走り続けた16年(259)

市長辞職、行対審査 答申なし

昭和51年以来人件費比率全国ワースト1位を続け、非常に厳しい財政状況にある小金井市政。その改善を求める市民の声を受けて昭和54年5月星野平寿市長が誕生しました。

政策の目玉は市民による「行財政対策審議会(行対審)」の設置でした。当時、市民により行政全体にわたってチェックすることは全国でも例がないとして注目を集めました。

市職組は人件費問題に切り込む答申の阻止と、革新諸団体はこれが全国への波及を阻止するための反対運動は過激でした。

星野市長は行対審の答申を尊重し各種事業を見直し改善を図っていくとし、設置反対の側は、議会や労使交渉の中で市長が言いにくいことを審議会に言わせる、つまり市長の隠れミノだという批判を繰り返していました。

6月議会に提案した行対審設置条例は議論百出の末、9月議会で可決されました。

12月22日、第1回の行対審が大混乱の中で開かれました。その後も混乱の続く中で審議会が続けられました。問題は審議会の傍聴のあり方でした。

懲戒免職から復職した組合委員長を先頭に傍聴席に入りきれない程の職員等が押しかけ委員を威嚇し、野次等で議事を妨害することの繰り返しでした。

また、市職組は反対運動として、行対審委員宅に抗議のハガキを送付しました。私も委員の自宅に送られた手紙の束を見せてもらいましたが、家族には委員を継続していくことに不安を感じさせる内容のものでした。

55年5月28日に開かれた4回目の審議会は公会堂の会議室が狭いことから傍聴が認められなかったことで会場は大混乱、ドアをドンドン叩くやらシュプレヒコールを上げるなど話が聞き取れず結局流会になりました。この様な状況においても当局は組合の報復を恐れただ見ているだけで注意することすらできない状況でした。

11月13日の審議会では、見城一委員から答申のたたき台とも言える「事務事業に関する私見」が提示されました。それらを受けて11月20日からの審議会で「答申づくり入る」ことを決定しました。この「見城私案」は市の目指すべき行政改革を具体的に提示した議論に値するものでした。しかし、結局行対審が答申を出すことはできませんでした。

審議会委員は、会議を混乱させる職員等を指導できないことや、会場の休館日に日程を入れる不備等、また見城私案が公になる前に反対派に渡ってしまうこと等から当局に対し強い不満と不信感を抱いていたようです。

12月8日に開会した定例会、12日の佐野浩議員の一般質問で、10月8、9日に北海道釧路市で開かれた全国市長会が主催する全国都市問題会議に公務出張の星野市長が会議に参加せず、市の広報課も4日間の行動が確認できず、女性の同伴あったことが明らかになったことで議論は紛糾。

16日、星野市長は鹿野勇議長に一身上の都合を理由に辞表を提出しました。そのため議会は会期を繰り上げて12月17日、本会議で星野市長辞任の挨拶をもって閉会しました。

しかし、その数日後の19日星野市長から異例の「辞職願いの撤回」が出され、法的問題が無いことからそれが受理され元に戻りました。これにより小金井誕生以来の大混乱の始まりになりました。

(つづく)

走り続けた16年(258)

大混乱での『行対審』の設置

2期8年間続いた革新市政に代わり、昭和54年5月1日、日の丸の掲揚と君が代の斉唱で初登庁した星野平寿市長、課題は全国ワーストを続ける人件費問題を解決し、財政健全化を図ることでした。

星野市長最初の定例会となる6月議会での施政方針で「今任期中の最重要課題として小金井市政の再建、財政の健全化に取組む所存であり、職員定数の削減を果たし効率的な行政執行に努めたい。そのため、市民による『行財政対策審議会(行対審)』を設置し、その答申を得て順次改善に着手したい」と述べ、財政難から経費を伴わず実施可能な市民課の昼休み窓口業務の開設、職員の出勤時間の厳守や名札の着用を行い、庁舎管理規則を制定すること等を具体的に示しました。

