走り続けた16年(256)

人件費率全国ワーストに

昭和33年の市制施行以来、小金井市の職員組合は「西の京都、東の小金井」と評される程に強力な組合となりました。法律で定められている職務・職階による「職務給」ではなく、年齢によって給与を定める「年齢給」とする「37協定」を実現させたり、職務命令違反で懲戒免職処分になった職員組合の執行委員長を復職させるなど、強力な組合体制が形成されていました。

46年4月の統一地方選挙は革新ブームもあり、永利友喜氏の当選により小金井市にとって初めてとなる革新市政が誕生しました。この革新市政実現には職員組合の積極的な支援もありました。

その組合の支援を受けて当選した永利市長にとっては厳しい市政運営が強いられることになりました。自分たちの支援で当選させたとする組合は、当然市長を支えていくものと思われたが、前号でお知らせした通り、社会常識を逸脱した暴力的手法を使ってでも理不尽と思われる要求を次々に提案「誰のお陰で当選できたと思っているのだ」との考えでその要求を次々に実現させていったのです。

それは、市の業務は市の職員でという直営主義で、次々と職員の正職化を進めました。それによる人件費の増は「人件費は事業費」との考えによるものでした。地方自治体の第2条第13項『地方公共団体は、その事業を処理するに当たっては、住民の福祉の増進に努めるとともに、最小の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない』と規定されています。これは、行政経営の基本中の基本であり、これすら守られていなかった8年ということになります。

これに危機感を持った中町、東町、本町の一部の青壮年で組織された中山谷青壮年会の若者が立上がり、48年に「小金井市は市民の納税額に対して教育費など市民への還元が少ない」と近隣市と比較した数字を機関紙で証明しました。その原因が職員増のための人件費にあることも明らかにしています。

また、革新市政を憂え警備員の正職化運動を問題視した全市的若者による「菊栄会」も組織され、積極的に活動されました。私も後年参加しました。

さらに、小金井青年会議所も具体的な財政健全化策を機関紙で提案していました。

昭和52年11月24日の日本経済新聞(日経)で51年度の全国662市の財政状況がランク付けで詳細に発表されました。一面に大きな見出しで、人件費比率ワースト1位が小金井市であることが報じられたのです。さらに、見開きの2ページを使って詳しく解説されたのです。議会もこれを看過することにはならず議論になりました。しかし、人件費問題は一朝一夕に変えられるものではなく、翌53年10月15日の日経で2年連続して人件費ワーストが報じられました。

その後も人件費問題には歯止めがかからず昭和50年代の10年間でワーストが8回、2位3位が各1回と最悪の状況が続きました。

昭和48年に発生した第4次中東戦争による石油ショックが狂乱物価を招き、石油製品やトイレットペーパーの品不足等で市民生活が大変な時代でした。

昭和54年4月の市長選挙は、前回552票の僅差で惜敗した星野平寿氏が4千票差で勝利し、2期8年に及んだ革新市政にピリオドが打たれました。

(つづく)

走り続けた16年(255)

革新市政のガバナンス

私が小金井市に転入して来たのは昭和48年9月で革新市政の真っ直中、市役所の中では信じられない驚くようなことが続々と起こっていたことを後で知ることになります。

昭和49年3月、1年を通して最も重要な定例会が行われている14日、本会議開会のコールがあり、議長や議員、そして、職員も席に着いているのに市長が現れず議会が開けない状況でした。原因は何と、警備員の正職化を求める組合員により市長が市長室に軟禁状態だったからなのです。

また、昭和49年8月7日の第4回臨時会で永利市長は議員の質問に「5月27日午前9時頃、東庁舎入口で市の警備員多数が私を取り囲み、ネクタイや胸ぐらをつかみ足蹴りで左足に打撲を受け全治3週間の診断を受けたのは事実です」と答弁。さらに、「労使慣行の正常化と本人の生活権と将来を考え(法的)手続きはしない」と答弁しています。

