走り続けた16年(250)

職員組合M前委員長 復職!!

小金井市が市制施行後の昭和36年1月に再結成された職員組合は当局との対立が激しく賃金改正や「年齢給」の導入などに、組合は職場集会、超過勤務や休日勤務の拒否、一斉休暇などの実力行使を武器に次々に要求を通していきました。

この様な状況の中、当局は昭和38年4月組合のM委員長を懲戒免職に付しました。市議会でこの件に関しての質問に対し鈴木誠一市長は、組合活動や賃上げ交渉とは別問題で、あくまで業務命令違反であるとし、処分に不満であれば都の人事委員会等に審判を求めることができる、との答弁に終始しました。また、この処分に当たっての弁明の機会も完全ではなく、組合側に付け入る隙を与えることになりました。

M氏は請求期限の6月に「不利益処分取り消し」を都人事委員会に審査請求を行いました。審査には自治労関係の弁護団等が代理人となり4年を越える審査となり、毎回多くの市職員が傍聴する中で行われました。

この懲戒免職処分の結末を先に申し上げれば、4年後の昭和42年の統一地方選挙で鈴木誠一市長が引退し、後継者として出馬した助役の関綾二郎氏が当選を果たしました。

懲戒免職に対する都人事委員会での審理は続いていましたが、関市長は組合に対し前市長とは異なる協調姿勢を示し、人事委員会の裁定を待つのでなく、話し合いでの解決に転じました。それは、M氏の復職につながるものでした。美濃部都政になり委員の大幅変更のあった都人事委員会も斡旋の方向で動き出し、関市長と自治労都本部の協議の末、昭和43年4月M氏に、「昭和38年4月10日付けの免職処分を10月9日までの6か月間の停職処分に改める」という内容の辞令が交付されたのです。5年間の闘いは組合側の要求が完全に達成される結果になったのです。

これにより、組合の団結はさらに強固になり、M氏は執行委員長に返り咲き、その後、四半世紀にわたり「影の市長」と称される程の権力を誇示し、小金井市政に大きな影響を及ぼすことになりました。しかし、強権的な組合運営は内部からの批判となり昭和59年をもって委員長の座から降り、M体制は終えましたが、その存在感はその後も続きました。

話を昭和38年に戻します。職員組合のM委員長の免職以来、市長と組合や革新系市議との対立は一層激化しました。6月に入り、市は「小金井市役所庁舎管理規則」を制定することを模索しました。それは、「庁舎の秩序維持管理上市長が必要と判断すれば、市長はその者の庁舎立ち入りを制限し、退去命令を出せる」とするもので、公共目的以外のビラやポスター、立て看板などの持ち込みも制限することから、組合と真っ向からの対決になりました。

この規則の制定の裏には懲戒免職にした職員が、かつての自分の机に着き読書を続け、さらに、庁内を闊歩してることから、これを規制しようと考えたものと思われます。

庁舎管理規則の制定は議会の議決や組合の合意も不要で、市長の判断でできるものを、議会で議論になったことから制定を諦めることになりました。これにより、M氏は誰にとがめられることなく、かつての職場に自由に出入りすることが継続されるのです。

(つづく)

走り続けた16年(249)

職員組合M委員長を免職に③

昭和36年に若手職員により再結成された職員組合は給与改定闘争で画期的な成果を収め、次は年齢別最低賃金を保証する「三七協定」の締結で一層勢いづきました。これは、「部長であろうと平職員であろうと大根一本の値段に変わりない」という理屈で、給与は学歴や職歴、職務・職階に関係なく年齢によって定めるというもので、組合の要求が次々に実現していました。

昭和38年春の賃金闘争も激しく、超過勤務や宿日直の拒否などの実力行使を武器に、連日の団体交渉に加え休暇闘争にも発展し、当局は追い詰められる状況でした。

市長選と市議選を間近に昭和38年4月10日、職員組合の執行委員長である「小金井市事務吏員Mを地方公務員法第二十九条第一項の規定により免職する」という辞令が本人に交付されました。

地公法第二十九条第一項は、法律、条例等に違反したり、職務上の義務に反したり職務を怠った場合や全体の奉仕者に相応しくない非行があった場合は懲戒処分として戒告、減給、停職又は免職の処分することができる、との規定です。

懲戒免職したにもかかわらず当局は組合が怖いのか、市長選で革新系候補が勝利した場合を考えてか、M氏の机を処分できず、M氏はその職場の机を使って数か月、読書にふけっていたようです。

