走り続けた16年(222)

街づくりに重要な お二人③

街づくりを進めるには都の支援が必要であり、都の武蔵小金井駅南口の再開発事業に対する支援は覚書の通りであることが確認できました。次は、この再開発事業区域に大きな権利を有するH・M氏に市長就任の挨拶と再開発事業への協力をお願いすることです。

しかし、なかなか面会が叶いません。それは、同氏が病気で入院中であることと、過去に市と真正面からの対立があったからです。

昭和55年当時、首都圏は駅周辺の放置自転車が社会問題化していました。小金井市においても駅周辺は放置自転車があふれており、人や車の往来や緊急車両の運行にも支障が生じており、市民の行政要望の第1は放置自転車対策でした。

昭和55年8月、H・M氏の所有地(現・イトーヨーカドー南のコスモフォーラム)を借用しての10月の市民まつり終了後、市はその約2千平米を借地し、駐輪場として使用するため星野平寿市長自らが申し込み、正式な契約書を交わすことなく駐輪場としての整備に入りました。

それが、星野市長の不適切な出張が表面化し12月市議会は大混乱となり、結局、市長は最終の本会議で辞任の挨拶を。それが、3日後にその辞任を撤回し、さらなる大混乱のまま年が暮れました。

年明けの昭和56年2月、市議会臨時会で市長不信任決議が24対2で可決され、市長は自らは辞職せず市議会の解散を選択しました。その4月の市議選で星野支持派は全滅し、市長は辞意を表明し5月8日に辞任しました。

その後、5月19日付でH・M氏から駐輪場用地の賃貸の承諾は取り消し、20日以内に原状復帰しての返還請求が出されました。市長選挙中でもあり市長職務代理の大久保慎七助役から、新市長誕生まで延期の願いも、新市長とも話し合いをする用意がないとの内容証明が届きました。

5月31日市長選挙投票、6月1日保立旻氏当選が決定。翌2日保立新市長初登庁し駐輪場問題の協議です。3日は権利保全の準備書面を作成。4日に「土地使用に関する妨害禁止仮処分」を地裁に申請、翌日仮処分は認められたが、H・M氏側から「仮処分決定に対する異議の申し立て」が出された。裁判所は双方の立場を斟酌し和解での解決を期待したようだが、市政混乱から6月18日に開会した第1回定例会の7月14日の本会議に追加された「土地賃借権確認請求に関する民事訴訟の提起について」の議案が上程され、採択の結果賛成14(自民、公明、民社、新自ク)、反対3(佐野浩、田中恵子、本木義夫)、退席8(社会、共産)で可決されました。この結果を受け21日の本訴訟を前に17日、紛争中の用地を市職員30数名で、所有者が設置した立ち入り禁止のロープを外すなど駐輪場として整備し、翌18日から一般使用を開始、収容台数の1千300台は連日満車の状況でH・M氏宅周辺に散乱していた放置自転車も一掃されました。しかし、係争中にもかかわらず使用開始することで市とH・M氏との全面対決が決定的となりました。

H・M氏は星野市長とは親戚関係から、契約締結も賃貸条件も未整理の中、市長在任中に限り駐輪場として貸す約束だったという主張でした。しかし、市は駐輪場の必要性から返還請求には応じられず裁判に訴えました。

(つづく)

走り続けた16年(221)

街づくりに重要な お二人②

平成11年4月市長に就任早々、街づくりに重要な小金井市民である元・東京都建設局長・技監であった、多摩都市モノレール社長の木内孝蔵氏にお会いしました。それは、平成8年2月29日大久保慎七市長と木内氏で交わされた覚書の確認でした。内容は、武蔵小金井駅南口の再開発を実施するのであれば、駅前の交通広場は都が責任を持って建設するという内容であり、交通広場の事業費は60億円と試算されており、本来市が負担すべき30億円は都が国費を導入して完成させるというものです。

これは、東京都が都道の管理を地元市に移管したいとの考えによるもので、小金井市は広場整備完成までに広場を市道として認定し広場整備完了後はすみやかに都から移管を受け、その管理を行うとする内容のものです。

この覚書の有効性を確認させていただくためのものでした。

中央線三鷹〜立川間の高架化は昭和44年以降、具体的に進められてきましたが、小金井市が了解しないことから事業は延び延びになっていました。それは、小金井市の地元負担金が80数億円とされ、財政危機の続く小金井市には厳しいもので、簡単に同意できる状況にはありませんでした。

それが、平成に入った頃から市議会も地元負担やむ無し、との考えになったことから動き出しました。これに対し、都は種々の支援策で応えてくれたのです。この平成8年2月に締結された交通広場の建設の覚書もその一環といえます。

