走り続けた16年(269)

市の病巣にメスが

私の2年間の市議会議員としての経験から小金井市の財政危機等のガンは維持補修係と施設管理係の2係にあり、これが改善されなければ小金井市の再建は有り得ないと認識していました。しかし、反社会的勢力を思わせるこの部署の改善は困難を極めました。

大久保慎七市長による昭和62年9月定例会で「西部浄水場用地の適正化について」と、「学校施設の管理業務について」の市長報告がありました。西部浄水場用地の適正化を契機に事業の見直しが進み、最終的に維持補修係は民間委託になりました。次は「学校施設の管理業務」についてです。

小・中学校の宿直は若い男性教員が行っていたが、日教組の運動もあり自治体が責任を持つことになり、アルバイトの臨時職員等の個人委託方式で運営してきたが組合の誘導もあり正職化の運動が進む中、46年の革新永利友喜市長の誕生です。48年7月からの30日間の連続の交渉に屈して1施設3名の配置で30施設に90人を正規職員として採用を約束したのです。当面は職員定数条例との関係から意味不明の準職員として配置しました。

このシフトは、1日働いて2日の休みの繰り返しです。その勤務時間も平日は午後4時30分から翌日の午前8時30分までが拘束時間ですが午前0時から6時までは睡眠時間になります。そのため、3日に1度泊まりに行くだけでの職員、とか、月10日の勤務で年収700万円超の警備員も、とマスコミが飛び付く程でした。

その正職化が進まないことから昭和49年5月27日午前9時、登庁する永利市長を市の警備員が多数で取り囲みネクタイや胸ぐらをつかみ足蹴りで左足の打撲は全治3週間の診断がでる負傷となった。しかし、「労使慣行の正常化と、本人の生活権と将来を考えて(法的)手続きはしない」との議会の答弁でした。何と寛大な措置なのか。市長も職員も常軌を逸した、考えられない対応が組合を増長させ市政を誤った方向に向かわせたのです。

52年市議会が職員定数条例を改正したことで96人の警備員が正規職員となりました。

また、新たに採用された警備員もいわゆる「37協定」による同一年齢同一賃金により役職に関係なく年齢で給与が決まる制度の恩恵を受けることになるのです。

さて、問題の市長報告の「学校施設の管理業務について」の内容は、市長が警備員に欠員が生じても補充に応じないことから、組合は欠員部分を超過勤務で埋めることを拒否したため、暫定措置として教育委員会の管理職者が代替え勤務で学校の宿直を行っていることの報告でした。

62年9月定例会の最終日、「学校施設管理に関する決議」が共産党を除く全員の賛成で可決されました。決議の内容は、①部課長による宿・日直は中止、市民の納得を得られる施設管理方法を早期に見出すこと。②施設管理業務を適確に遂行するため分散している施設管理事務室を一か所にすること。です。

私は②に大きな意義を感じていました。それは、天皇とも影の市長といわれるカリスマ的支配の執行委員長が施設管理係の係長として市民や職員の目に付かない個室で信奉する係員を補佐に、当局が特別に優遇していることへの不満からです。

(つづく)

走り続けた16年(268)

組合の民生化が胎動

昭和60年4月、市議会議員になった私は、市民の目の届かないところで行われる団体交渉が朝になろうとも労使交渉が終るまで常に周辺でその成行きを見ていました。組合から不当介入だと抗議を受けたが続けました。

それは、交渉が暴力的にならないことや当局の安易な妥協を防ぐためでした。さらに過去の組合活動の経過にも注目しました。

昭和37年の「37協定」は役職には関係なく年齢が同じなら同じ賃金の年齢給の導入。職務命令違反で懲戒免職になったM組合委員長の復職。警備員の正職化を求め組合が支援する革新の永利友喜市長への傷害事件。その暴力を恐れてか52年に96人が正規職員に。また、ごみ収集等の多摩清掃公社の直営化で100人の職員増と、信じられない採用の連続でした。市民が納めた血税が組合支配の強い非効率的な職員の人件費として使われました。

市議として2年を経た62年4月大久保慎七市長が誕生しました。私が議員として市政に参画する目的は、危機的財政の健全化で、それには全国ワーストの人件費の改善が必須です。そのためには組合主導から民主的な労使関係の構築のため、大久保市政の12年間も私は労使交渉を常にチェックし続けました。

組合の指導者はカリスマ支配のM執行委員長で影の市長とも天皇とも言われており、それを信奉する職員も少なからずいて、反社会的勢力と比喩される程に尖鋭化していたのです。その中核をなすのが建設部維持補修係や施設管理係など現業職が主で、それは、想像を絶するものでした。

大久保市長就任5か月後の9月定例会で計らずも問題の「西部浄水場用地の適正化について」と「学校施設の管理業務について」の市長報告がありました。

「西部浄水場用地の適正化」は、多摩地域の安定給水のため小平市上水南町3にある都水道局用地に2万トンの配水池を築造するため当該地東側にある市建設部資材置場の返還要求についてでした。

この用地は市が配水池用地として取得し、その一部を資材置き場として使用していたものを、49年、水道施設等を提供することで都の一元化に加わりました。しかし、資材置場は使用許可の契約もしないまま済し崩しで使用していました。

建設部維持補修係は40人前後の職員を擁し、中堅建設会社以上の重機も保有し、小金井建設(株)と揶揄される程でした。典型的非効率で無駄な事業の執行を続け、他市にある資材置場の管理も不十分で最も改善が必要な職場の一つでした。

都の強硬な返還要求に、職員組合は確保を主張したが、市長は水道水の安定供給の必要性から代替地の確保に努めました。その結果、梶野町4に借地し移転しました。

私の市長時代、この問題のある職場は民間委託を決めて実行しました。現在、この部署の正規職員はゼロになっています。市の行政改革の一例であり、これにより、職員組合の民主化も進みました。

また、梶野町の資材置場も返還し、新小金井駅東の狭い市有地に移っています。

現在、都水道局上水南浄水場の配水池の上部を市が借用し、小金井市テニスコート場として7面の人工芝のコートやクラブハウス、シャワー室や談話室等を備え、多くの市民に利用されています。

(つづく)