走り続けた16年(219)

赤字再建団体への危機

平成11年4月25日の市長選挙で当選が確定し、1時間後には任期に入るという慌ただしさでの中で1日目がスタートしました。

都の行政部から、明後日の午後、2時間ほど時間を取って欲しいという予定が入りました。行政部は市区町村の行政運営に関する助言や連絡調整等が所管であり、多摩各市に対しても財政等大きな権限を有しています。

予定通り28日午後1時30分、行政部長の松澤敏夫氏、地方課(現・市町村課)の松本義憲課長等6名の都の職員が来庁しました。

まず、型通りの挨拶の後、出た言葉は「小金井市の財政は極めて厳しい、このままでは自治体としての存続すら危ぶまれる」ということで、赤字再建団体に陥る可能性があるということでした。

小金井市の財政は、平成元年度からの10年間、課題の人件費比率は平成4年度の蛇の目工場跡地を購入し予算規模が膨らんだ年を除いて、常に30%台で多摩平均を10㌽以上も上回っていました。また、平成6、7年度は財政の弾力性を示す経常収支比率は全国ワースト1位、さらに、平成7年度からは人件費が100億円を超え、9年度は退職職員の退職金が払えず、借金をして支払うという厳しい状況が続いていました。(ちなみに、私の市長最後の平成27年度の人件費は約60億円で就任時比40億円減、人件費比率は32・3%から15・33%と半減しました)

そして、平成10年度、大久保慎七市長は退任の1か月前の3月30日、平成10年度一般会計補正予算(第7回)を議会の議決を得ず、市長による専決処分しました。これは、都の指導によるもので、税の減収に対し歳出の増加により一般会計が赤字になることを回避するため都の支援を受けるとともに、特別会計への繰出しを止めるなどして特別会計を赤字にして一般会計の赤字は回避されました。これを指導したのが、行政部であり地方課だったのです。赤字再建団体に陥る程の赤字幅ではないのですが、危機的財政状況を新任の市長に認識させることが目的で設定された会議のようでした。

市議会でも赤字再建団体の議論はありましたが、再建団体に陥れば、国の管理化で指導・監督を受けて財政再建を進めていくことになります。それは、実質的に地方自治でなくなり、再建計画に基づく厳密な予算が組まれ、保育料や国民健康保険税など公共料金の値上げ、独自の福祉施策の廃止・縮小、建設事業の中止・延伸、職員や人件費の削減など、市民にはサービスは低下し、負担は増加することになります。

私は市の財政状況は十分に理解しており、自主再建のため全力を尽くすことで都は特段の協力依頼で、応えてくれました。

【今、市政で何が】

市議会第1回定例会は、今期を4日延長し3月28日の最終日、西岡市長は「令和3年11月以降、庁舎等複合施設建設事業等の具体的な方針が提示できなかったこと、また、今定例会の議会日程に影響を及ぼしたことに、市長としての責任を明確にするため」とし、自ら4月分の給与を10%減額する条例を提案し賛成15で可決されましたが、7人の議員が反対してます。責任を取るというなら中途半端な提案でなく、全会一致になるよう思い切った提案が必要だったのではないでしょうか。

(つづく)

走り続けた16年(218)

市長任期のスタートに当って

統一地方選挙で当選した市長の任期は一般的には5月1日からですが、小金井市においては第4、第5代市長が任期途中で辞職したことから、大久保慎七市長の任期は平成11年4月25日までであり、市長選挙の当選が確定して1時間も経たない内に、私は市長の任期に入りました。

同時に5選を果たした土屋正忠武蔵野市長の選挙事務所から明け方近くに自宅に帰り、新聞に目を通し、テレビを見て、慌てて職員向け就任の挨拶文に手をつけました。

午前10時からの選挙管理委員会の当選証書授与式に出席するため、ひとり歩いて第二庁舎へ。当選証書を手に大勢の市民や職員が迎える本庁舎へ。支援してくれた市民や議員、それに職員の出迎えを受け、玄関前で決意表明や花束が贈られるなど型通りのセレモニーの後、皆さんに見送られ市長室へ。

早速、理事者と部長職による第一回の庁議を開く。続けて、第一会議室で管理職を集めて就任の挨拶は市役所全体に流されました。

それは「職員との対話を重視し信頼関係をもって、この危機的状況の財政再建、遅れている中央線の高架化や駅周辺の整備、そして、介護保険の円滑な導入を皆で力を合わせて乗り越えていきたい。職員の皆さんは民間企業の厳しさを認識し、目標を持って仕事に取り組んでいただきたい。仕事はミスを恐れず、今までの倍以上の意欲をもって積極的に行動してほしい。そこで起こった責任は市長である私が取ります、お互いに力を合わせて頑張りましょう」これが私の職員に向けた最初の挨拶でした。