警備職員の正職化を求めて、一部職員は暴力を使ってでも要求を通そうとするのです。これに対し市長は報復を恐れてか、不問に付すのです。考えられない対応です。その後、警備員は正規職員として採用され37協定(年齢給)の恩恵に浴することになります。

さらに、49年夏、一般職及び管理職の人事異動を、一般職は7月10日、管理職については7月15日の予定が調整に手間取り、結局27日に同時発令となりました。それも、市役所内で辞令を渡すのでなく、市長の自宅に呼んでの交付です。また、対象の部課長には、深夜から28日未明にかけて市長と助役が自宅を訪ねて辞令を手渡すという全く考えられない異常な手法で辞令が交付されたのです。

それは、この人事異動に不満を持つ職員組合が辞令撤回の猛烈な反対運動を扇動し、庁内を大混乱に陥らせていたからです。

職員組合の過激な行動で市長自身が登庁できないという混乱の状況も起こりました。

市長は当然人事権は市長の専権事項であり組合の要求を拒否するが、革新市長と組合の対立は続き、辞令をもらった部課長は身動きが取れず、日常業務にも支障が出てくる始末でした。その結果、この辞令も組合の不当な要求に屈服し、8月10日管理職の異動を全面撤回する始末でした。

さらに、革新市政2回目がスタートして間もない昭和50年7月、夏のボーナス交渉が難航してることから組合は保育園、学校給食、浄水場を除く全職員に「一斉半日休暇」の実力行使を指示しました。これに対して市長は「業務に支障を来すので一斉休暇は認めず拒否するように」と41人の課長に命じました。しかし、全課長が市長の業務命令に背き、組合の意向に従い半日休暇を与えるのでした。

この異常な状況は、多くの真面目な職員のモチベーションにも影響を与え、人件費は増えるが、勤労意欲は減退し、市民には踏んだり蹴ったりでした。

市長は市民に選ばれた市民の代表です。選ばれた者の誇りと責任を持つのは当然です。私人の永利氏なら判断は別ですが、公人である市長が不法な暴力に屈することは到底許されません。まして、市長が職員からの暴力で行政がねじ曲げられることは想定外で、絶対に許されません。

革新市政の2期8年は全くガバナンスが働かなかったのです。

(つづく)

走り続けた16年(254)

革新市政の過ち

昭和46年4月25日、全国統一地方選挙が各地で行われました。小金井市の市長選挙は保守系無所属の現職、関綾二郎市長に社共統一候補の永利友喜前市議の保革一騎打ちとなりました。その前段に行われていた都知事選挙は美濃部都知事が、小金井市においても相手候補の倍以上を得票する大勝で再選を果たしていました。その余勢を駆って革新候補の永利候補が勝利し、小金井市三代目市長に就任しました。また、同時に行われた市議会議員選挙でも保守系の当選が12名と、はじめて過半数割れとなり、社会党6名、共産党5名、公明党2名、社民党1名と革新系候補が躍進し、与野党は別として市長も議会も保革逆転の形になりました。

この結果、市政は激しく揺れ動き、大きな変化を来すことになりました。この統一地方選挙は革新のブームとなり、中央線沿線市においても、革新市長が多く誕生しました。

この選挙には、実力行使で数々の要求を強引に押し通してきた市職員組合も重大な関心を示していただけに、その結果に満足したのは言うまでもありません。また、選挙結果に示されたように、都市化による人口急増で市民意識にも大きな変化が生じてきました。

私は、この革新市政の8年間は取り返しのつかない失政を侵したと思っています。しかし、政策判断は市長の決定ですが、その決定には議会の同意が必要であり議会の責任も重いと言わざるを得ません。市長も議員も民主的手続きによる選挙で選ばれたものであり、最後のツケが市民に回ってくるということもやむを得ないことになるのでしょう。

