走り続けた16年(26)

財政健全化への闘い ⑭

学校施設警備の改革の必要性から確信を持っての私の議員活動とはいえ、議会での質疑や職員組合の尖鋭化には少しは心苦しい思いもありました。

組合の脅しに屈することはないのですが、市長や管理職者等を標的とする八つ当たりには困惑しました。

与党議員は、議会の円滑な運営のため組合と私との解決策として、自民党の先輩議員から、私が詫びる、今後の活動は一定の配慮をする。そして、当面、与党会議への出席は自粛する、との和解案が示されましたが、それは、受け入れられないと断りました。

市役所全体が影の市長と恐れ、カリスマ的支配の一職員を、当局が特別に扱うことへの不満から実名を挙げての批判に、共産党を除く野党議員も私の行動は正当な議員活動だとの理解を示し、「我々は野党なので議案に賛成はできないが、円滑な議会運営には協力するから頑張れ」という言質を水面下でもらっていたことが私を強気にしていました。

昭和63年第4回定例会本会議で、共産党を除く全職員の賛成で「職員の議事妨害に対し市長に厳正なる対処を求める」という決議を議決しました。それは、12月22日の本会議「学校施設警備に関する市長報告」に際し、傍聴者である市職員5〜6名が不体裁な態度をとり、またヤジを飛ばして質疑を妨害したのです。

議長はやむをえずその状況を議会事務局の職員に写真撮影させたのですが、傍聴者の1名が無断で議長席の後のドアから本会議中の議場に入り、写真撮影した職員を無理やり議場の外へ引き出そうとしました。その後、議会が休憩に入ると議会事務局で抗議行動に出るなどやりたい放題、社会通念に照らしても尋常とは到底言えるものでなく、市長には傍聴の市職員に対し、市長の裁量において責任ある措置をとることを強く求める、という内容でした。

しかし、残念ながら当局はこの件に関し、何等の手も打てず、また当人たちは全く反省の態度を示すことなく、市議会には不満が募り一層硬化していきました。

続く平成元年第一回定例会に、市職員の給料、諸手当等を合わせて平均2・37%を前年4月1日に遡及して引き上げる条例改正案が市長から提案されました。しかし、前述の問題から与党である自民、公明、民社党の反対によりこれを否決しました。

その時、私の市議会同期で志を同じくし、尊敬する今は亡き公明党の小尾武人議員の反対討論は「議会のみならず市民を冒涜(ぼうとく)するような行為を放置、容認したまま、血税を給与引上げに使うことは断じて賛成できない。ひたすら市民サービスに徹する職員がいることを思い、その家族の一層の生活向上を願う者の一人としてやむにやまれぬ思いの反対である。この一石が、必ずや将来の市政に明るい展望をもたらすものであることを確信する」というものでした。

その後、平成元年3月16日の臨時市議会で、組合委員長の「遺憾の意」の表明を受けて給与条例の一部改正を全会一致で可決しました。

(つづく)

走り続けた16年(25)

市制施行五十八年

昭和33年10月1日、小金井市が市制を施行し、58年を迎えました。明後年は60年、人でいえば還暦です。

小金井市がこれまでに発展できたのは、JR中央線等地理的条件や恵まれた自然環境、そして市民の力、さらに議会や行政の努力によるものと思います。その間には、大きな課題に直面することも多々ありましたが、それらも改善され発展を続けてきました。

市制施行の数年前、小金井町は近隣各市・町との合併の動きがいろいろある中で、国分寺町、小平町と3町合併促進協議会を結成し協議を進めてきました。しかし、協議が整わず昭和31年3月に解散となりました。

自治体の合併は多くの困難が伴います。隣接であったとしても文化や風習、交通圏や生活圏の違いもあり、協議が整っても合併後の市の名称で壊れることもあります。当時の鈴木誠一町長も町会議員も本心は単独での市制施行を意図していたようです。

当時の地方自治法では市制昇格の人口要件は5万人以上でしたが、改正前の3万人程度で市制を施行しているところもあり、必ずしも統一基準となっていない状況でした。それを踏まえ、人口3万人台の小金井町も市制施行へと動き出したのです。

昭和31年夏、全国の市制施行を目指す町へ、地方自治法改正の運動の呼び掛けがあり、翌年2月、国会に法改正を働きかけることになりました。東京での参加自治体は小金井町だけであり、東京は関係機関との連絡が取りやすいこと等から鈴木町長が中心的役割を果たすことになりました。

