走り続けた16年(253)

急速な都市化の課題

昭和33年10月1日、人口4万124人で市制施行した小金井市は高度経済成長の中で、関綾二郎市長の任期満了の昭和46年までの12年間に9万2千337人と2倍以上に増加し、一農村から都心へのベッドタウンとして都市化の波が一気に押し寄せ、行政は全力で走り町は大きく変貌しました。

昭和34年には武蔵小金井電車区が完成したことで武蔵小金井駅から始発電車が出ることも通勤者には魅力でした。市内には緑町団地、本町住宅、貫井南町住宅、公務員住宅の大型団地の建設等による人口急増で都市基盤の整備が急がれました。昭和38年公務員住宅の完成時は生徒増の対応に学校建設が間に合わず入居の延期を要請して凌いだ程でした。

生活に必需の水道も深井戸から汲み上げで供給不足となり武蔵野市に応援を求めたりして急場を凌ぎました。その後、東京都から利根川の水の分水が決まり、給水は安定しました。また、昭和41年9月の水道料金の大幅な値上げは大きく市政を揺るがせました。

悩みはし尿処理にもありました。畑の肥料として使っていたし尿が人口急増と急激に進む都市化で処理が困難となり、村山町(武蔵村山市)の山林に大きな穴を掘って野外投棄していたのが、年々増える処理量に村山町から搬入を中止するよう申し出があったが、投棄場所のない小金井市は新たな処理施設ができるまで、と言って続行していました。

東京都の斡旋により同じ悩みを持つ武蔵野市と村山町による2市1町で処理施設を村山町に建設することで同意。昭和38年6月30日武蔵野、小金井、村山地区衛生組合のし尿処理場が完成し、それまで転々と投棄場所に穴を掘り野外投棄し、近隣住民の迷惑となっていた難題が解決しました。その後、小平市、東大和市が加わり「湖南衛生組合」として事業を行ってきたが、各市とも公共下水道の完成により処理量が激減したことから規模を縮小し、7ヘクタールあった広大なし尿処理場が一転素晴らしい住宅街に変身しました。私は市長時代「湖南衛生組合」の役員として、武蔵村山市には長く迷惑を掛けお世話になったことへの恩返しを考えていたので目的が果たせました。現在、さらに立川、国分寺市も加入しています。

昭和44年7月、市は家庭から排出される雑排水の公共下水道事業にも着手しました。

昭和39年に開設された東小金井駅に伴う区画整理事業は鈴木、関両市長からも提案されたが、反対運動で消滅してしまいました。

人口急増により小・中学校、保育園、児童館、学童保育所などの建設も進みました。

市の街づくりの基本となる小金井市都市計画も昭和37年に決定したもので、現在もこれに基づいての街づくりが進められています。

都市化が進む中で行政は懸命にそれに対応すべく努めました。

また、若手職員により再結成された職員組合が難題を次々と力ずくで押し通したことから、全国にその名を馳せる程の強力な組合になったことも、この時期のことでした。

昭和46年4月25日に執行された任期満了の市長選挙は保革一騎打ちの戦いとなり、結果は現職の関綾二郎市長の1万8千174票に対し、永利友喜氏が2万502票で勝利し、小金井市に革新市政が誕生することになりました。

(つづく)

走り続けた16年(251)

水道料金で市政は大混乱

初代市長の鈴木誠一氏の任期中、職員組合M委員長の懲戒免職や累積する赤字解消のための水道料金の大幅な引上げ等を、助役の立場で支えた関綾二郎氏に市政が引き継がれ、懲戒免職職員の復職や強引に引上げた水道料金の引き下げで市政に激震が走りました。

昭和40年9月定例会で前年度の水道事業決算審査で監査委員から「水道事業の赤字解消のため、あらゆる方法を検討し、財政の健全化に努めるように」と指摘されました。水道事業は独立採算制で人口急増により消費量も増え、それを賄うための拡張工事で赤字が累積されていました。決算審査は多数与党により認定されました。

