走り続けた16年(247)

職員組合M委員長を免職に

昭和36年1月に再結成された職員組合は同年の自治労・第一次賃金闘争で成果を上げ、翌年の第二次賃金闘争では「年齢別最低賃金」を約束させる「三七協定」を昭和37年3月に合意させたことで、4月にはほとんどの職員が大幅な賃上げを果すことになりました。

この「年齢給」は平成9年度に「職務給」に改善されるまで約35年間にわたり小金井市民が人件費問題で苦しむ原因になりました。職員組合は次の目標を夏の一時金(ボーナス)闘争に定めました。大幅な昇給を決めた後だけに当局は条例通りの提案をしたが、勢い付く組合は前年の支給率を既得権に大幅増の要求になりました。

6月に入り組合は超過勤務拒否や宿日直拒否の実力行使に入りました。当局は市民に迷惑をかけない円滑な行政執行を何より望むものです。そのため、実力行使による行政の停滞は市長にとっては最大の悩みになります。職員側にしても、超勤を拒否することは仕事が溜まることで辛いのですが、組合の方針に逆らうことにはなりませんでした。

その様な状況の中、7月1日に執行される参議院議員選挙を目前に選挙管理委員会事務局は連日の残業で事務作業をしてましたが、選管の職員も組合の方針に背くことにはならず事務作業は遅れ、選挙執行が危険視されるようになりました。選管の委員は辞職も念頭に超勤拒否の解除のため妥結することを強く市長と組合に求めました、小金井市において参院選挙が適切に執行されなければ全国的な大問題になります。結局は市長が条例通りの提案を見直すことを約束することにより、組合は超勤拒否の闘争から選管事務局を外すことにはなりました。

6月15日の一時金支給日が過ぎても決着できず交渉が継続されます。市長の公務出張の日程の変更や出先まで乗り込んで抗議するなどが続き、結局、当初の提案を大きく上回る結果で妥結することになりました。夜を徹しての団交、そして、集団交渉による成果で、さらに組合の結束は強化されました。

当時を知る人は市役所の前庭を赤旗を掲げて職員集会が開かれていたことを思い出されることでしょう。

昭和38年4月下旬には統一地方選挙で小金井市は市長、市議選が行われます。

4月9日午後、市長から職員組合M執行委員長に免職に伴う弁明書が渡されました。それに記載されていた弁明の機会がその場であることにM執行委員長が気付かなかったことから弁明の機会を逃すことになりました。

翌日、M執行委員長に届けられた書類には「辞令 小金井市事務吏員 M・Y 地方公務員法第二十九条第一項の規定により免職する。 昭和三十八年四月十日 小金井市長 鈴木誠一」というものでした。

また、処分説明書の処分理由では「昭和38年1月4日から同年3月30日までの間に、あなたの行った職務命令違反等の行為は、地方公務員法第三二条等に違反するものである」とあります。法三二条には「職員は、その職務を遂行するに当たって法令、条例、地方自治体の機関で定める規定に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」と定められており、職員は上司の命令に従う義務があるとされているのです。

(つづく)

走り続けた16年(246)

幻の三七(さんなな)協定を追認

昭和36年1月に再結成された小金井市職員組合は自治労による第一次賃金闘争で成果を上げ、さらに翌年の第二次においても年齢別最低賃金を保証する覚え書で合意しました。これが、昭和37年3月6日であったことから「37協定」と呼ばれました。それは、組合側にとっては大勝利となるものでした。これで、小金井市の職員の給料は学歴や職歴、職務・職階に関係なく年齢が同じであれば同一の給料になるというものでした。関綾二郎助役や労務担当は鈴木誠一市長を説得できるとの判断で組合と合意しましたが、市長はこれを了とせず覚え書に署名・捺印をしなかったとのことです。しかも、その覚え書自体が市役所に不存在です。そのため「幻の37協定」とも言われました。