鈴木町長を先頭に58町の強力な運動の展開で、各・地元国会議員の協力もあり昭和33年4月、地方自治法の一部改正が成立し、該当する62町は同年9月30日までに市制施行の申請ができるようになりました。

しかし、東京都は小金井の市への昇格は時期尚早だとし、理解を得るのに大変苦労したようでした。鈴木さんの後日談ですが、都が「市名は小金井市ですか」と聞くので「東京市だ」と答えたら担当は大変驚き、それだけは止めて欲しい、と言っていたそうです。

昭和12年2月1日小金井村から町になったことから、当時、町制20周年記念事業と市制施行への活動が同時に行われていたようです。

昭和33年10月1日、いよいよ東京で10番目の市として小金井市が呱呱(ここ)の声をあげたのです。市民の喜びも大変大きく、5日間にわたって全市をあげて記念祝賀行事が繰り広げられたようです。

初代市長は鈴木誠一氏で、市勢は世帯数9771、人口4万947人、職員数は177人。年間予算額は1億4815万円、市民一人当たり3692円でした。

時は過ぎて、平成20年は市制施行50年でした。私は、市民の記憶に残る1年とするための事業を考えていました。市制50年記念事業等に関しては、後日、当欄で報告します。

(つづく)

走り続けた16年(24)

「今、市政で何が…」

西岡真一郎市長が誕生し9か月が過ぎますが、ボタンの掛け違いのままで、事態が推移しているように感じられます。

昨年12月の市長選挙、最大の争点は庁舎問題でした。

西岡市長の選挙公約は、蛇の目跡地に総合庁舎、福祉会館、そして、図書館等の6施設を複合化するというものでした。図書館は市民要望が非常に高く、有権者の気持を捕らえるには格好の選挙公約なのです。

しかし、6施設の複合化に係る建設工事費は67億円で、新たな市民負担は生じないとすることに、疑念を抱く市民も多くいました。

西岡市長は、庁内に「6施設複合化プロジェクト・チーム」(PT)を設置し、自らの選挙公約の検証に入りました。本来、自らが検証して公約とするものです。そうでなければ、実現が不可能でも公約となり、無責任に言ったもの勝ちになってしまいます。職員に公約を検証させること自体にも問題があります。

その後、市長は検証中にも係わらず6施設の公約を撤回し、図書館等を除く4施設に変更することを議会で表明しています。

8月31日、PTの最終報告書が議会に示され、「6施設複合化には109億円の財源を必要とする」というもので、選挙のときに示された財源計画とは大きな隔たりが生じています。また、PTの調査、検討には選挙時の資料の提供や、市長の具体的な対応もなかったようで、市長の意志の入らない報告書となっています。

本来、市長がPTに積極的に加わり自らの責任で作成しなければ、それは、職員の単なる自主研修・勉強会の域を出ず、その研究成果の発表の報告書になってしまうのではないかと危惧します。

報告書の最後に「事業の推進に当たっては他の行政需要とのバランス等を勘案の上、総合的に判断されていくべきものと考える」との指摘は的確であり、これが検証の集約になるのでしょう。

最終報告書に対する議会での質疑の中で、「市長公約の6施設複合化は、でたらめの空想に過ぎないと言っても過言でなく、まさに『詐欺同然』と市民から指摘されても仕方ない」との議員の発言がありましたが、市長からも他の議員からも発言の撤回を求める声すら出ず、最後に市長の「いただいたご質問とご意見と、市民の声を合わせ、しっかりと庁舎問題等の解決に取り組んでいく所存でございます。本日は誠にありがとうございました」は、形式的に用意された挨拶文であったとしても、「詐欺」という言葉になぜ反論しないのか、私には考えられません。

今、早急になすべきは、清掃関連施設の整備も含めた6施設の財政計画と建設スケジュールです。それが示されなければ羅針盤も航海図も持たずに荒海に出港するようなもので、議会も市民も判断が難しいのではないでしょうか。

来年2月に次の契約更新の判断が求められる第二庁舎や新福祉会館の今後の対応、旧福祉会館の借地料と地上権の取扱いの問題など、課題を先送りせず早急な対応が必要だと思われます。

(つづく)