードを手渡されました。私はそれをじっくり見てお返ししました。K 社長は笑いながら「訪問にあたり、手土産と言ったら市長は 受け取らないと社員から止められました」とのこと。これを聞いて私は大満足でした。

しかし、選挙は別で議員選挙の時から全てカンパとボランティアで行いました。そしてその借りは仕事で返すというのが 私の考え方でした。

職員にも、業者からの手帳やカレンダー、タオルなど一切受け取らない。また、業者との飲食やゴルフ等の付き合いも禁止し、それを徹底しました。

私が目指したのは、一点の曇りのない 行政執行でした。

さくら通信

2000年問題と「陽は昇る 小金井 」

私が小金井市長に就任したのは、平成11年1999年4月でした。

その年の後半に入って、コンピューター 2000年問題が 具体化してきました。

これはコンピュータが西暦年号の下二桁で差動しているため、 99の次は00年の2000年となるべきが1900年と反応する可能性があることから、政府は「コンピュータ西暦2000年問題に関する行動計画」を策定し、全国的具体的行動を地方自治体にも要請してきました。

小金井市も万が一に備え、「コンピューター2000年問題危機管理計画」を策定し、国および関係機関との連携を強化し、市民生活に影響を与えないための準備に万全安全を期してその日を迎えました。

12月31日、不測の事態に備えて理事者をはじめ、部長、そして関係職員は市役所で新年を迎えることになりました。

また、その他の管理職等はいざという時に備え自宅待機とし、全職員が2000年問題に取り組み ました。

緊張の中で午前0時を迎えました。

問題が想定される部署の異常もなく、テレビ等でも異常を報ずることもなく、安堵して新年を迎えました。

集まっていた職員には、自席に戻って待機するように指示しました。

私には仕事があったのです。

それは、2000年1月1日の0時を期して、婚姻届を出すカップルがいるだろうと考え、夜間受付職員には「少し待ってもらえれば 市長室で市長が受け付けます」と、カップルに伝えるように指示しました。

全員が私を待機していました。庁議室で待機するカップルを一組ずつ 市長室に入ってもらい、私が受け付け、記念写真を撮りました。

午前5時までに34組の受付をしました。それも一段落、外が明るくなってきたこともあり、仮眠してる職員を起こし、第2庁舎の8階まで階段をぞろぞろと 登りました。

初日の出を見るのです。私の欠点の一つは自分が好きなことは誰もが好きだと思うことです。

しかし、東の空に真っ赤な太陽が昇り、周辺の雲が黄金色に輝いているのを見て、眠いとか8階までの階段がきついと言っていた職員も、皆歓声をあけていました。

まさに「陽は昇る小金井」です。

2000年問題に異常がないことを確認し、自宅待機 も含めて全員を開放し、私は婚姻受付業務を再開するため市長室に戻りました。

さくら通信

ファクシミリの設置とコイの救出作戦

平成11年の初当選から約1ヶ月後、公約の一つであるファクシミリを市長室に設置しました。

これまでも「 市長への手紙」や「市政への投書箱」などで市民の声を聞く機会がありましたが、さらに24時間いつでも気軽に意見を寄せていただくため、早速に設置したものです。 お寄せいただいたご意見には必要な対応をさせていただきました。

それは財政問題や街づくり、生活に密着したゴミ問題、街路灯の故障、道路の毀損、また 職員の接遇などなど、市政全般にわたり必要な対応をさせていただきました。

このファクシミリの愛称募集で、市民からの「ふれあい 24 」と命名させていただきました。毎日出勤して最初の仕事はそれに目を通すことで始まります。それは楽しいものでした。

平成12年2月19日に届いたのは、子どもの文字で大きく「市長さんコイを助けてください」とありました。

これは前原小学校3年生の N 君からのもので、内容は日照りによりコイの住み家である野川 が干上がり、橋の周辺のわずかな溜まりに多くのコイがひしめいていて、背びれが水から出ているというものでした。

