走り続けた16年(16)

財政健全化への闘い⑧

市民の方から「小金井市は税金が高い」との言葉を耳にすることがあります。

しかし、住民税は法によって定められていますので、「小金井は…」とはなりません。

但し、納めた税金が効率的に市民に還元されていなければ、税金が高いとの思いになることでしょう。

私が小金井市に移り住んで間もない昭和50年代は、市民一人当たりの個人市民税は全国の自治体のトップクラスにありながら、人件費比率がワースト1位であるため、近隣各市が国費や都費を導入し都市基盤整備等を進める中で、小金井市は原資がないことから街づくりが一向に進まないなど、市民サービスの脆弱(ぜいじゃく)さに大変な憤りを感じていました。

そして、このまちを変えるには自らも市議会議員になることだと決意し、昭和60年の市議会議員選挙に立候補しました。

私の選挙公報、リード文は「私は市民の生活感覚を市政に生かし、職員定数の削減、給与制度の是正、業務の民営化の推進、昼休みの窓口業務の開始等、活力ある市役所づくりをめざします。情報公開を積極的に行い、市政の実態を市民にお知らせします。市長を先頭に市政改革を断行し、豊かな市民生活を築きあげましょう。」でした。

横見出しは大きく「緑と歴史の街・小金井」とあり、政策は「わたしの目標・健康のための検診の充実・非行やいじめのない学校教育・高齢化社会に備えます・三鷹︱立川間の連続立体高架化で開かずの踏切り解消と駅前広場の整備・玉川上水の清流と小金井千本桜の復活」でした。

また、選挙ポスターのキャッチフレーズは「市民の生活感覚を市政に」でした。

選挙は、定数26名に29名が立候補し、1151票で19番目の当選でした。

その後、今も住んでいる築後7年の中古マンションに移り、それまでのアパートは事務所として使いました。その壁には、市民にお約束した選挙公約をA3判に拡大コピーして貼り、常にそれを確認していました。いよいよ市議会の場で自分の考えが示せる、その場が来たのです。

「今、市政で何が」
西岡真一郎市長が就任し半年が経過しました。そして、選挙公約である市庁舎など6施設の集約を4施設に変更するとの考えを議会に示し、それに沿った庁内プロジェクトチームの中間報告も出ての市議会全員協議会は、冒頭で議員の資料請求に、市長の「休憩を…」との発言で休憩し、そのまま質疑にも至らず終了しています。

また、関連する補正予算を議会に送付したものの、市長の判断で取下げるなどの混乱が続いています。

8月には最終の報告書が出されるようですが、小金井市の将来に大きな影響を与える重要な事案で、議会の判断が求められることになります。全体計画、財政計画や建設スケジュールなど、きちんとした議論がなされることを期待します。

リース庁舎を取得するとの私の考えは残念ながら議会の理解が得られませんでした。しかし、来年の2月には、その第二庁舎の賃借契約更新について市の方針を決める必要があります。結果として借り続けることが取得する以上の負担にならないことを願うのみです。

(つづく)

 

走り続けた16年(15)

財政健全化への闘い⑦

私が小金井市に移り住んだのは43年前、昭和48年9月でした。

学生時代に、田無市(現・西東京市)に住んでいたこともあり、住むなら文教・住宅都市で、交通の便もよく環境に恵まれた小金井市にと思い、狭いアパートでの生活が始まりました。

当時、都知事は美濃部亮吉氏であり、多摩各市にも多くの革新市長が誕生した時代で、小金井市も永利友喜革新市政が誕生し、2年半くらい経過した時でした。労働運動も活発な社会的風潮とはいえ、小金井市の労働運動は異常でした。

なぜこの様な激しい運動に突入していったのかと考えると、前号6月21日号当欄に記したように、当局の姿勢が非常に弱腰で、組合に立ち向かう毅然とした対応がなかったこともその一因です。

昭和52年11月24日の日本経済新聞が、全国644都市の昭和51年度の都市財政を独自の調査をもとに分析し、小金井市の財政問題について、人件費比率が全国ワースト1位であること等、一面と見開きのページで大きく報じました。しかし、それ以降も昭和57年度まで7年連続、昭和58年度は2位でしたが、昭和59年は再びワーストに戻ってしまいました。

小金井市の人件費比率がワーストになったのは現業部門の正規職員化と表裏一体でした。全国的にも、多摩地域でも、労働条件、賃金、仕事の範囲など、現業としては比類のない程に突出している現業の直営化は多摩地域には見られないことであり、全国にも例のないことだったと思っています。

その様な間に、我が家にも子どもが生まれ育ち、夏はプールに行くようになると、市内には二枚橋焼却場のプールしかなく、小金井から大勢の人が設備の完備している府中市郷土の森にある市民総合プールにバスを乗り継いで行くのでした。

