走り続けた16年(29)

財政健全化への闘い ⑰

昭和62年9月議会で、①市民の納得を得られる学校施設管理を②施設管理係の事務室を一か所に、という決議が議決されました。

この決議を実現させるため、私は大久保慎七市長を支える与党の立場ではありましたが、このことについては、厳しくその対応を迫りました。

①は、地方自治法に規定する「地方自治体は最小の経費で最大の効果を上げなければならない」の本旨の則った対応をすべきであるということです。

②について、私は、職員組合を結成(再建)し、四半世紀にわたり委員長の職にあり、西の京都、東の小金井と称される無軌道な組合を指導し、影の市長とも天皇とも称された人を、市民からも職員からも目の届かない個室で執務させる等、当局による特別の処遇に問題がありました。良識ある職員の勤労意欲をそぐなど大きな影響を与え、正常な行政執行を阻害するものであり、これを改善させ、組合を良識化させることが私の主眼でした。

この決議を受け、当局は職場と検討委員会を開き協議を開始しました。その進捗状況は各定例会で市長報告に付されるのですが、時間外手当てを支給しての検討委員会にも関わらず、回数は増えるのですが協議の内容は一向に進展しません。

私は、国分寺市が中学校施設を夜間は機械警備による民間委託に切り替え、一校当たり年間60万円の委託料で実施されていることなどを例に、小金井市の直営による1700万円は大きな問題であり、市長に改善の決断を強く求めました。

平成元年、私は2期目の市議会議員選挙に当選しました。その後、平成3年の市長選挙、私は大久保市長の選対事務局長を務め、大久保市長は2期目の当選を果たしました。

平成5年は、3月の市議選の関係から2月2日に第1回定例会が開かれました。

定例会の冒頭の市長報告で、学校施設管理には一定の進展はあったが決着に至っていないというものでした。

私は、「平成5年度の施設管理に要する経費は4億円を超すことになります。そのうちの3億円が学校警備になります。機械警備の導入などによれば15分の1から20分の1の経費で足ります。市議の任期中、3月までの年度内に解決してほしい。組合との協議が整わないのであれば市長の権限で決断してほしい」と発言しました。

そして、定例会最終日、再度の市長報告があり、学校施設警備は非常勤嘱託職員をもって対応する。現在の正規職員は任用換えを行い他の職場に異動する、というものでした。到底満足とはいきませんが牙城の一角を崩した思いでした。

しかし、難題の②に関しては全く手付かずのままでした。

現在の学校施設警備は、私が目標とした非常勤職員で夜間は機械警備になっています。
(つづく)

【今、市政で何が】
賃借している市役所第二庁舎が民間の不動産会社に売却されました。2年前、第二庁舎取得の予算を提案しましたが、議員の多数の反対で実現しませんでした。後日、その時の議会や私の考え方、上原秀則副市長の対応など本欄で報告します。

走り続けた16年(27)

財政健全化への闘い ⑮

昭和60年4月5日、私の市議会議員としての1期目がスタートしました。

自分の考えを公に発言できることに大変な魅力を感じていました。また、市議会議員1年生ということで議会的には多少の行き過ぎも許されるという状況もありました。

選挙で使った車・タウンエースはスピーカーも付けたまま看板の「稲葉孝彦」を「市民の生活感覚を市政に」に変えて街頭演説に使いました。さらに、市政報告のチラシの配布や新聞1ページのA2判の壁新聞は緑町を中心に。電話によるダイヤル市政報告、NTTのFネットを使ってのFAX市政レポートも。

また、公共施設で市政報告会も定期的に行うなど非常に活発に活動していました。

活動の目的は、行財政改革への市民の理解であり、西の京都、東の小金井と称される強力な職員組合への挑戦です。天皇とも影の市長とも恐れられていた再建時の組合委員長に対し実名を挙げて批判したことは、信奉者の逆鱗に触れることでもありました。

また、近隣の区市の議員5名で「無印良品議員の会」を結成し、活動レポートや小冊子等の発行もしました。

さらに、東京北区の区議会議員だった和田宗春氏(後に都議会議長)を中心に「地方から政治風土を変える会」を結成し、当時の金権腐敗の国政を厳しく批判するとともに、清廉な政治風土を地方から変えていくことを実践し、自民党都連等の顔色をうかがうこともありました。

商売の方も軌道に乗り、市内にクリーニング店やコインランドリーを10店舗程度経営し、たいへん順調な営業成績でした。

しかし、その様な状況の中で、原因や理由は分かりませんが、陰湿な種々の嫌がらせを受けることになりました。
(つづく)

【今、市政で何が】

9月議会最終日の10月4日に行われた本会議の市長報告で、西岡真一郎市長は「新庁舎の建設はゼロベースで見直すことを決断し、今後、市民・議会・行政が一体となって進むべき方向を定める」との考えを表明しました。