この覚え書に沿った形の給与改定により、ほとんどの職員が大幅な昇給対象となり、特に現業職員は2倍以上になる職員も出る等、財政負担があまりにも大きくなることから、単年度での対応は不可能で当局が組合に3年後の昭和39年までの制度完成の延伸を申し出る始末でした。

この年齢給の導入で永年奉職していた職員と入所して数年でも年齢が同じであれば同一であるし、例えば、入所し10年20年地道に勤めてきた職員が、入所し数年でも年齢が上であれば大幅な昇給で追い越されることに不満はあったが、組合にものが言える状況はなく大きな声になることはありませんでした。

地方公務員法第24条1項では『職員の給与はその職務と責任に応ずるものでなければならない』と明記されています。すなわち、年齢給は法律に反するものなのです。

強力な職員組合の反撃を恐れてか、当局は法に反するような組合の行動にも穏便な対応をすることが、さらに組合運動を過激化させることになりました。

市長が合意することの無かった覚え書の下3月17日に起案された「職員の給与に関する条例の一部を改正する条例の制定について」が3月12日に開会していた3月定例会に54号の議案番号で議会に送付されました。

議会において、この「給与改正の条例」については特段の質疑もなく可決されました。その中で、保立旻議員が一般質問の中で、給与改定の交渉について質しています。

保立議員は、交渉が次第に尖鋭化し、勤務時間内に食い込む職場大会や抜き打ちの5割休暇闘争、理事者を夜の3時半近くまでの軟禁状態での団体交渉は地方公務員法上違法となり、人権問題にもなる不法行為には厳しく対応すべきだ、との質問に対し、関助役からは、市長は非常に気を悪くしていると思います、との発言があり、違法行為についての対応は、非常に腰抜けでだらしないとご指摘があるかもしれません。また、違法が認められましたが処分をすることは差し控えたのでございます、との答弁になりました。助役は組合とは対決姿勢でなく信頼関係を構築したいとの思いから譲歩してきたようですが、逆にそれが労使交渉をさらに激しくし、全職場挙げての超過勤務拒否や団体交渉の場に大勢の職員が加わる集団交渉に発展して市長を追及するという状況にもなりました。

ついに昭和38年4月10日、市長に職員組合K執行委員長に解雇の辞令を発しました。

(つづく)

走り続けた16年(245)

幻の三七(さんなな)協定

昭和36年1月、入所数年の20代前半の若者により再結成された職員組合、以前の給与改定は人事委員会勧告通りの市の提案を受け入れていたのが一変、独自要求するやら勤務時間に食い込む違法なストライキとなる職場大会を打つなどの対抗で結果を出しました。

実績を上げることで闘えば得られるとの思いになることから賃金闘争は一層激しくなりました。自治労による全国的な公務員共闘の賃金闘争に参加し大きな結果を得たことから、昭和37年の第二次賃金闘争はさらに強力で、学歴差別反対、職務給の粉砕を旗印に、時間外拒否、問題の職場大会、徹夜団交などが繰り返されました。

前夜から続いた3月5日午前8時半、混乱する労使交渉の中で一定の合意をみましたが、鈴木誠一市長はこれを認めることはなかったようです。

この賃金交渉の経過について、昭和37年3月定例会の市長報告で職員組合との交渉に当たった関綾二郎助役から報告されました。

その内容は「組合から30数項目の要求書が出され、2月6日から3月4日迄の9日間に10回と他市より多くの団体交渉を持ち、特に大きな問題は一律五千円のベースアップと年齢別最低賃金制の問題でした。他の職場から入所した職員は新規採用と同じ給与でスタートすることから、過去の経験が賃金に生かされていないのは不合理がある。この不合理を是正することに労使が了解点に達した。また、不均衡是正により高額の昇給の場合は具合が悪いので2年か3年に分けて実施する基本線が決まった」という主旨のものでした。