府中市民プールの料金設定は非常に低料金ですが、市外の人は府中市民の倍の料金になります。そのため、小金井の子どもたちも慣れてくると、府中市民の窓口に並ぶようになることも生じていました。このことは大人にとっては非常に辛いことでした。私が小金井市政に強く関心を持つようになったのは、まさにこれが原点です。

小金井市民は担税力が非常に高いにもかかわらず、公共施設の整備や街づくりが遅れるなど市民サービスが行き届かない根本は何なのかを考えました。そして、地方自治に関心を持ち、市政の改善の方策を考えるため図書館で資料を閲覧したり、議会を傍聴したりしました。

その様な中で、分かったことは、小金井市の労働組合の異常な強さが、現業直営化による職員増を招き、それが、そのまま人件費を押し上げ、財政悪化を生じさせたことにより、市民サービスの低下となりました。「市民のための市役所」とはいえない状況を作ってしまったのです。

これを正すには市議会議員になることだと考え、昭和60年の市議会議員選挙への立候補を決意しました。
(つづく)

走り続けた16年(14)

財政健全化への闘い⑥

小金井市政を長い間混乱に陥れた、異常な過去に触れてみます。

先ず、昭和38年4月10日、小金井市の労働運動の象徴でもある小金井市職員組合執行委員長が「職務命令違反」を事由として懲戒免職になり、辞令は内容証明で自宅に郵送されたのです。

その後、5月の臨時市議会で組合執行委員長の解雇問題が議論になりましたが、「業務命令違反」の具体的事由が示されず、「処分が不満なら人事委員会等の審査を」との答弁になり、懲戒免職という処分の重さから明確答弁が必要だったのではと考えます。

これにより「不当首切り撤回闘争」を展開する組合を一層勢いづけてしまいました。

5年後の昭和43年4月30日、「昭和38年4月10日付をもって行った免職処分を、昭和38年10月9日までの停職処分に改める」との辞令が交付され、懲戒免職が撤回されました。人事委員会の斡旋等、何があったかはわかりません。

しかし、これによって組合はさらに強力になり、その人は、苗字の下に天皇と付けられて呼ばれ、カリスマ的存在になりました。

次は、昭和46年4月、革新市長永利友喜氏が当選し、組合の望む革新市政がスタートしました。これにより多摩清掃公社の直営化、学童擁護員(みどりのおばさん)、警備員、庁内清掃、電話交換、ボイラー等の正職化が進み、一挙に職員の増員が進み、市財政を圧迫する人件費比率ワースト日本一になる要因になりました。

684人の職員定数を徐々に1136人までの増員を認めてきた、議会の責任も大きなものがあります。

また、昭和49年第4回臨時会で、議員の質問に永利市長は「5月27日午前9時頃、東庁舎入口で市の警備員多数が私を取り囲み、ネクタイや胸ぐらをつかみ、足蹴りで左足に打撲を受け、全治3週間の診断を受けたのは事実です」と答え、さらに「労使慣行の正常化と、本人の生活権と将来を考え(法的)手続きはしない」と答弁しました。

さらに、昭和49年7月27日深夜から翌日未明にかけて、市長と助役が人事異動の対象者の自宅を訪問し、異例の辞令交付となりました。これは、職員組合の猛烈な反対運動で、庁内で交付できない状況だったからです。

しかも、8月10日、組合の要求に屈服し人事は白紙撤回されました。市長固有の権限である人事権が組合の反対で行使できず、さらに、異動対象の一人の机や椅子が朝になると庁舎裏庭に放り出されている始末でした。

この様な中で、革新市政2期目がスタートして間もない昭和50年7月、夏季手当交渉をめぐって市長と折り合わないことから、組合が保育園、学校給食、浄水場等を除く全職員に「一斉半日休暇」を指示し、市長は「業務に支障をきたす一斉休暇は認めないで拒否すること」と41人の全課長に命じましたが、全員が市長の業務命令を無視しても、組合の意向に従うのです。

信じられない事象に対し、驚くような決着の連続で、市民のための市役所とは到底言えない状況が長く続き、次代への大きなツケを残したのです。
(つづく)

走り続けた16年(13)

財政健全化への闘い⑤

地方自治体の職員に定年制度が導入され、小金井市では昭和60年3月31日、職員の定年に伴う退職条例が施行されました。

同日、小金井市議会議員選挙も行われ、4月5日から私も市議会議員としての任期が始まりました。

また、5月26日、保立旻市長の任期満了に伴う小金井市長選挙が行われ、保立市長が再選を果たしました。

再選した保立市長には大きな課題が待っていました。

それは、職員の欠員補充の問題です。小金井市の人件費問題解決のため不補充を貫いてきた保立市長でしたが、定年制の導入もあり、欠員の補充を求める職員組合の要求は非常に激しいものでした。交渉の過程で当局側から「簡単に職員は採用できるものではない、予算の制限もあることだし」との発言がありました。