それを受けて、水道料金の引上げ案が12月定例会に提案されました。当局は「内部努力で赤字解消を試みてきたが赤字は増え続け、値上げの提案をせざるを得ない状況」との説明でした。提案の平均の引上げ率が61・1%と大幅であることと、その提案内容を野党議員が新聞報道で知ったことから「議会軽視」と指摘され、理事者側は陳謝したが収まらず議会に上程される前から波乱のスタートとなりました。

この値上げ案は給水管の口径(太さ)により基本料金が設定され団地の給水管は一般家庭より太く値上げ幅が大きくなることから、市内の各団地自治会が連絡協議会を結成し反対運動の核となり、水道料金の引上げは全市民に影響を与えることから反対運動は全市に広がりました。

年が変わった昭和41年に入り、水道料金改正案は議会で廃案となり、当局の再提案が繰り返され臨時会も2回も開かれたが選挙も近いことから野党の抵抗も激しく足踏み状態が続きました。

8月27日に招集された臨時会は会期が延長された9月1日、想像だにしない前代未聞の大変な事態となりました。前日が深夜議会だったことから開会は遅れると思われたが、午前10時前に与党の15議員が議席に着き、野党は共産党の一人だけ。10時1分、信山重由議長の開会宣言と同時に与党の岡ムメ議員が挙手し、値上げ案の必要性を説明し、質疑、討論、委員会付託を省略し、直ちに採決する動議を提案し、動議は賛成多数で可決。直ちに値上げ案の採決となり可決成立しました。1年もの間議論が続いていた案件がわずか数分間での決着でした。「強行採決」ではあるが議決されたことで当局は9月からの値上げを実施しました。

しかし、この波紋は大きく、9月議会で信山議長の不信任案が提出され可否同数で竹川明副議長の裁決で可決されました。その後、竹川副議長、信山議長が辞職願を提出し双方とも許可されました。

反対運動が盛りあがる案件を前代未聞の強行採決で、反対運動はさらに盛り上り、水道料金の不払い運動に発展しました。そのため、当局は遅延する水道料金に延滞金を課すことを決めました。全面対決です。

昭和42年4月の市長と議員選挙で、鈴木市長に代わって関市長の登場となり、市議会は革新の進出で保革伯仲となりました。

関市長は選挙中も水道料金の見直しを示唆し前年9月に大混乱の中で引上げられた水道料金は10か月後の6月定例会に提案され、7月11日の本会議で原案通り引き下げが議決されました。

(つづく)

走り続けた16年(249)

職員組合M委員長を免職に③

昭和36年に若手職員により再結成された職員組合は給与改定闘争で画期的な成果を収め、次は年齢別最低賃金を保証する「三七協定」の締結で一層勢いづきました。これは、「部長であろうと平職員であろうと大根一本の値段に変わりない」という理屈で、給与は学歴や職歴、職務・職階に関係なく年齢によって定めるというもので、組合の要求が次々に実現していました。

昭和38年春の賃金闘争も激しく、超過勤務や宿日直の拒否などの実力行使を武器に、連日の団体交渉に加え休暇闘争にも発展し、当局は追い詰められる状況でした。

市長選と市議選を間近に昭和38年4月10日、職員組合の執行委員長である「小金井市事務吏員Mを地方公務員法第二十九条第一項の規定により免職する」という辞令が本人に交付されました。

地公法第二十九条第一項は、法律、条例等に違反したり、職務上の義務に反したり職務を怠った場合や全体の奉仕者に相応しくない非行があった場合は懲戒処分として戒告、減給、停職又は免職の処分することができる、との規定です。

懲戒免職したにもかかわらず当局は組合が怖いのか、市長選で革新系候補が勝利した場合を考えてか、M氏の机を処分できず、M氏はその職場の机を使って数か月、読書にふけっていたようです。