この助役の報告に対し社会党の寺本正雄議員が「組合の要望にもかかわらず団交が開かれなかった」と組合の主張に沿った形の質問に、助役は「たいへん職員には申し訳ないと思っております。できるだけそういうことのないようにして参りたいと思っております」と他市より多くの団交にもかかわらず、この様な質疑・答弁になりました。

与党はこの覚え書問題に関心が薄く、保立旻議員(5代目市長)が一般質問で厳しく追求した程度でした。

鈴木市長の強硬路線に対し、組合との融和を図った関助役の温情ある柔軟な対応は、組合には通じず守勢に回ったのは残念です。

この交渉に当たって職員組合は職場大会を開き、5割休暇とか3割休暇をしたり、超勤拒否の実力行使を行うなど市民生活に大きな影響を与えました。

この不当行為に対しても当局は職員の処分を行う考えはなく、覚え書の「3・7協定」10には「以上各項を決定するに至る交渉過程において発生した諸問題については、甲乙ともその責任を追求しないものとする」と免罪符を与えていました。

また、その欄外には「この覚え書交換の後日の証しとして、甲乙それぞれ記名捺印のうえ、各自1通を保有する。昭和37年3月6日 甲 小金井市長 鈴木誠一 乙 自治労小金井市職員組合執行委員長 M・Y とありますが、市長はこの覚え書の内容に納得せず記名押印しなかったようです。そのため、市に在るべき「覚え書」は存在せず、私の市長16年間の在任中にもこの文書を目にすることなく、幻の「3・7協定」に35年間、小金井市政が振り回されていたということです。

(つづく)

走り続けた16年(244)

三七(さんなな)協定って何?

昭和33年の市制施行を契機に市職員を公募で採用することになり、その公募で入所した20代前半の若い職員により、昭和36年1月御用組合が闘う職員組合に変身して再結成。同時に自治労に加入し全国的な公務員共闘の第一次賃金闘争に参加し、自らの独自要求を押し通す等の成果を上げたことから組合活動はいやがうえにも盛り上がりました。

組合との団体交渉には同年の昭和36年12月23日、助役に就いたばかりの関綾二郎氏(二代目市長)が当りました。初代の鈴木誠一氏と二人の市長には私も長い間、ご指導をいただきました。この大先輩を私が評するのも如何かとは思いますが、鈴木市長の「剛」に対し、関助役は「柔」という感じでした。

自治労の第二次賃金闘争に取り組むため、小金井職員組合が昭和37年1月の臨時大会で決定した方針は、その後長く小金井市財政に大きな影響を及ぼすことになりました。

組合の発想は「賃金は生活給であり、課長だろうが現場の平職員だろうがサンマ一匹、大根一本の値段に変わりはない」との主張で、誰でもが一定の年齢になったら差別なく最低の保障を受けるための「年齢別最低賃金制度の導入」を打ち出してきたのです。

若く経験の少ない執行委員は問題があれば職場懇談会(職懇)等を開いて協議することから要求は次第にエスカレートしました。

2月に入り組合は勤務時間に食い込む違法な職場大会も開きました。3月、市長が出席した団体交渉の中、組合側の要求である「年齢別最低保障」を容認する発言が出されました。その後、当局はこれによる財政負担が高額になることから到底受け入れられないとの認識に至りました。再度の団交で、当局側は文書による確認に至っていないことからこの問題から逃げたが、組合は食いついて放さない状況が続きました。日付が変わってから市長は助役に一任して帰宅しました。明け方まで続いた団交で当局が組合の要求を一部押し返した形の妥協案を示し、組合の意向を打診し組合もこの内容で妥結しました。

その後、登庁した市長はこの妥結内容に不満を示し、容認しなかったとのことです。

この覚え書の標題には「小金井市長と自治労小金井市職員組合執行委員長との協議事項にかかる結果について(覚え書の交換)」とあり、文頭は「東京都小金井市長鈴木誠一を甲とし、自治労小金井市職員組合執行委員長M・Yを乙として、甲乙協議の結果次の通り覚え書を交換する」とあります。