この施政方針の目玉は『行対審』の設置であり、星野市政の根幹となる施策です。

行対審は市長の諮問機関で、委員は16名、学識経験者が4名で一般市民を12名とし、2年の任期で、審議会への諮問内容は、1、事務事業の見直し 2、組織機構の改善 3、職員の勤務条件の見直し 4、補助金等の見直し 5、財源確保のための市民負担の適正化等で、今後、行財政の改善を進めるにあたり、点検や洗い直しを必要とする事項を諮問するとしています。これまで長い間の悪しき慣習を改めることには大きな抵抗があるのは想定されることです。これを、学識経験者や市民の意見を参考に改善するというのです。

この設置条例の提案に対し本会議では答弁調整による休憩が繰り返されたこともあり3日間に渡る質疑後、総務委員会に付託され2日間の質疑でも結論が出ず、関連の条例改正や補正予算とともに継続審査になりました。

職員組合はこの行対審の設置に猛反対で、市議会各会派に申し入れるなど様々な反対運動を展開しました。

継続審査になっていた行対審設置条例は9月の定例会で、3、に提示していた「職員の勤務条件の見直し」を削除する修正で条例案等は可決されました。さらに、16人の委員も決定したことから計画を3か月遅れて12月22日午後2時から、市役所第一会議室で第1回の行対審が開かれることになりました。これに反対し会議を阻止しようとする市職員組合や革新系団体のグループ約500人が市役所前庭で抗議集会を開くなど抵抗があらわになったことなどから、内々で会場を武蔵小金井駅西側にあった商工会館に移すこととした。2時近くになり変更を知った反対派約100人が商工会館に行くと大半の委員は入っていたが、遅れてきた委員は入室を拒まれる小競り合いとなり足を蹴られて怪我をしたという委員が出るなど大混乱のスタートとなりました。

市長から全委員に委嘱状が手渡されて会議が開始され、互選で会長に元市議会議長の信山重由氏を、会長職務代理者に元小金井ロータリークラブ会長の保坂正文氏を決定。初顔合わせの場でしたが、反対グループとも顔合わせになりました。

2回目の行対審は55年1月22日公会堂の会議室で行われ5項目の改革を諮問しました。

その後も混乱の続く中で審議会は続けられ、9回目の11月20日では今後、答申作りに入ることを確認したが、12月議会で、市長が突然辞職するという大問題が発生しました。

(つづく)

走り続けた16年(257)

革新の終焉と保守の復活

永利友喜市長が2期目の当選を果たした翌昭和51年度一般会計決算で小金井市の人件費比率が全国ワースト1位である事が52年11月24日の日本経済新聞が報じました。これは、全国662市の財政状況の調査結果で小金井市の人件費比率が45・2%と全国最悪であることが一面の見出しと見開きの2面を使っての報道に驚かされました。(因みに、私が16年間の市長の任期を終えた時の人件費比率は15・33%でした)その後も永利市政による人件費比率全国ワーストが改善されないことから、組合主導の革新市政、次第に市民の不満の声が高まってきました。

昭和54年4月の市長選挙は三期目を目指す現職の永利市長に対するのは前回惜敗した自民党の星野平寿氏で、行財政改革を公約の中心に据え、自民、公明、民社、新自クが推薦・支持する選挙体制となりました。

星野氏は生まれも育ちも小金井の生粋の小金井人で、大学卒業後小金井町役場に入所して25年、建設部長などを歴任していました。前回の選挙が552票差の惜敗だけに今回に備えての満を持しての戦いとなりました。

この市長選の直前に行われた知事選では鈴木俊一氏が当選し、12年振りの保守都政の復活となりましたが、小金井市においては社・共の推す太田薫氏が鈴木氏を700票上回るという結果でした。