この市長選は革新系の岩内義明候補が勝利すれば「首が戻る」から頑張ろうという組合側の選挙だったようですが、鈴木誠一市長が現職の強みを発揮し再選されました。

また、同時に行われた市議選後の初議会は5月18日の臨時市議会でした。初当選の社会党の岡田清則議員から「市職員組合委員長の免職について」の緊急質問が行われました。岡田議員は、当局と組合が賃上げ交渉中の処分であり、いかなる根拠に基づいて組合委員長を免職にしたか、処分するだけの客観的な事実を示すよう答弁を求めました。

しかし、市長は、組合活動や賃上げ交渉とは別問題であり、市民に対するサービス、職場における綱紀の問題、あくまで業務命令違反の一点ばりで、懲戒免職の具体的な事由は示さなかった。さらに処分撤回を求める発言には、しかるべき機関(東京都人事委員会)に提訴し、判断はそこの審査結果による、と論争を回避する答弁に終始しました。

続いて、同じく初当選の共産党朝倉篤郎議員から「市長の行政処置について(市職員組合委員長の免職について)」の表題で緊急質問が行われました。

朝倉議員はM職員の懲戒免職による業務への影響を質しました。

M職員は固定資産税課償却資産担当で免職により事務の引き継ぎが行われず業務に支障が出たのではないか、に対して、固定資産評価委員であり総務部長は係長が事務を引き継いで支障のないように対応したとの答弁に、担当課長は「償却資産の仕事はM君一人でやっていたので若干令書の発送に支障を来したことは事実です」との答弁になりました。市長からは「今後、異論のないように十分措置したいと考えております」との答弁で緊急質問は終了しました。

請求期限切れの直前の6月に入り、M氏の不利益処分取り消しの審査請求が東京都人事委員会に提出され、審査が開始されました。

(つづく)

走り続けた16年(248)

職員組合M委員長を免職に②

昭和33年10月、小金井町が市への移行を機に公募による職員採用を実施しました。そこで採用された職員が中心になり労働組合が再結成されました。時代を反映し運動が一挙に過激化しました。当局はこれに対応しきれず、賃金闘争では成果を挙げられ、「年齢別最低賃金」を保証するいわゆる「三七協定」が昭和37年3月に合意されるなど、組合側は主張が通る度ごとに、さらに強力になりました。これは、職歴や学歴、職務・職階に関係なく年齢により給与が決まる「年齢給」であり、財政はもちろん職員のモチベーションにも大きな影響を与えることになり、その後、35年間の小金井市政に与えた影響は甚大であり、決して忘れてはならないことです。

時が流れ、市職員も「三七協定」を知る人も少なくなり、労働基準法第三六条の「時間外と休日の労働」により、当局と労働組合が毎年締結する「三六協定」は分かるが「三七協定」って何?、となってしまってます。

また、昭和54年4月に市制施行20周年を記念して刊行された「小金井市議会史」にも、この「三七協定」に関しての記述はありません。さらに当時の市報にも記載はなく、このまま風化されることが懸念されます。

この「三七協定」の合意をはじめ労働運動を先導してきた職員組合のM執行委員長が昭和38年4月10日に免職されました。この免職に対する手続きには疑問を持つものでした。それが、不当首切り反対の運動を盛り上げる要因になりました。

M委員長は市制施行後に小金井市役所に入所し、昭和36年10月5日号の小金井市報に「市役所機構改革 大幅な人事異動行なわる」との見出しの中に「税務課固定資産税係主任M・Y」とあります。入所2年数か月の委員長の抜擢が記述されているのです。これは、入所して間もないM委員長等により再結成され勢い付く組合を押さえるための当局の策だったのか、その効果はなく職場の中に組合の存在感を示すだけのものでした。その次に市報にM委員長の名前が出るのは昭和38年6月5日号で「4月10日付免職 主事M・Y」との記載でした。

この4月は、統一地方選挙で都知事、都議選に続き、4月30日は市長選と市議選が同時に行われ、市長選は鈴木誠一市長が1万3千785票で革新統一候補の岩内義明候補に4千203票の差で勝利し2期目に入りました。