早速私も確認し、管理者である東京都の北多摩南部建設事務所と相談し、業者を入れて救出することを決めました。

業者は大きな水槽を積んだトラックに、大きな網でコイや他の魚もすくい水槽に入れるのです。

狭い溜まりに背びれ出したコイは30から50cm と大きく、その数は100匹を大きく超える数で、川の中での作業員とコイとの格闘でした。

救出されたコイは市立南中学校のプールに放流されました。狭い溜まりから広いプールに移されたコイは、自由にスイスイ泳いでいました。

この光景を南中の生徒たちは、休み時間に見て楽しんでいました。そんな南中ですが、プール開きが近づいたことから問題を提起してくれた前原小のプールに移しましたが、前原小にも長くはいられず、次の移転先を考えなければなりません。

そこで N 君や 前原小の生徒たちと西の台会館で話し合いました。 私の「料理して食べるのは?」は一蹴されました。しかし、水量の少ない小金井区域の野川では再び同じことになり無理とし、結局、安定的水量が確保される多摩川に近い野川の下流に決しました。

前原小のプールから引き上げる際、稚魚がたくさんいるのが見えました。それに子どもたちはすぐに反応し「大きいのは助けるが小さいのは助けないの 」ということになり、稚魚は翌日子ども達が救出することに決定しました。

翌日子ども達に救われた稚魚は、ビオトープや子どもたちが自宅に持ち帰って育てることになりました。

この一連の出来事は、新聞やテレビの報道番組で「小さな命を大切にする小金井の子どもたち」と大きく報じられました。

 

さくら通信

東京農工大の特別栄誉教授の遠藤章氏が、6月5日逝去されました。

このことについてはすでに本欄で報告させていただきましたが、遠藤氏の業績はコレステロールの合成を妨げるスタチンの発見で、これは細菌感染症から人類を救った 抗生物質ペニシリンと並ぶ「奇跡の薬」と呼ばれており、ノーベル賞の有力候補に上がっていただけに残念でした。

私は農工大の最高議決機関である経営協議会の委員を務めていたこともあり、親しくさせていただきました。

享年90歳でした。

ご冥福をお祈り申し上げます。合掌

さくら通信

石川良一都議が逝去

石川良一氏が16日に逝去されたことが報じられました。石川氏は稲城市の市議会議員から市長5期務めた後、都議会議員に転じ議長も務められました。

石川氏は困窮する小金井市のゴミ問題に大きな支援をしてくれました。

石川氏との思い出は尽きません。

その中で特に記憶に残るのは、平成22年10月31日、武蔵野市内で石川市長と私が土屋正忠衆議院議員を挟んで、これまで積み上げてきた内容を確認する会議が忘れられません。

稲城市は狛江市、府中市、国立市の4市で一部事務組合・玉川衛生組合を結成し、焼却場は稲城市にあり管理者は石川市長でした。

小金井市の生ゴミを、多摩川衛生組合で焼却処理することに合意ができたのです。

そして、石川 市長は多摩川組合の合意を取り付けること、私は小金井市をまとめ 共同処理することの最終確認でした。

そして、お互いの選挙が終えた5月の連休明けに公表することにも合意しました。

同席した土屋氏は、石川市長の高校、大学の先輩でもあり、この合意は双方に利があることから意見をいただいていました。

ところが、多摩川衛生組合が長年に渡って不適切な焼却処理を行っていたことが判明し、管理者である石川市長は、その責任を取って6選出馬を断念しました。

石川市長は、行政の継続性から後継者に引き継ぐとしていましたが、私が4月の小金井市長選挙で佐藤和雄氏に敗れたことから、全てが水泡に帰しました。

6月23日に行われた葬儀は、72歳の若さで逝った石川良一さんを悲しむ大勢の人々と見送りました。

良ちゃん、どうぞ安らかにお休みください 。合掌