星野候補の選挙公約は人件費問題を解決するため職員200人の削減を謳っていました。

結果は、星野氏が永利市長を約4千票上回る得票で当選し、2期8年続いた革新市政にピリオドが打たれ保守市政が復活しました。

昭和54年5月1日の初登庁は思いもよらない驚くような形の展開となりました。市役所前庭の慰霊碑の傍に設置した仮設ポールに「日の丸」を掲げ、星野市長の初登庁を激励する大勢の市民とともに「君が代」の斉唱が行われたのです。

また、職員への第一声の「労使間で今日まで慣習化された諸件については白紙に戻します」との発言等は、新市長の初登庁を取材するマスコミには「タカ派市長の出現」と格好の話題提供でした。

先ず手始めに、市の始業は8時30分だが、交通事情を考慮して8時45分までは遅刻扱いにしないという慣行があり、革新市政下では8時45分までに出勤すれば問題ないというルーズな慣習でした。これを、8時30分の時間厳守で1分でも遅刻は遅刻と徹底しました。組合側は、1分間が19円に当たるというなら昼食時や閉庁後の電話応対も超過勤務に加えるのかなど理屈を並べたが、これは当然新市長に軍配が上がりました。この通告後は恒常化していた遅刻はなくなりました。

さらに、タカ派市長は、昼休み窓口の開設や名札の着用、財政再建のための審査会の設置など次々に打ち出す施策に、職員組合とは全面対決の様相でしたが新聞やテレビ、週刊誌などが飛び付き、マスコミに多く取り上げられて注目を集めることになりました。

星野市長は助役に大久保慎七氏を指名し6月19日の市議会で同意を得て就任しました。大久保氏は長い間、組合主導の市政が続く中でも時流に流されず、一貫して与えられた立場での主張で組合とは常に緊張関係に有り、組合の機関紙ではいつも厳しい批判の対象となっていました。

(つづく)

走り続けた16年(256)

人件費率全国ワーストに

昭和33年の市制施行以来、小金井市の職員組合は「西の京都、東の小金井」と評される程に強力な組合となりました。法律で定められている職務・職階による「職務給」ではなく、年齢によって給与を定める「年齢給」とする「37協定」を実現させたり、職務命令違反で懲戒免職処分になった職員組合の執行委員長を復職させるなど、強力な組合体制が形成されていました。

46年4月の統一地方選挙は革新ブームもあり、永利友喜氏の当選により小金井市にとって初めてとなる革新市政が誕生しました。この革新市政実現には職員組合の積極的な支援もありました。

その組合の支援を受けて当選した永利市長にとっては厳しい市政運営が強いられることになりました。自分たちの支援で当選させたとする組合は、当然市長を支えていくものと思われたが、前号でお知らせした通り、社会常識を逸脱した暴力的手法を使ってでも理不尽と思われる要求を次々に提案「誰のお陰で当選できたと思っているのだ」との考えでその要求を次々に実現させていったのです。

それは、市の業務は市の職員でという直営主義で、次々と職員の正職化を進めました。それによる人件費の増は「人件費は事業費」との考えによるものでした。地方自治体の第2条第13項『地方公共団体は、その事業を処理するに当たっては、住民の福祉の増進に努めるとともに、最小の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない』と規定されています。これは、行政経営の基本中の基本であり、これすら守られていなかった8年ということになります。

これに危機感を持った中町、東町、本町の一部の青壮年で組織された中山谷青壮年会の若者が立上がり、48年に「小金井市は市民の納税額に対して教育費など市民への還元が少ない」と近隣市と比較した数字を機関紙で証明しました。その原因が職員増のための人件費にあることも明らかにしています。

また、革新市政を憂え警備員の正職化運動を問題視した全市的若者による「菊栄会」も組織され、積極的に活動されました。私も後年参加しました。

さらに、小金井青年会議所も具体的な財政健全化策を機関紙で提案していました。

昭和52年11月24日の日本経済新聞(日経)で51年度の全国662市の財政状況がランク付けで詳細に発表されました。一面に大きな見出しで、人件費比率ワースト1位が小金井市であることが報じられたのです。さらに、見開きの2ページを使って詳しく解説されたのです。議会もこれを看過することにはならず議論になりました。しかし、人件費問題は一朝一夕に変えられるものではなく、翌53年10月15日の日経で2年連続して人件費ワーストが報じられました。