早速、担当職員との日程調整です。「明後日の28日の午後、東京都の行政部長が是非お会いしたいので2時間程時間を取ってほしいとのことですが」とのこと。就任して3日目に都の市区町村を所管するトップの職員が何の目的で来るのか。

そして、28日午後2時、行政部長松澤敏夫氏、地方課長松本義憲氏等6〜7名の都職員が来庁し、話し合いが始まりました。

【今、市政で何が】

令和4年3月定例会の16日に開かれた特別委員会で西岡真一郎市長から、庁舎等複合施設について重大な発言がありました。

まず、「第1回定例会の議会日程の変更までも余儀なくする結果となり、議会運営への混乱をもたらしたことを深くお詫び申し上げます。そして何よりも市政運営への不安を与えてしまった原因は全て私自身にあります。誠に申し訳ございませんでした」とし、「庁舎等建設は、市議会の皆様と市民の皆様と行政が一体となって一緒に作り上げていくものです」とのことです。しかし、この文言は6年前の平成28年10月、「庁舎建設をゼロベースで検討を」の時に使われたものです。さらに「市議会や市民の多様な意見を踏まえて、設計や建設の時期を大胆に見直すために、市議会の皆さんと協議の場を設けます」とし、「市議会と合意した場合も市長ひとりの成果としないことを明言する」とのことです。市民のために成果を挙げるのは当然であって、自分の手柄にはしないとの趣旨のこの発言に違和感を覚えます。

また、市長の庁舎建設の方針変更は非常に重要であり、市民に隠さず「市報」で公にするのが市長の責務ではないでしょうか。

(つづく)

走り続けた16年(217)

ロシアのウクライナ侵攻

他国を侵略し、その街を破壊し無垢の市民に銃口を向け、遠距離からもミサイルで殺りくを繰り返す、信じられないような残虐な情景が連日報道されています。ロシアによるウクライナ侵攻です。

2月16日に侵攻との情報に緊張が走りましたが、それが回避され安心したところ24日の侵攻となりました。

ロシア軍による残虐行為がリアルタイムで報道されます。21世紀は平和の世紀との願いも叶わず、ロシアの大統領プーチンによる蛮行は、20世紀のナチスドイツ・ヒトラーの悪夢を彷彿させる非人道的な行動です。今世紀最大の愚行であり、今後、永久に世界の歴史に残る残虐行為です。

ロシアは世界平和を支える国連・安保理の常任理事国であり、本来、世界のリーダーであるべき立場なのに独裁者プーチンの大暴走、「これ以外の選択肢はない」との理屈を付けてのウクライナ侵攻。さらに、核兵器をもって威嚇する行動も論外であり、手が付けられない状況です。

ロシアの攻撃は軍事施設に限らず、集合住宅、学校、病院、原発など無差別に攻撃を加え、美しい街並は瓦礫と化し、市民にも銃口が向けられ、多くの子どもや女性への殺りくが続いています。

ウクライナは国力、軍事力でロシアの比較になりません。そのためには、世界が力を結集しウクライナへの物心両面の支援が必要です。世界中がプーチンの行動に批判的でありながら、その暴挙にストップがかけられず、武器弾薬等を提供してウクライナ人にロシアと戦わせるのも心苦しいものです。しかし、何としてもロシアの侵略を失敗に終わらせなければなりません。

この戦争をロシアの思い通りに終結されれば、今後の世界の秩序は保てません。武力による侵略は世界が許さないことを実証する必要があります。

ウクライナからの映像を見て、母と避難する2〜3歳の幼児が抱いている警察官の父のヘルメットを泣きながら叩いて、父との別れを泣いて嫌がる映像を繰り返し見て、私自身の精神状態が不安定になり、寝ていても何度も目が醒める状況に、友人からはフラッシュバックではないだろうかと言われています。

第二次世界大戦終戦の1週間前の昭和20年8月9日、ソ連は相互不可侵の日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦を布告しました。

当時、ソ連との国境に約30kmの満州牡丹江省(現・黒竜江省)綏雰河(スイフンガ)に住んでいた9か月の私は、砲弾の音が近付く中、母が持てるだけの荷物を持って満鉄が用意した特別の避難列車でスイフンガを後にしました。

母の手記や話によると、別れるにあたって母はどうせ死ぬなら3人一緒がいいと言ったが、満鉄社員でスイフンガ駅助役の父は抱いていた生後9か月の私を母の手に渡し「この子より先に死なないで最後まで頑張るように」と言い、2人を列車に乗せこの列車の出発を指示するためその場を離れました。28歳の父の消息はそこで終えています。

私たちは列車を乗り継ぎ奉天(現・瀋陽)に着いたのは終戦の15日を数日過ぎ、その後奉天での1年の難民生活を経て、母と葫盧(コロ)島から日本に引き揚げてきました。

(つづく)