木内氏には市の街づくりに対し大変お世話になりました。

小金井市の街づくりに欠くことのできないもう一人は武蔵小金井駅南口の再開発予定地に大きな権利を有するH・M氏でした。

昭和48年市制施行15周年を記念し「第1回市民まつり」が盛大に行われました。従来、分散されて行われていた文化祭や商工まつり、子ども部門等を統合し、盛大に行われました。メイン会場は現在イトーヨーカドーの位置にあった公会堂や、その南のH・M氏所有の更地(現在マンション・コスモフォーラム)を借用して行われました。丁度、私が小金井市に転入してきた時でした。市民まつりは、その後も公会堂周辺をメイン会場に回を重ね、年々盛大になっていきました。

昭和55年9月市議会定例会で「第9回市民まつりの終了後、市はH・M氏所有の更地約2千平米を借用し、収容台数1千800台の駐輪場として使用するため本格的な整備に入る」との報告がされました。放置自転車対策が市民要望のトップであり駐輪場の建設が急がれていました。

それが、次の12月定例会で星野平寿市長の不適切な出張問題が表面化し、その責任をとって、17日の本会議で辞任の挨拶。しかし、3日後にこれを撤回することで市政は大混乱となりました。

年が明け、市議会は市長不信任案を可決。星野市長は自らは辞職せず、議会の解散を選択しました。その市議会議員選挙の結果は反星野一色となり、市長は辞職しました。星野市長と親戚関係にあるH・M氏と市との間に一定の約定はあったが正式契約はなく、市長が代わることから、用地の原状回復、明け渡し請求があり、これに対抗するため市は市民であるH・M氏を訴える形になりました。

(つづく)

走り続けた16年(220)

街づくりに重要な お二人

武蔵小金井駅南口の交通広場は昭和37年7月に都市計画決定されましたが、なかなか事業に入れず、駅前広場は公式テニスコート1面分約700平方メートルと狭隘で10数台のタクシーの待機場になっていました。バスも送迎の自家用車も入れず、ラッシュ時数万人の駅利用者は幅2メートル程度の狭い通路を肩を触れ合いながら擦れ違い、バス利用者はバス停まで狭い道路を約300メートルも大回りして乗降車するという不便な生活を半世紀以上も強いられており、駅周辺は中央線新宿〜八王子間で、東小金井駅とともに最も整備が遅れていると言われていました。そのため、中央線の高架化とともに駅周辺の整備は私たちに課せられた大命題だったのです。

私は、市長就任早々、街づくりのため二人の方に面会を申し込みました。一人は武蔵小金井駅南口の再開発予定地で大きな権利を有するH・M氏です。もう一人は元東京都建設局長・技監の木内孝蔵氏です。

H・M氏との面会は実現に時間を要しました。それは、近隣市の大学病院に入院中であることや、昭和56年にH・M氏の所有地に設置した市の駐輪場の返還請求に対し、市はこれを拒否し、仮処分を申請し裁判で争った経過があったからです。

木内氏とは職員の事務的対応で簡単にアポが取れました。木内氏は都を退職後、多摩都市モノレールの社長に就任しており、会談は本社役員室で行われました。私は胸の内ポケットに大久保慎七市長と木内技監で交わしたA4の覚書のコピーを忍ばせていました。

木内氏は挨拶の後、開口一番「就任早々の市長がきた理由がわかるよ」と言い、続けて「大久保市長が私が交わした覚書は、個人が交わしたものでなく、東京都と小金井市が交わしたものであり、二人が役職を離れても覚書は生きている」ということでした。

その覚書は標題を「武蔵小金井駅南口交通広場に係る覚書」とし、平成8年2月29日に締結されたもので、1武蔵小金井駅南口市街地再開発事業(仮称)における交通広場の扱いについて(1)東京都は、表記交通広場のうちJR管理区域外の区域が都道として整備されることに同意する。(以下略)というもので、市が武蔵小金井駅南口の再開発事業を行うのであれば、小金井街道の拡幅整備に合わせて6千300平米の交通広場を東京都が責任をもって建設するという内容のものでした。

この交通広場を建設するのにかかる事業費は60億円と試算されていました。本来ですと小金井市が2分の1の30億円、国と都が各々4分の1の15億円ずつを負担することで完成させるのですが、この覚書は都が国費を導入して小金井市の負担はゼロとなるものです。

木内氏は武蔵小金井駅南口を利用する小金井市民でもあり、当然市長選挙にも関心を持たれていたことから、私の訪問の目的は見透かされていました。

街づくりに対する考え方は一緒で、その後も、いろいろご指導をいただきました。

この閏年の閏日に結ばれた覚書は結局ポケットに入れたままでした。しかし、私が街づくりを進める上で大きな支えになりました。

武蔵小金井駅南口の交通広場は再開発前の9倍の広さで、小金井市の負担はゼロで完成したものです。

(つづく)