この市長選は革新系の岩内義明候補が勝利すれば「首が戻る」から頑張ろうという組合側の選挙だったようですが、鈴木誠一市長が現職の強みを発揮し再選されました。

また、同時に行われた市議選後の初議会は5月18日の臨時市議会でした。初当選の社会党の岡田清則議員から「市職員組合委員長の免職について」の緊急質問が行われました。岡田議員は、当局と組合が賃上げ交渉中の処分であり、いかなる根拠に基づいて組合委員長を免職にしたか、処分するだけの客観的な事実を示すよう答弁を求めました。

しかし、市長は、組合活動や賃上げ交渉とは別問題であり、市民に対するサービス、職場における綱紀の問題、あくまで業務命令違反の一点ばりで、懲戒免職の具体的な事由は示さなかった。さらに処分撤回を求める発言には、しかるべき機関(東京都人事委員会)に提訴し、判断はそこの審査結果による、と論争を回避する答弁に終始しました。

続いて、同じく初当選の共産党朝倉篤郎議員から「市長の行政処置について(市職員組合委員長の免職について)」の表題で緊急質問が行われました。

朝倉議員はM職員の懲戒免職による業務への影響を質しました。

M職員は固定資産税課償却資産担当で免職により事務の引き継ぎが行われず業務に支障が出たのではないか、に対して、固定資産評価委員であり総務部長は係長が事務を引き継いで支障のないように対応したとの答弁に、担当課長は「償却資産の仕事はM君一人でやっていたので若干令書の発送に支障を来したことは事実です」との答弁になりました。市長からは「今後、異論のないように十分措置したいと考えております」との答弁で緊急質問は終了しました。

請求期限切れの直前の6月に入り、M氏の不利益処分取り消しの審査請求が東京都人事委員会に提出され、審査が開始されました。

(つづく)

走り続けた16年(248)

職員組合M委員長を免職に②

昭和33年10月、小金井町が市への移行を機に公募による職員採用を実施しました。そこで採用された職員が中心になり労働組合が再結成されました。時代を反映し運動が一挙に過激化しました。当局はこれに対応しきれず、賃金闘争では成果を挙げられ、「年齢別最低賃金」を保証するいわゆる「三七協定」が昭和37年3月に合意されるなど、組合側は主張が通る度ごとに、さらに強力になりました。これは、職歴や学歴、職務・職階に関係なく年齢により給与が決まる「年齢給」であり、財政はもちろん職員のモチベーションにも大きな影響を与えることになり、その後、35年間の小金井市政に与えた影響は甚大であり、決して忘れてはならないことです。

時が流れ、市職員も「三七協定」を知る人も少なくなり、労働基準法第三六条の「時間外と休日の労働」により、当局と労働組合が毎年締結する「三六協定」は分かるが「三七協定」って何?、となってしまってます。

また、昭和54年4月に市制施行20周年を記念して刊行された「小金井市議会史」にも、この「三七協定」に関しての記述はありません。さらに当時の市報にも記載はなく、このまま風化されることが懸念されます。

この「三七協定」の合意をはじめ労働運動を先導してきた職員組合のM執行委員長が昭和38年4月10日に免職されました。この免職に対する手続きには疑問を持つものでした。それが、不当首切り反対の運動を盛り上げる要因になりました。

M委員長は市制施行後に小金井市役所に入所し、昭和36年10月5日号の小金井市報に「市役所機構改革 大幅な人事異動行なわる」との見出しの中に「税務課固定資産税係主任M・Y」とあります。入所2年数か月の委員長の抜擢が記述されているのです。これは、入所して間もないM委員長等により再結成され勢い付く組合を押さえるための当局の策だったのか、その効果はなく職場の中に組合の存在感を示すだけのものでした。その次に市報にM委員長の名前が出るのは昭和38年6月5日号で「4月10日付免職 主事M・Y」との記載でした。

この4月は、統一地方選挙で都知事、都議選に続き、4月30日は市長選と市議選が同時に行われ、市長選は鈴木誠一市長が1万3千785票で革新統一候補の岩内義明候補に4千203票の差で勝利し2期目に入りました。

また、同時に行われた市議選では社会党が2から4に、共産党が1から2と増になり革新系は計6人、それに新たに公明党が2人の当選を果たしました。鈴木市政の中核となる保守系無所属は18人が当選し与党体制は堅持されました。

選挙後の新議員による最初の議会は5月18日に開かれた昭和38年第1回臨時会でした。本来、正副議長の選任等議会人事が主の臨時会ですが、革新系議員が増えたことから議会運営についての活発な発言が出され、それが23日まで続き、当然のこととして議会閉会中に起こった市職員組合M委員長懲戒免職について、初当選の社会党の岡田清則議員から「市職員組合委員長の免職について」と、同じく共産党の朝倉篤郎議員から「市長の行政処置について(市職員組合委員長の免職について)」の表題で緊急質問が行われました。

(つづく)