昨年12月の市長選挙、西岡市長の公約は、市庁舎・福祉会館・図書館等6施設の複合化は、新たな財政負担はない等のメリットを訴えて当選しました。当選後の議会で、6施設複合化は直近の民意であり、それを果たすことが何より重要なことで、私に与えられた使命であり、何としても果たしたい、と述べていました。

しかし、5月には図書館等を除いて「4施設2機能複合化をゆるぎない方針とする」と公約の変更を議会で明言しました。

さらに、その4か月後には「ゼロベースで見直す」と変わったのです。

私たちの民主政治を支える原点は、公平・公正な選挙です。そして、それは政策論争が基本です。そこで信任を受けた者は、その地位に就くのが目的ではなく、自らが掲げた政策を実現させることが市民への約束を果たすことになるのです。

西岡市長には自ら掲げた公約の変遷を市民に説明する責任があり、それを期待します。

走り続けた16年(15)

財政健全化への闘い⑦

私が小金井市に移り住んだのは43年前、昭和48年9月でした。

学生時代に、田無市(現・西東京市)に住んでいたこともあり、住むなら文教・住宅都市で、交通の便もよく環境に恵まれた小金井市にと思い、狭いアパートでの生活が始まりました。

当時、都知事は美濃部亮吉氏であり、多摩各市にも多くの革新市長が誕生した時代で、小金井市も永利友喜革新市政が誕生し、2年半くらい経過した時でした。労働運動も活発な社会的風潮とはいえ、小金井市の労働運動は異常でした。

なぜこの様な激しい運動に突入していったのかと考えると、前号6月21日号当欄に記したように、当局の姿勢が非常に弱腰で、組合に立ち向かう毅然とした対応がなかったこともその一因です。

昭和52年11月24日の日本経済新聞が、全国644都市の昭和51年度の都市財政を独自の調査をもとに分析し、小金井市の財政問題について、人件費比率が全国ワースト1位であること等、一面と見開きのページで大きく報じました。しかし、それ以降も昭和57年度まで7年連続、昭和58年度は2位でしたが、昭和59年は再びワーストに戻ってしまいました。

小金井市の人件費比率がワーストになったのは現業部門の正規職員化と表裏一体でした。全国的にも、多摩地域でも、労働条件、賃金、仕事の範囲など、現業としては比類のない程に突出している現業の直営化は多摩地域には見られないことであり、全国にも例のないことだったと思っています。

その様な間に、我が家にも子どもが生まれ育ち、夏はプールに行くようになると、市内には二枚橋焼却場のプールしかなく、小金井から大勢の人が設備の完備している府中市郷土の森にある市民総合プールにバスを乗り継いで行くのでした。

府中市民プールの料金設定は非常に低料金ですが、市外の人は府中市民の倍の料金になります。そのため、小金井の子どもたちも慣れてくると、府中市民の窓口に並ぶようになることも生じていました。このことは大人にとっては非常に辛いことでした。私が小金井市政に強く関心を持つようになったのは、まさにこれが原点です。

小金井市民は担税力が非常に高いにもかかわらず、公共施設の整備や街づくりが遅れるなど市民サービスが行き届かない根本は何なのかを考えました。そして、地方自治に関心を持ち、市政の改善の方策を考えるため図書館で資料を閲覧したり、議会を傍聴したりしました。

その様な中で、分かったことは、小金井市の労働組合の異常な強さが、現業直営化による職員増を招き、それが、そのまま人件費を押し上げ、財政悪化を生じさせたことにより、市民サービスの低下となりました。「市民のための市役所」とはいえない状況を作ってしまったのです。

これを正すには市議会議員になることだと考え、昭和60年の市議会議員選挙への立候補を決意しました。
(つづく)

走り続けた16年(13)

財政健全化への闘い⑤

地方自治体の職員に定年制度が導入され、小金井市では昭和60年3月31日、職員の定年に伴う退職条例が施行されました。

同日、小金井市議会議員選挙も行われ、4月5日から私も市議会議員としての任期が始まりました。

また、5月26日、保立旻市長の任期満了に伴う小金井市長選挙が行われ、保立市長が再選を果たしました。

再選した保立市長には大きな課題が待っていました。

それは、職員の欠員補充の問題です。小金井市の人件費問題解決のため不補充を貫いてきた保立市長でしたが、定年制の導入もあり、欠員の補充を求める職員組合の要求は非常に激しいものでした。交渉の過程で当局側から「簡単に職員は採用できるものではない、予算の制限もあることだし」との発言がありました。

昭和60年度の職員の予算は1030人で措置されており、職員の実数の1025人とは5人の乖離(かいり)があったのです。この発言に、5名の欠員補充が可能だと職員団体は勢いづきました。

その様な時、保立市長から相談したいこともあるので、団体交渉等の時は、連絡が取れるよう近くにいてほしいと依頼され、私は、団体交渉等の間は市議会自民党の控室で待機し、その交渉の経過を徹夜になっても見守っていました。