革新行政は直営主義で、市の業務は市の正規職員で行うことを基本としています。そのため、ごみやし尿を収集する多摩清掃公社、学校等警備員、学童交通指導員(緑のおばさん)、庁内清掃、電話交換、ボイラーマンと次々に直営化し、関市長の最後の昭和45年は人口9万2千337人で、職員は662人だったのが永利市長最後の53年は人口9万9千22人と約7%増に対し、職員は1千130人と約1・7倍に膨れ上がりました。これにより、一般会計に占める人件費比率は昭和50年代の10年間で全国600を越える市の中でワーストを8回、2位3位を各1回記録することになるのです。

この間の損失は計り知れない金額になります。そのため、近隣市と比較するまでもなく都市基盤整備の遅れや文化施設、スポーツ施設、教育施設など公共施設の不足はここに起因します。

人件費問題の解決は一朝一夕に片付くものではありません。そのため、一時の過ちが取り返しの付かない大きな損失となります。

一例を挙げれば警備員問題です。

学校警備は古くは若手の教員が宿日直でしていたものを、日教組の運動で自治体の業務となり、臨時の職員や警備会社に委託して行っていました。

小金井市では48年10月、1施設3名の準職員の体制としましたが52年4月1日、市議会で職員の定数条例の可決を経て警備員96名が正職化されました。

学校警備のシフトは1日働いて2日休みとなり、勤務時間は夕方に出勤し、深夜から早朝までは仮眠時間、翌朝、教頭等に引き継いで勤務終了です、これに、一人分の給与が支給されていたのです。

(つづく)

走り続けた16年(253)

急速な都市化の課題

昭和33年10月1日、人口4万124人で市制施行した小金井市は高度経済成長の中で、関綾二郎市長の任期満了の昭和46年までの12年間に9万2千337人と2倍以上に増加し、一農村から都心へのベッドタウンとして都市化の波が一気に押し寄せ、行政は全力で走り町は大きく変貌しました。

昭和34年には武蔵小金井電車区が完成したことで武蔵小金井駅から始発電車が出ることも通勤者には魅力でした。市内には緑町団地、本町住宅、貫井南町住宅、公務員住宅の大型団地の建設等による人口急増で都市基盤の整備が急がれました。昭和38年公務員住宅の完成時は生徒増の対応に学校建設が間に合わず入居の延期を要請して凌いだ程でした。

生活に必需の水道も深井戸から汲み上げで供給不足となり武蔵野市に応援を求めたりして急場を凌ぎました。その後、東京都から利根川の水の分水が決まり、給水は安定しました。また、昭和41年9月の水道料金の大幅な値上げは大きく市政を揺るがせました。

悩みはし尿処理にもありました。畑の肥料として使っていたし尿が人口急増と急激に進む都市化で処理が困難となり、村山町(武蔵村山市)の山林に大きな穴を掘って野外投棄していたのが、年々増える処理量に村山町から搬入を中止するよう申し出があったが、投棄場所のない小金井市は新たな処理施設ができるまで、と言って続行していました。

東京都の斡旋により同じ悩みを持つ武蔵野市と村山町による2市1町で処理施設を村山町に建設することで同意。昭和38年6月30日武蔵野、小金井、村山地区衛生組合のし尿処理場が完成し、それまで転々と投棄場所に穴を掘り野外投棄し、近隣住民の迷惑となっていた難題が解決しました。その後、小平市、東大和市が加わり「湖南衛生組合」として事業を行ってきたが、各市とも公共下水道の完成により処理量が激減したことから規模を縮小し、7ヘクタールあった広大なし尿処理場が一転素晴らしい住宅街に変身しました。私は市長時代「湖南衛生組合」の役員として、武蔵村山市には長く迷惑を掛けお世話になったことへの恩返しを考えていたので目的が果たせました。現在、さらに立川、国分寺市も加入しています。

