走り続けた16年(64)

この1年を振り返って

平成29年も残り僅かになりました。当欄「走り続けた16年」も本年最後になりました。1年間のご愛読に感謝申し上げます。

この1年を振り返って、皆様にとってどんな年だったでしょうか。喜怒哀楽いろいろあったことでしょうが、幸多き年であったことだと思います。

天皇陛下の退位を実現する特例法の制定により、天皇陛下が平成31年4月30日に退位し、翌5月1日、皇太子殿下が即位します。同時に新たな元号に改められることが決定しました。「平成」の時代もあと1年4か月で幕を引くことになり、新たな元号がスタートしますが、元号でその時代を証言したり、自らの人生の節目とすることもあります。来年は平成の仕上げの年になることでしょう。

世界は、1月米大統領に就任したドナルド・トランプ氏と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の動向に危機感を感じた1年でした。両者とも大人気ない子どもの口喧嘩のような信じられない言動の繰り返しで、この二人に世界の命運が握られていることに空恐ろしいものを感じます。

また、世界中を震撼させた過激派組織イスラム国(IS)は崩壊しましたが、世界に紛争やテロは絶えることなく、多くの難民が発生しています。紛争地域に生まれたがために、瓦礫の中で恐怖と飢餓に苦しみながら、学校にも行けずにいる子どもたちを思うと大変心が痛みます。

平和で豊かな生活を営む私たちもその現実を直視し、自分たちに何ができるかを考えなければなりません。

小金井市は1年を通じて選挙の年でした。3月の市議選では一人の同志を失い、7月の都議選は今でも信じられない風が吹き、そして、10月は解散に伴う衆院選となり、私が小金井市の選対本部長を務めた土屋正忠氏が惜敗するなど、結果の出せない選挙戦になってしまったことが非常に悔やまれます。

私は、過日73歳になり、健康寿命の平均年齢の71歳を超えましたが、さらに健康寿命延伸のためウオーキングを続けています。連日市内を歩いていますが、4月末のウオーキングフェスタで30㌔㍍、8月末は三宅島一周約30㌔㍍、11月5日は野川の源流である国分寺真姿の池から多摩川との合流点である二子玉川まで完歩しました。

昨年12月から今年の11月までの1年間、スマホによる歩行距離は4千㌔㍍で、ほぼアメリカのロスアンジェルスとニューヨーク間に近い距離を歩いたことになります。1日平均11㌔㍍超となり、歩数にすれば約2万歩で、今思うと、少し歩き過ぎたとの思いです。

「健康長寿小金井」を推進するには、健康寿命の延伸が必要です。そのためには、バランスの取れた食事、環境や体力に応じた適度な運動、そして、社会参加が必要です。

さあ、家を出て近所を歩きましょう、知人や友人にお会いできるし、私もお会いしたいと思いますので。

どうぞ良いお年をお迎えください。

(つづく)

走り続けた16年(63)

衆院選 ⑤

私は、政権交代が可能な二大政党制が理想だと考えます。

それは、保守対革新でなく、現実路線を継続できる保守対保守が理想であると思います。そのためには、単なる抵抗勢力でない健全な野党が期待されます。しかし、それが実現せず自由民主党の一党支配が一時期を除いて長期間に渡って続いてきました。それが、たまたま平成21年の衆院選で自民党首脳の不適切な言動などにより、国民が自民党政治に嫌気がさし、民主党に一度やらせてみたらという風潮で民主党政権が誕生しました。

しかし、その3年3か月間に鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦氏と三人も首脳が変わり、その間に、東日本大震災が発生、その危機対応を誤り、現場を混乱させ、その後の課題解決も充分に果たせず大混乱に陥りました。

株価も下落を続けるなど経済も低迷し、失業率も上昇し就職困難期となるなど国民失望の中、再び自民党が政権に復帰しました。

危機に対し適正な判断のできない政党に政権を任せられず、当時の民主党の子ども手当てなど人気取りの政権公約、マニフェスト等を見ても政権を担っていくのは無理があったと考えます。

今回の衆院選の公示直前に小池百合子都知事による希望の党が誕生しました。そして、離党問題で混乱し、先の見えない民進党は前原誠司代表の決断により希望の党との合流を決定しました。

しかし、小池代表は、民進党の全てではなく政策の異なる人々は「排除する」の一言により状況は一変しました。私は小池知事の政治手法に与みするものではないが、民進党と合流するには政策を同じくする者が集まって運営していくのは当然だと思います。「排除」の言葉は本人の人柄が出てしまい墓穴を掘りました。