昭和60年度の職員の予算は1030人で措置されており、職員の実数の1025人とは5人の乖離(かいり)があったのです。この発言に、5名の欠員補充が可能だと職員団体は勢いづきました。

その様な時、保立市長から相談したいこともあるので、団体交渉等の時は、連絡が取れるよう近くにいてほしいと依頼され、私は、団体交渉等の間は市議会自民党の控室で待機し、その交渉の経過を徹夜になっても見守っていました。

小金井市の労働組合は非常に強いとは聞いていたが、社会常識を逸脱する労使交渉の現状を見聞きし、その実態は想像を超える驚きと怒りの連続でした。一部職員が市長を取り囲み、その耳元で、お前呼ばわりの聞くに耐えない言葉で怒鳴ったりするのです。管理職は、口を出せば火に油を注ぐことになるので、遠巻きに時の経つのを待つだけでした。

市長は市長室に缶詰状態になることもあり、打ち合わせを理由に私が連れ出すこともあり、心配する家族が迎えに来ることもありました。また、時には職員が集団で市長の自宅にまで押しかけ抗議することもありました。

団体交渉は怒鳴り声が廊下にも響き渡る程で、会議室から出てくる職員は声をからしていることも多々ありました。徹夜が続く交渉は、精神的にも肉体的にも限界を超え、正常な判断ができないような状況下での妥結もありました。

3月1日号の当欄にその一部を記載しましたが、これが「西の京都、東の小金井」と称された所以なのかと思いました。

欠員補充の激しい交渉が続く中、明け方近くの午前3時過ぎ、自民党の控室に来た保立市長が、私の目の前で選挙管理委員会事務局長に直接電話し「私が辞めたら、後は法的にどうなるのか」と聞いているのです。

私は、あまりの驚きに言葉が出ませんでした。再選されて、まだ1カ月前後なのです。それ程激しく厳しい交渉だったということです。

そして、間もない7月5日号の『市報こがねい』に、現業職員若干名の募集の記事が小さく載り、その後、5人の現業職員が採用されました。団体交渉の経過を知る私は複雑な心境でしたが、与党は硬化しました。

それが10月31日の大久保慎七助役の辞職につながるのです。
(つづく)

走り続けた16年(12)

財政健全化への闘い④

小金井市の財政問題は、昭和50年前後の革新市政に起因します。いわゆる人件費問題です。

昭和46年、小金井市の人口が9万2千人で職員が662人だったのが、8年間続いた革新市政の終えた昭和53年は、人口は9万9千人と7千人、約7%の増加に対し、なんと職員は約1・7倍の1130人まで増えてしまったのです。

当時、東京都は美濃部革新都政であり、JR中央線沿線は革新市政が多いことから、革新ベルトラインといわれた時代でもありました。それにも拘らず、小金井だけが特に深い傷を負い、長い間、その後遺症に悩まされることになったのです。その原因は、三鷹市、国立市と本市の3市で設立した多摩清掃公社に委託していた、ごみ、し尿処理業務を、昭和48年4月の直営化により100名を小金井市の正規職員としたことや、学校警備等の施設管理職員などを正規職員とした直営主義による人員増の問題だったからです。

その結果、昭和52年の総職員1111名中、現業職員は670人となり、前号5月11日号の当欄でお示ししたように、昭和50年代の10年間の人件費比率は、全国ワースト1位が8回、2、3位が各々1回となったのです。

特に、昭和51年度には45.2%と信じられないような数字になってしまったのです。保守市政になった昭和57年6月の市議会では、人件費比率を35%以下に抑える決議を全会一致で議決するに至る程でした。

行政に対しては、市民からの予算要望や人員要望は限りなくあります。議会に請願、陳情も出されます。もちろん議員からの要望もあります。これらは、どれも切実な要望であり、どれも叶えたいと思うのは当然ですし、担当部局もそれを望みます。しかし、限られた財源である予算は、市政全体を見据えて措置していく必要があり、例え、5万、10万の予算であっても、削減したり、また、事業の縮小や延伸しなければならない場面もあります。また、望んだ予算が計上されれば、喜ぶ市民の顔も目に浮かびます。それが、市政の評価になるのかも知れません。

しかしそれは自分の金でなく市民の血税であることの認識で、迎合せず常に厳しい対応をしてまいりました。

政治に対する評価はその時々も必要ですが、20年、30年後の歴史の評価に耐えられなければなりません。私が昭和50年前後の市政を厳しく批判するのは、再びあの様な市政を繰り返してはならないという強い思いがあるからです。

当時の市政執行者である市長の責任は重いものがあります。しかし、それを認めてきた議会も厳しく問われなければなりません。そして、最終的にはその市政を望み、選んだ市民の責任でもあります。それが、後々の大きなツケとなって返ってくるのです。

小金井市は画餅に帰すような政策により、長い間、苦しみ不利益を被ってきた経過があります。市民の皆さんには、それを、忘れず覚えていてほしいのです。
(つづく)