その後も人件費問題には歯止めがかからず昭和50年代の10年間でワーストが8回、2位3位が各1回と最悪の状況が続きました。

昭和48年に発生した第4次中東戦争による石油ショックが狂乱物価を招き、石油製品やトイレットペーパーの品不足等で市民生活が大変な時代でした。

昭和54年4月の市長選挙は、前回552票の僅差で惜敗した星野平寿氏が4千票差で勝利し、2期8年に及んだ革新市政にピリオドが打たれました。

(つづく)

走り続けた16年(254)

革新市政の過ち

昭和46年4月25日、全国統一地方選挙が各地で行われました。小金井市の市長選挙は保守系無所属の現職、関綾二郎市長に社共統一候補の永利友喜前市議の保革一騎打ちとなりました。その前段に行われていた都知事選挙は美濃部都知事が、小金井市においても相手候補の倍以上を得票する大勝で再選を果たしていました。その余勢を駆って革新候補の永利候補が勝利し、小金井市三代目市長に就任しました。また、同時に行われた市議会議員選挙でも保守系の当選が12名と、はじめて過半数割れとなり、社会党6名、共産党5名、公明党2名、社民党1名と革新系候補が躍進し、与野党は別として市長も議会も保革逆転の形になりました。

この結果、市政は激しく揺れ動き、大きな変化を来すことになりました。この統一地方選挙は革新のブームとなり、中央線沿線市においても、革新市長が多く誕生しました。

この選挙には、実力行使で数々の要求を強引に押し通してきた市職員組合も重大な関心を示していただけに、その結果に満足したのは言うまでもありません。また、選挙結果に示されたように、都市化による人口急増で市民意識にも大きな変化が生じてきました。

私は、この革新市政の8年間は取り返しのつかない失政を侵したと思っています。しかし、政策判断は市長の決定ですが、その決定には議会の同意が必要であり議会の責任も重いと言わざるを得ません。市長も議員も民主的手続きによる選挙で選ばれたものであり、最後のツケが市民に回ってくるということもやむを得ないことになるのでしょう。

革新行政は直営主義で、市の業務は市の正規職員で行うことを基本としています。そのため、ごみやし尿を収集する多摩清掃公社、学校等警備員、学童交通指導員(緑のおばさん)、庁内清掃、電話交換、ボイラーマンと次々に直営化し、関市長の最後の昭和45年は人口9万2千337人で、職員は662人だったのが永利市長最後の53年は人口9万9千22人と約7%増に対し、職員は1千130人と約1・7倍に膨れ上がりました。これにより、一般会計に占める人件費比率は昭和50年代の10年間で全国600を越える市の中でワーストを8回、2位3位を各1回記録することになるのです。

この間の損失は計り知れない金額になります。そのため、近隣市と比較するまでもなく都市基盤整備の遅れや文化施設、スポーツ施設、教育施設など公共施設の不足はここに起因します。

人件費問題の解決は一朝一夕に片付くものではありません。そのため、一時の過ちが取り返しの付かない大きな損失となります。

一例を挙げれば警備員問題です。

学校警備は古くは若手の教員が宿日直でしていたものを、日教組の運動で自治体の業務となり、臨時の職員や警備会社に委託して行っていました。

小金井市では48年10月、1施設3名の準職員の体制としましたが52年4月1日、市議会で職員の定数条例の可決を経て警備員96名が正職化されました。

学校警備のシフトは1日働いて2日休みとなり、勤務時間は夕方に出勤し、深夜から早朝までは仮眠時間、翌朝、教頭等に引き継いで勤務終了です、これに、一人分の給与が支給されていたのです。

(つづく)