昭和44年7月、市は家庭から排出される雑排水の公共下水道事業にも着手しました。

昭和39年に開設された東小金井駅に伴う区画整理事業は鈴木、関両市長からも提案されたが、反対運動で消滅してしまいました。

人口急増により小・中学校、保育園、児童館、学童保育所などの建設も進みました。

市の街づくりの基本となる小金井市都市計画も昭和37年に決定したもので、現在もこれに基づいての街づくりが進められています。

都市化が進む中で行政は懸命にそれに対応すべく努めました。

また、若手職員により再結成された職員組合が難題を次々と力ずくで押し通したことから、全国にその名を馳せる程の強力な組合になったことも、この時期のことでした。

昭和46年4月25日に執行された任期満了の市長選挙は保革一騎打ちの戦いとなり、結果は現職の関綾二郎市長の1万8千174票に対し、永利友喜氏が2万502票で勝利し、小金井市に革新市政が誕生することになりました。

(つづく)

走り続けた16年(252)

政策の不継承が問題

小金井市が市制を施行して約65年、現在の白井亨市長まで10人の市長が誕生しました。市長が再選、再々選を果たせず保守から革新、革新から保守への交代や、任期途中での辞職などで政権に継続性のない状況が多くあり、そのため、政策が継続されず長年かけて完成させる街づくりなどの大事業は進展しませんでした。

その中で、政権の継続は初代の鈴木誠一市長から助役の関綾二郎氏へと、6代目の大久保慎七市長から与党の議員だった私、稲葉孝彦への引き継ぎの2度を数えるだけでした。

鈴木市長は組合の執行委員長を懲戒免職にするなど、組合対応は強硬姿勢でした。また、任期を残り僅かにして赤字続きの水道事業の健全化のため、大幅な水道料の引上げを与党議員による強行採決で果たしました。そのため、値上げ幅の大きい団地居住者を中心に使用料の不払い運動に発展し、市はこれに延滞金を加算することも決断しました。野党そして反対市民とは全面対決ですが、鈴木市長はあくまで強硬姿勢を貫きました。また、昭和41年10月21日総評の主導による全国的ベトナム反戦統一ストが計画され、市は全職員に警告書を出して参加の自粛を求めたが就業時間に食い込む職場大会を開いたことから先導した21人の職員の処分が予告されました。

昭和42年4月29日に執行された市長選挙は鈴木市長の後継でありリベラル保守を自認する関綾二郎氏が1万4千721票、革新統一の竹川明氏が1万3千410票、革新無所属の岩内義明氏が2千226票で関候補が勝利しました。

選挙後、退任する鈴木市長は、「新市長を迎え、より良き市政が行われることを確信してます。私に寄せられたように、新市長にもあたたかいご支援、ご協力を念願してやみません」との挨拶文が市報で紹介されました。

関市長は就任早々の職員組合との団体交渉で、組合の「M委員長不当首切り撤回」と「10・21ストの21人の処分予告の撤回」の要求に対し、柔軟に対応する考えを示し組合側の意向に沿うような回答になりました。

水道料金は不払い運動が続き滞納額が増え水道会計の赤字が増大することから、市は料金の引き下げの検討に入り、関市長最初の昭和42年6月定例会に値下げ案を議会に提案し議決しました。それに伴う水道料金不払い運動で料金を滞納していた住民団体等には延滞金は取らないことも示し決着をみました。

また、当局は11月の団交で10・21ストの21人の処分は行わないことも表明しました。

さらに、昭和43年4月27日付けの事例で、組合委員長だったM氏の懲戒免職処分を半年間の停職処分に改めることを決定、組合の5年の執拗な運動が通りM氏は復職しました。

鈴木市政の重要案件は、当時助役を務めていた関市長により全面的な当局の譲歩で解消しました。がしかし、治まらないのは保守系与党議員でした。異例の強行採決で信山重由議長がクビをかけて通した水道料金の大幅引き上げも、新市長による最初の定例会で引き下げの提案となり、これによる不足分は一般会計で賄うということには、当初の値上げの理由の独立採算制との整合性が取れず、反対することもできず、議会の過半数を占める保守系与党は複雑な立場に立たされました。

(つづく)