また、同時に行われた市議選では社会党が2から4に、共産党が1から2と増になり革新系は計6人、それに新たに公明党が2人の当選を果たしました。鈴木市政の中核となる保守系無所属は18人が当選し与党体制は堅持されました。

選挙後の新議員による最初の議会は5月18日に開かれた昭和38年第1回臨時会でした。本来、正副議長の選任等議会人事が主の臨時会ですが、革新系議員が増えたことから議会運営についての活発な発言が出され、それが23日まで続き、当然のこととして議会閉会中に起こった市職員組合M委員長懲戒免職について、初当選の社会党の岡田清則議員から「市職員組合委員長の免職について」と、同じく共産党の朝倉篤郎議員から「市長の行政処置について(市職員組合委員長の免職について)」の表題で緊急質問が行われました。

(つづく)

走り続けた16年(247)

職員組合M委員長を免職に

昭和36年1月に再結成された職員組合は同年の自治労・第一次賃金闘争で成果を上げ、翌年の第二次賃金闘争では「年齢別最低賃金」を約束させる「三七協定」を昭和37年3月に合意させたことで、4月にはほとんどの職員が大幅な賃上げを果すことになりました。

この「年齢給」は平成9年度に「職務給」に改善されるまで約35年間にわたり小金井市民が人件費問題で苦しむ原因になりました。職員組合は次の目標を夏の一時金(ボーナス)闘争に定めました。大幅な昇給を決めた後だけに当局は条例通りの提案をしたが、勢い付く組合は前年の支給率を既得権に大幅増の要求になりました。

6月に入り組合は超過勤務拒否や宿日直拒否の実力行使に入りました。当局は市民に迷惑をかけない円滑な行政執行を何より望むものです。そのため、実力行使による行政の停滞は市長にとっては最大の悩みになります。職員側にしても、超勤を拒否することは仕事が溜まることで辛いのですが、組合の方針に逆らうことにはなりませんでした。

その様な状況の中、7月1日に執行される参議院議員選挙を目前に選挙管理委員会事務局は連日の残業で事務作業をしてましたが、選管の職員も組合の方針に背くことにはならず事務作業は遅れ、選挙執行が危険視されるようになりました。選管の委員は辞職も念頭に超勤拒否の解除のため妥結することを強く市長と組合に求めました、小金井市において参院選挙が適切に執行されなければ全国的な大問題になります。結局は市長が条例通りの提案を見直すことを約束することにより、組合は超勤拒否の闘争から選管事務局を外すことにはなりました。

6月15日の一時金支給日が過ぎても決着できず交渉が継続されます。市長の公務出張の日程の変更や出先まで乗り込んで抗議するなどが続き、結局、当初の提案を大きく上回る結果で妥結することになりました。夜を徹しての団交、そして、集団交渉による成果で、さらに組合の結束は強化されました。

当時を知る人は市役所の前庭を赤旗を掲げて職員集会が開かれていたことを思い出されることでしょう。

昭和38年4月下旬には統一地方選挙で小金井市は市長、市議選が行われます。

4月9日午後、市長から職員組合M執行委員長に免職に伴う弁明書が渡されました。それに記載されていた弁明の機会がその場であることにM執行委員長が気付かなかったことから弁明の機会を逃すことになりました。

翌日、M執行委員長に届けられた書類には「辞令 小金井市事務吏員 M・Y 地方公務員法第二十九条第一項の規定により免職する。 昭和三十八年四月十日 小金井市長 鈴木誠一」というものでした。

また、処分説明書の処分理由では「昭和38年1月4日から同年3月30日までの間に、あなたの行った職務命令違反等の行為は、地方公務員法第三二条等に違反するものである」とあります。法三二条には「職員は、その職務を遂行するに当たって法令、条例、地方自治体の機関で定める規定に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」と定められており、職員は上司の命令に従う義務があるとされているのです。

(つづく)