その内容は、10項目の合意事項が列記されており、その4に「年齢別最低保証賃金制度の実施は不均衡の是正の措置を含め、全職種を通じて別表2の初任給基準表を用いるものとし、同表により在職者調査を行う」とされており、5で「経験年数換算分の調整の実施は昭和39年度までに完了するものとする」とあります。そして、合意日は昭和37年3月6日と記されており、この覚え書により小金井市の給与体系は年齢給となり、平成9年の職務給導入まで約35年間、人件費問題が小金井市財政に重くのしかかることになったのです。

この覚え書はいわゆる「37協定」と呼ばれますが、不思議なことに、この文書には市長印がないのです。

(つづく)

走り続けた16年(243)

強力な市・職員組合

小金井市は非常に潜在能力の高い町です。都心からJR中央線で30分程度に位置し、水と緑に恵まれた自然環境にあり、市民の意識は高く、その担税力は全国でもトップクラスにありながら、街づくりは遅れ危機的財政状況が数十年も続き、文化施設やスポーツ施設など公共施設の不足は市民の悩みでもあり、不便な生活を強いられました。なぜ武蔵野市や三鷹市、府中市など近隣市と比較して、市民サービスとしての還元が少なかったのか。

それは、市制施行当時から尖鋭化した職員組合に対し当局が適切な対応ができていなかったことが長く尾を引いたことと、昭和46年から2期8年間の革新市政でさらに組合が強力になったことに起因します。それは、市民にとって取り返しのつかない大きな損失となりました。

昭和33年、小金井市が市制施行を契機に職員採用を地元中心から広く公募で行うことにしました。それまで必要に応じて地元の人を選考等で採用していたのが、ここで大学で学生運動などを経験した新卒の学生が入所してきました。

公募で採用された20歳代の若者を中心に給与等労働条件の改善を求める声が次第に大きくなり、昭和36年1月それまで互助会的な活動を主とし、話し合いにより交代で管理職が執行委員長等を務めてきたポツダム組合が、慣例を破って入所早々の24〜5歳の若手職員が立候補し、若手平職員による執行部が誕生しました。闘う組合が無投票で再建・結成されました。これを、組合は無血クーデターと表していました。

怖いもの知らずの若手執行委員は早速賃金闘争に取組み、その要求は強引で当局は慣れない守りに必要な理論武装が不十分なことから、労使交渉は組合のペースで進みました。

同時に懸案の、全国の地方公務員による組合組織である自治労(全日本自治団体労働組合)に加入し、全国的な公務員共闘の第一次賃金闘争に参加することにもなりました。

当時の職員の待遇は必ずしも恵まれていたという状況にはありませんでした。特に中途採用の現業職員の待遇は厳しいものでした。そこに、御用組合から脱皮した職員組合は初めての賃金交渉に取り組んだのです。

交渉に当たる執行部は臨時大会での決定を実現させるため、当局に要望を飲ませることに懸命でした。

昭和36年2月の組合の臨時大会では人事院の勧告に沿う市の給与改定案を拒否。独自の要望を提案し、組合の要望が生かされる結果になりました。また、懸案だった時間外手当支給の頭打ちの解消や、一時金(賞与)の支給を勤務評定によることを止めさせるなどに成功し、組合活動の意気はいやがうえにも盛り上がりました。

当時、助役を務めていた鈴木祐三郎氏の体調不良により、鈴木誠一市長は同級生の東京都職員だった関綾二郎氏(二代目市長)を昭和36年12月に助役に起用し、職員組合との交渉に当りました。鈴木助役は昭和37年3月末に辞職しました。

昭和37年1月、臨時大会は第二次賃金闘争に取り組む方針決定のために開かれました。

組合の発想は賃金は生活給であり、誰でも一定の年齢になったら差別なく最低の保障を受けるための「年齢別最低賃金制度の導入」を打ち出したのです。

(つづく)