走り続けた16年(252)

政策の不継承が問題

小金井市が市制を施行して約65年、現在の白井亨市長まで10人の市長が誕生しました。市長が再選、再々選を果たせず保守から革新、革新から保守への交代や、任期途中での辞職などで政権に継続性のない状況が多くあり、そのため、政策が継続されず長年かけて完成させる街づくりなどの大事業は進展しませんでした。

その中で、政権の継続は初代の鈴木誠一市長から助役の関綾二郎氏へと、6代目の大久保慎七市長から与党の議員だった私、稲葉孝彦への引き継ぎの2度を数えるだけでした。

鈴木市長は組合の執行委員長を懲戒免職にするなど、組合対応は強硬姿勢でした。また、任期を残り僅かにして赤字続きの水道事業の健全化のため、大幅な水道料の引上げを与党議員による強行採決で果たしました。そのため、値上げ幅の大きい団地居住者を中心に使用料の不払い運動に発展し、市はこれに延滞金を加算することも決断しました。野党そして反対市民とは全面対決ですが、鈴木市長はあくまで強硬姿勢を貫きました。また、昭和41年10月21日総評の主導による全国的ベトナム反戦統一ストが計画され、市は全職員に警告書を出して参加の自粛を求めたが就業時間に食い込む職場大会を開いたことから先導した21人の職員の処分が予告されました。

昭和42年4月29日に執行された市長選挙は鈴木市長の後継でありリベラル保守を自認する関綾二郎氏が1万4千721票、革新統一の竹川明氏が1万3千410票、革新無所属の岩内義明氏が2千226票で関候補が勝利しました。

選挙後、退任する鈴木市長は、「新市長を迎え、より良き市政が行われることを確信してます。私に寄せられたように、新市長にもあたたかいご支援、ご協力を念願してやみません」との挨拶文が市報で紹介されました。

関市長は就任早々の職員組合との団体交渉で、組合の「M委員長不当首切り撤回」と「10・21ストの21人の処分予告の撤回」の要求に対し、柔軟に対応する考えを示し組合側の意向に沿うような回答になりました。

水道料金は不払い運動が続き滞納額が増え水道会計の赤字が増大することから、市は料金の引き下げの検討に入り、関市長最初の昭和42年6月定例会に値下げ案を議会に提案し議決しました。それに伴う水道料金不払い運動で料金を滞納していた住民団体等には延滞金は取らないことも示し決着をみました。

また、当局は11月の団交で10・21ストの21人の処分は行わないことも表明しました。

さらに、昭和43年4月27日付けの事例で、組合委員長だったM氏の懲戒免職処分を半年間の停職処分に改めることを決定、組合の5年の執拗な運動が通りM氏は復職しました。

鈴木市政の重要案件は、当時助役を務めていた関市長により全面的な当局の譲歩で解消しました。がしかし、治まらないのは保守系与党議員でした。異例の強行採決で信山重由議長がクビをかけて通した水道料金の大幅引き上げも、新市長による最初の定例会で引き下げの提案となり、これによる不足分は一般会計で賄うということには、当初の値上げの理由の独立採算制との整合性が取れず、反対することもできず、議会の過半数を占める保守系与党は複雑な立場に立たされました。

(つづく)