小金井市の労働組合は非常に強いとは聞いていたが、社会常識を逸脱する労使交渉の現状を見聞きし、その実態は想像を超える驚きと怒りの連続でした。一部職員が市長を取り囲み、その耳元で、お前呼ばわりの聞くに耐えない言葉で怒鳴ったりするのです。管理職は、口を出せば火に油を注ぐことになるので、遠巻きに時の経つのを待つだけでした。

市長は市長室に缶詰状態になることもあり、打ち合わせを理由に私が連れ出すこともあり、心配する家族が迎えに来ることもありました。また、時には職員が集団で市長の自宅にまで押しかけ抗議することもありました。

団体交渉は怒鳴り声が廊下にも響き渡る程で、会議室から出てくる職員は声をからしていることも多々ありました。徹夜が続く交渉は、精神的にも肉体的にも限界を超え、正常な判断ができないような状況下での妥結もありました。

3月1日号の当欄にその一部を記載しましたが、これが「西の京都、東の小金井」と称された所以なのかと思いました。

欠員補充の激しい交渉が続く中、明け方近くの午前3時過ぎ、自民党の控室に来た保立市長が、私の目の前で選挙管理委員会事務局長に直接電話し「私が辞めたら、後は法的にどうなるのか」と聞いているのです。

私は、あまりの驚きに言葉が出ませんでした。再選されて、まだ1カ月前後なのです。それ程激しく厳しい交渉だったということです。

そして、間もない7月5日号の『市報こがねい』に、現業職員若干名の募集の記事が小さく載り、その後、5人の現業職員が採用されました。団体交渉の経過を知る私は複雑な心境でしたが、与党は硬化しました。

それが10月31日の大久保慎七助役の辞職につながるのです。
(つづく)

走り続けた16年(4)

小金井市長選挙④

昭和60年3月、私は小金井市議会議員選挙に当選させていただき、地方議員としてスタートしました。その2カ月後の5月、保立晃市長は2期目となる選挙で再選を果たしました。私も選挙対策委員会の一員として、その一端を担いました。その保立市長も、昭和62年3月に突然の辞職(当欄2月11号に経過を掲載)。

自民党は市長選に大久保慎七氏を擁立しました。大久保氏は市職員、助役と豊かな経験を持つ地方自治のベテランでした。自民党が出馬を要請する1週間程前に税理士でもある大久保氏は事務所開設のため「大久保税務事務所」の看板を出したばかりでした。市長選挙には新人3人が立候補し大久保氏が当選、6代目の市長に就任しました。設置したばかりの税理士事務所の看板は黒のビニールで覆われ、その後、撤去されました。

平成3年4月の大久保市長2期目の選挙を間近に控えた平成2年12月議会に「平成3年3月に小金井市職員に支給する期末手当に関する条例の一部改正について」が提案され大混乱に陥りました。私は、本会議でも総務委員会でもこの議案には賛成できないと主張しました。その理由の第一は、財政が厳しい中で人事院等の勧告を0.1カ月上回る、年間5.45カ月(平成27年度は4.2カ月)のボーナスの支給であること。また、団体交渉は11月28日が11時間45分、29〜30日が23時間50分、3日〜5日にかけては17時間35分と23時間50分の長時間の拘束となり、市長をはじめとする交渉担当にとって反人道的問題である交渉だということ。さらに、東庁舎2階の市長室周辺に所狭しと貼られたビラも外すことができず、ストライキの実施に対し処分もできない当局の対応だからです。

この様な状況での労使合意は到底認められないというのが私の主張であり、自民党8人の会派の意見でした。結局、総務委員会で採決されず継続審査となり、議会は大混乱、最後は本会議流会(自然閉会)となり、補正予算8件は審議未了廃案となりました。

大問題に発展した本議案も、越年した3月議会で自民党の7人が賛成に回り、共産党や社会党など野党の賛成により、可決されました。

私は、対等・平等・平常の労使交渉での妥結とはいえない。また市民に理解が得られる内容でもないと、反対を貫きました。

この騒動を契機に労使関係は健全化交渉へと大きく改善されていったと思います。

自民党小金井支部の事務局長を務める与党の議員が、市長選挙直前に市長の提案する議案に反対し、議会を混乱させたことには、それなりの覚悟が必要です。私は、事務局長辞任を申し出ましたが認められず、議案に賛成するよう積極的調整に動いた保守系の長老の人たちからは、今度は辞任を翻意するようにとの働きかけになりました。さらに、大久保選挙対策委員会の事務局長を受けてほしいとの意向も受けました。

大久保市長とは、膝を交え真剣に市の将来や行革について話し合い「今回のことはお互い水に流す」と決着。結局、選対の事務局長をもお受けすることにしました。

選対の事務局長は遣り甲斐のある仕事でした。オーケストラのコンダクターの気分で全力を尽くしました。選挙結果は大久保市長が再選を果たしました。

(つづく)