走り続けた16年(14)

財政健全化への闘い⑥

小金井市政を長い間混乱に陥れた、異常な過去に触れてみます。

先ず、昭和38年4月10日、小金井市の労働運動の象徴でもある小金井市職員組合執行委員長が「職務命令違反」を事由として懲戒免職になり、辞令は内容証明で自宅に郵送されたのです。

その後、5月の臨時市議会で組合執行委員長の解雇問題が議論になりましたが、「業務命令違反」の具体的事由が示されず、「処分が不満なら人事委員会等の審査を」との答弁になり、懲戒免職という処分の重さから明確答弁が必要だったのではと考えます。

これにより「不当首切り撤回闘争」を展開する組合を一層勢いづけてしまいました。

5年後の昭和43年4月30日、「昭和38年4月10日付をもって行った免職処分を、昭和38年10月9日までの停職処分に改める」との辞令が交付され、懲戒免職が撤回されました。人事委員会の斡旋等、何があったかはわかりません。

しかし、これによって組合はさらに強力になり、その人は、苗字の下に天皇と付けられて呼ばれ、カリスマ的存在になりました。

次は、昭和46年4月、革新市長永利友喜氏が当選し、組合の望む革新市政がスタートしました。これにより多摩清掃公社の直営化、学童擁護員(みどりのおばさん)、警備員、庁内清掃、電話交換、ボイラー等の正職化が進み、一挙に職員の増員が進み、市財政を圧迫する人件費比率ワースト日本一になる要因になりました。

684人の職員定数を徐々に1136人までの増員を認めてきた、議会の責任も大きなものがあります。

また、昭和49年第4回臨時会で、議員の質問に永利市長は「5月27日午前9時頃、東庁舎入口で市の警備員多数が私を取り囲み、ネクタイや胸ぐらをつかみ、足蹴りで左足に打撲を受け、全治3週間の診断を受けたのは事実です」と答え、さらに「労使慣行の正常化と、本人の生活権と将来を考え(法的)手続きはしない」と答弁しました。

さらに、昭和49年7月27日深夜から翌日未明にかけて、市長と助役が人事異動の対象者の自宅を訪問し、異例の辞令交付となりました。これは、職員組合の猛烈な反対運動で、庁内で交付できない状況だったからです。

しかも、8月10日、組合の要求に屈服し人事は白紙撤回されました。市長固有の権限である人事権が組合の反対で行使できず、さらに、異動対象の一人の机や椅子が朝になると庁舎裏庭に放り出されている始末でした。

この様な中で、革新市政2期目がスタートして間もない昭和50年7月、夏季手当交渉をめぐって市長と折り合わないことから、組合が保育園、学校給食、浄水場等を除く全職員に「一斉半日休暇」を指示し、市長は「業務に支障をきたす一斉休暇は認めないで拒否すること」と41人の全課長に命じましたが、全員が市長の業務命令を無視しても、組合の意向に従うのです。

信じられない事象に対し、驚くような決着の連続で、市民のための市役所とは到底言えない状況が長く続き、次代への大きなツケを残したのです。
(つづく)

走り続けた16年(13)

財政健全化への闘い⑤

地方自治体の職員に定年制度が導入され、小金井市では昭和60年3月31日、職員の定年に伴う退職条例が施行されました。

同日、小金井市議会議員選挙も行われ、4月5日から私も市議会議員としての任期が始まりました。

また、5月26日、保立旻市長の任期満了に伴う小金井市長選挙が行われ、保立市長が再選を果たしました。

再選した保立市長には大きな課題が待っていました。

それは、職員の欠員補充の問題です。小金井市の人件費問題解決のため不補充を貫いてきた保立市長でしたが、定年制の導入もあり、欠員の補充を求める職員組合の要求は非常に激しいものでした。交渉の過程で当局側から「簡単に職員は採用できるものではない、予算の制限もあることだし」との発言がありました。

昭和60年度の職員の予算は1030人で措置されており、職員の実数の1025人とは5人の乖離(かいり)があったのです。この発言に、5名の欠員補充が可能だと職員団体は勢いづきました。

その様な時、保立市長から相談したいこともあるので、団体交渉等の時は、連絡が取れるよう近くにいてほしいと依頼され、私は、団体交渉等の間は市議会自民党の控室で待機し、その交渉の経過を徹夜になっても見守っていました。

小金井市の労働組合は非常に強いとは聞いていたが、社会常識を逸脱する労使交渉の現状を見聞きし、その実態は想像を超える驚きと怒りの連続でした。一部職員が市長を取り囲み、その耳元で、お前呼ばわりの聞くに耐えない言葉で怒鳴ったりするのです。管理職は、口を出せば火に油を注ぐことになるので、遠巻きに時の経つのを待つだけでした。

市長は市長室に缶詰状態になることもあり、打ち合わせを理由に私が連れ出すこともあり、心配する家族が迎えに来ることもありました。また、時には職員が集団で市長の自宅にまで押しかけ抗議することもありました。

団体交渉は怒鳴り声が廊下にも響き渡る程で、会議室から出てくる職員は声をからしていることも多々ありました。徹夜が続く交渉は、精神的にも肉体的にも限界を超え、正常な判断ができないような状況下での妥結もありました。

3月1日号の当欄にその一部を記載しましたが、これが「西の京都、東の小金井」と称された所以なのかと思いました。

欠員補充の激しい交渉が続く中、明け方近くの午前3時過ぎ、自民党の控室に来た保立市長が、私の目の前で選挙管理委員会事務局長に直接電話し「私が辞めたら、後は法的にどうなるのか」と聞いているのです。

私は、あまりの驚きに言葉が出ませんでした。再選されて、まだ1カ月前後なのです。それ程激しく厳しい交渉だったということです。

そして、間もない7月5日号の『市報こがねい』に、現業職員若干名の募集の記事が小さく載り、その後、5人の現業職員が採用されました。団体交渉の経過を知る私は複雑な心境でしたが、与党は硬化しました。

それが10月31日の大久保慎七助役の辞職につながるのです。
(つづく)