民進党が党の一部を残して希望の党、立憲民主党、無所属の会に分かれました。それらが、再び意見の対立を残したままで統合するような動きは信じられません。また、希望の党の代表選では基本政策の異なる二人の争いとなり、現実的対応を執る玉木雄一郎氏に決まりましたが、大串博志氏と同様の考え方の議員も一定数内在することになります。これでは、北朝鮮問題が切迫する国家の危機等に対し、ガバナンス(統治能力)の欠如を招き、民進党政権時と変わらず、結局、政権を担うという存在にはなりません。

立憲民主党も反自民、反安倍政権の抵抗勢力に過ぎません。自民党に対抗できる健全野党の登場に期待します。それが、結果的に自民党政治の質の向上につながるとともに、ひいては日本の政治のレベルアップになるものと考えるからです。

政権交代を可能にすると期待した小選挙区制度でしたが、課題も多く、当然ですが死票が多く出るし、得票数と当選者数のアンバランスの発生。当選には政党の支援が必要になり、議員は政党に従うことになります。また、その時の風に乗っての当選も多くみられます。

その結果、中選挙区時代の群雄割拠の風潮や切磋琢磨の気風を失い、特徴ある独自の政策を掲げる議員の誕生も難しくなり、世襲候補に有利な制度になってしまいました。

(この項終わり)

走り続けた16年(62)

衆院選 ④

私が前衆院議員の土屋正忠を知ったのは学生時代で、今から50年も前のことでした。しかし、親しくなったのは、昭和58年の武蔵野市長選挙で多少の手伝いをして以来であり約35年になります。

昭和60年に私が小金井市議会議員になって14年間、さらに、市長としての16年間、地方自治の大先輩とし、また永年の友人としてアドバイスをもらうとともに、小金井市の街づくり等にも尽力いただきました。

長い付き合いの中で、人柄、情熱、先見性、決断力、そして、政策形成能力を見るにつけ、まさに政治家になるべくしてなった人だと思っていました。いつか小金井市も選挙区となり投票用紙に「土屋正忠」と書ける日が来るのを期待し、その時、自分がどの様な役割が果たせるかを考えていました。

菅直人は参院選を含め3度目となる昭和55年の衆参同時選挙で衆院初当選。以降、抜群の知名度で連続当選を続けており、自民党は候補者擁立に苦慮してきました。

衆院選が小選挙区制に変わり、東京18選挙区が武蔵野市、三鷹市、小金井市と決まり土屋と一緒にできるという念願が叶いました。その時、私に「おめでとう」の電話も数本入りました。

土屋は地元武蔵野市は勿論、多摩各地域においても地方自治のリーダーとして、国や都とのパイプ役を果たし多摩地域の発展に尽力してきました。当然、土屋に衆院選出馬要請があります。しかし、「自分は中小企業の社長が似合っている、生涯市長だ」と断り続けていました。

平成8年、小選挙区最初の選挙が執行され、東京18選挙区(当時は武蔵野市、三鷹市、小金井市)は菅の11万7千票に対し自民党候補は2万4千票。次の平成12年は11万5千票に対し5万票。

三度目の平成15年は知名度の高い鳩山邦夫が比例での当選の保証を受けて挑みましたが、菅の14万票に対し8万3千票の得票で約5万6千票の大差をつけられました。

平成17年8月8日の小泉純一郎首相により衆院は解散しました。いわゆる郵政選挙です。武蔵野市、府中市、小金井市の18選挙区は、小泉総裁をはじめ党役員直々の要請を受け、土屋が市長を辞しての出馬を決意しました。私はその情報を遠いポーランドで聞きました。帰国した私は満を持して早速選挙の準備に入りました。

衆院選候補者の公開討論会が行われる小金井市公会堂に二人で歩いて行く途中、土屋が「菅には比例での復活は止めて、小選挙区一本での勝負を申し込む」と言うので、私はその発言はしないでほしいと伝えました。

比例名簿が29日に発表され驚きました。自民党は東京ブロック1位が猪口邦子、2位が土屋、3位は小選挙区立候補者23人が横並びでした。そのため猪口と土屋は戦う前から当選が決まってしまったのです。当然相手陣営は「土屋の当選は決まっています。18区からもう一人の衆院議員を…」という宣伝が繰り返されました。

その結果、選挙は7千800票差まで肉薄しましたが、菅の勝利となりました。党本部の温情が仇となり、自民党圧倒の中で不利な戦いを強いられてしまいました。(敬称略)

(つづく)