走り続けた16年(148)

保立旻市長辞職③

昭和61年9月定例会で議員より提案された「老人入院見舞金支給条例」は継続審議となり、12月定例会、12月11日の本会議で採決され、賛成16、反対8で可決されました。

この議決に、保立旻市長は「自らの政策的見地と相入れない」として22日、再議に付しました。(再議とは、市長が議会の議決に異議がある場合、再度議会に議決を求めるもので、初めの議決通り決するには過半数でなく、3分の2以上の同意が必要となり、市長の伝家の宝刀、拒否権とも言われます)

12月定例会最終日の25日、市長の提出した再議の議案の、議会での取り扱いについて調整が続いたが、同意に至らず会期を1月23日まで29日間延長し、1月20日から23日まで本会議を開くことを決定し、市議会は課題を残し散会しました。

昭和62年の新年を迎え、会期延長となっていた前年12月定例会が1月20日に再開されましたが、再議について空転が続きました。延長議会最終日の1月23日も空転が続き、午後7時半過ぎ会期をさらに2月12日まで20日間、再度の議会延長を決め、改めて本会議を2月9日、10日、12日に開くことを決定して散会となりました。

「老人入院見舞金支給条例」の再議の議案を抱え、2月9日を迎えました。10時過ぎ、型通り本会議の開議宣告があり、保留案件、保留事項を調整するため休憩に入りました。午後2時、本会議が再開され、休憩中に開かれた議会運営委員会で市長から「公立昭和病院の事件」について市長報告をしたいとの申し出があり、議会は議事日程に追加して行うことを決定しました。

本会議での日程第1は、昭和61年度の一般会計補正予算の訂正についてでした。

訂正の内容について市長から提案の説明、企画部長から細部説明があり質疑に移りましたが、本筋の訂正の中身についての質疑ではなく、全く想定外の方向に発展しました。

質問の第1は、この補正予算の訂正は庁議に諮る必要があるか否か。第2は、2月3日の庁議に議題として諮ったか。第3は、その庁議の議題と議論になったのは何か。また、第4は、庁議の出席者について、でした。

その後の答弁等を総合すると、2月2日真夜中に、小金井市も構成市である公立昭和病院の総務部長が収賄容疑で逮捕されました。市長は、翌3日朝7時のテレビニュースで知るとともに、昭和病院から直接に報告もありました。しかし、市長はこの日、恒例としている高尾山薬王院の節分祭の招待を受けてることから市長車等は使わずプライベートで予定通りの行動をすることになりました。

当日の庁議に欠席したことには、事前に打ち合わせが済んでいたとしながらも「配慮が欠けたことにお詫び申し上げたい」との答弁になりました。

不運だったのは、私用で出かけた高尾山で転倒し、足を骨折してしまったことです。午後の早い時間に小金井市に戻り、昭和病院問題など公務に復帰することが不可能になってしまったのです。

火種である「老人入院見舞金支給条例」の再議の議案を抱える中で、保立市長の負傷と庁議の欠席、昭和病院の汚職事件と混乱が集中しました。

(つづく)

走り続けた16年(147)

保立旻市長辞職②

昭和60年5月、保立旻市長2期目の就任を、数々の難題が待ち受けていました。

職員の欠員補充問題は就任間もなく5人の職員の採用で労働組合と妥結しましたが、現業職の採用であったことから与党体制に早くもひびが入りました。

日の出町の不燃ごみの最終処分場への搬入は厳しい基準があり、小金井市の不燃ごみは全量が持ち込めず、別途処理していましたが、昭和61年12月、貫井北町に粗大不燃ごみの破砕処理施設が完成し解決しました。

また、可燃ごみ焼却施設である二枚橋処理場施設の建替えは、同時に他の場所に第二工場を建てるべきとの小金井市議会の決議に対し、構成市である調布市、府中市の猛反発で建設計画は完全にストップとなりました。

そこに新たな問題が発生したのです。それは、昭和61年9月定例会に議員による「老人入院見舞金支給条例」の制定が提案されたことです。この施策に対し市長は自らの政策と異なるとしてました。問題を複雑にしたのは提案議員に与党議員も入ってたことでした。厚生文教委員会では賛成多数で可決されましたが、本会議において再度慎重に審議する必要があり、委員会に再付託すべきとの動機が賛成多数で可決され、異例の委員会への再付託となりました。委員会に提出された修正案が12月8日賛成多数で可決され、これを受けて、12月11日の本会議で賛成16、反対8で修正可決されました。

これに対し、22日市長は「自らの政策的見地と相入れない」として再議に付すことになりました。(再議とは、市長が議会の議決に異議がある場合、再度議会に議決を求めるもので、この場合、初めの議決通り決するには出席議員の3分の2以上の同意が必要となることから、伝家の宝刀とか市長の拒否権ともいわれています)

12月定例会最終日の25日、市長の提出した再議の議案の本会議上程の時期、委員会に付託するか等について調整が続いたが同意に至らず、会期を1月23日まで29日間延長することとし、12月26日から1月19日までは休会とし、1月20日から23日までの間は本会議を開くことを決定し市議会は散会しました。

昭和62年の新年を迎え、会期延長となっていた昭和61年第4回(12月)定例会が再開されました。

しかし、実質的な審議に入れず空転が続くばかりでした。例えば1月21日の会議録は、

午前10時40分開議
◯議長(鈴木一雄君)「おはようございます。これより本日の会議を開きます。この際、調整を行う必要がございますので、休憩いたします。」  午後4時49分開議 ◯議長(鈴木一雄君)「開会いたします。お諮りいたします。本日は、この程度でとどめ、散会いたしたいと思います。これにご異議ございませんか。(「異議なし」と呼ぶ声あり) ◯議長(鈴木一雄君)「ご異議なしと認めます。よって、本日はこれをもって散会いたします。大変ご苦労様でした」となります。

延長議会の最終日、1月23日も午前10時20分の開会宣言だけで、空転が続き5時前に時間延長だけを決定。その後、午後7時半過ぎ会期を2月12日まで20日間の延長を決めて散会となりました。

(つづく)

走り続けた16年(146)

保立旻市長辞職①

昭和60年5月、保立旻市長の2期目のスタートはその2か月前に市議会議員に初当選した私とほぼ同時のスタートとなりました。

多くの課題を抱え保立市長は就任早々から厳しい環境に晒されました。圧倒的多数の与党であるが故、保立市政を支えるリーダーの顔が見えない状況でした。市議会議員に成り立ての私には激動する市政の流れに付いて行くのが精一杯という状況で、その流れを変える、流れを作るというには、経験不足、力不足で、議会の中で市長を支える力になれなかったことが今でも悔やまれます。

保立市長は、欠員の補充を抑制することで職員削減を進めてきましたが、昭和59年度の退職者が定年制の導入から47人となり、普通退職の10人の補充は昭和60年の4月に果たしたが、残りの37人は市長選後に先送りされていました。就任早々、労働組合との激しい欠員補充の交渉が続き、その結果、職員の5名採用で妥結しました。これにより、2期目就任し、わずか半月の保立市政の与党体制に亀裂が入りました。その結果が、10月末の大久保慎七助役の退職になりました。

また、不燃ごみの最終処分場である日の出町の最終処分場に搬入するには破砕処理する必要があり、搬入する自治体で破砕処理工場を持たないのは小金井市だけで、その建設が迫られていました。

さらに、老朽化した可燃ごみ処理の二枚橋焼却場の建替えも、昭和60年2月の小金井市議会で、「二枚橋建替えと同時に他の場所に第二工場を建てる」という決議を全会一致で議決。この決議は、構成市である調布市、府中市にとって到底受け入れられない内容であり、進んでいた二枚橋焼却場の建替えは完全にストップ。保立市長は真っ向対立する二枚橋組合と市議会の板ばさみで大変厳しい環境に置かれました。

昭和61年9月定例会に「老人入院見舞金支給条例」の制定が与党の一部議員が加わって議員提案され、委員会では賛成多数で可決されました。しかし、本会議において、施行期日や見舞金の額などについて再度慎重に審議する必要があり、委員会に再付託すべきだとの動議が賛成多数で可決され、異例の委員会への再付託となり委員会で継続して審査することとなりました。

この条例の内容は、市内に1年以上居住する高齢者で、一定の所得額以下の方が7日〜30日入院した場合5千円、31日以上入院した場合は1万5千円の入院見舞金を支給するというものでした。

この条例に対する私の反対討論は「この制度は老人医療費の一部負担金の肩代わり措置で、国及び都は老人保健法の趣旨に反し好ましくないとしている。こうした中で行政秩序を無視した形で条例化することは慎むべきである。また、扶助費のこれ以上の増高を抑制する必要があるにもかかわらず、新たな見舞金制度を導入することは慎まなければならない。第2に、市長の行政執行責任にかかわる事項で、新たな予算措置を必要とする制度の条例化を、市長と一切協議することなく議員提案することは問題がある」でした。

この一連の流れが、小金井市政を大きく揺るがす状況に発展するのです。

(つづく)