走り続けた16年(204)

街づくりへの挑戦 中央線高架⑨

「開かずの踏切り」は市民生活や商業活動に大きな影響を与え、中央線の高架化は長年小金井市民の悲願であり、立川市以西の市民にとっても高架化は輸送量の増加となり、痛勤地獄の緩和から切望されていました。

それが、東小金井駅北口の区画整理事業の進捗により、国の事業採択となり必要な予算が計上されるなど大きく前進しました。

市は、平成6年10月に区画整理計画を小金井市都市計画審議会に諮問し、翌7年2月、同審議会から諮問通りの答申がされました。その後、都の審議会等を経て平成7年4月青島幸男都知事の承認を得て正式に都市計画決定がされました。

これにより市は、地権者等の意見を事業に反映させるため、地権者や市民、学識経験者等11人による「まちづくり協議会」を設置するに至りました。

また、市は区画整理の地権者に対する減歩を緩和するため、区域内の土地の先行取得も開始しました。

小金井市の区画整理と並行して、東京都も中央線高架のための仮線路を敷設する用地の取得に入りました。

高架が完成すれば、市内の7か所の踏切りが除却され、閉鎖されている8つの道路が開通し、市民生活は一変することになります。

平成7年第1回臨時会が5月9日に開かれ正副議長をはじめとする議会人事の改選があり、私はこの難題を担当する「駅周辺整備・中央線立体化問題調査特別委員会」の委員長に選出されました。

平成9年4月の任期満了に伴う市議会議員選挙が近付き、自民党東京都連は三鷹市と小金井市を都議会議員選挙の特別重点地区に指定し、三鷹市議の吉野利明氏と私に都議選に出馬の要請がありました。最初は二人とも固辞していましたが、吉野氏は要請を受け入れて出馬に踏み切り、見事当選を果たし、三鷹市では自民党結党以来42年を経て初めての都議の誕生となり、その後、第45代の議長も務められ、5期にわたり三鷹市をはじめ小金井市の発展にも尽力されました。私は、市政が非常に重大な局面にある中、自分が都議になるより市議でいた方が小金井市のために役立つと判断し、「市議選を見送るように」との都連の強い勧めを断り4度目の市議選に挑戦しました。この件に関しては、都連や武蔵野市選出の井口秀男都議等にも大変迷惑をかけたとの思いです。

市が区画整理事業を施行するには法に基づき「小金井都市計画事業施行規定を定める条例」の市議会での議決が必須であり、平成9年9月の市議会定例会に提案されました。この条例には区画整理を行うに必要な事項が細かく定められているものであり、議決が得られなければ事業を進めることができません。これが、難航することになります。4日の本会議に上程され質疑が行われたが終了には至らず、9日は翌10日未明まで続き、さらに、24日の質疑後、中央線・駅周辺整備特別委員会に付託されました。同特別委員会では同日の24日に審査されましたが、結論が得られず継続審となりました。

11月20日の閉会中の同特別委員会で引き続き質疑が行われましたが、終了するに至らず保留となり、完全に暗礁に乗り上げました。(役職は当時)

(つづく)

走り続けた16年(203)

街づくりへの挑戦 中央線高架⑧

JR中央線三鷹〜立川間13・1kmの高架化は、その間にある18か所の踏切りを除却することになるのです。

特に武蔵小金井駅東側の小金井街道踏切りは、ラッシュ時の1時間は1分間も開かない「開かずの踏切り」により発生する交通渋滞の解消や、鉄道により南北に分断された市域の一体化を促進するなど効果のある事業であり、多摩地域全体においても期待の事業で、国の事業採択の条件は東小金井駅北口の区画整理事業の進捗に懸かっていました。

そのため平成6年は多摩地域自治体注視の中、大久保慎七市長も市議会推進議員も慌ただしく動きました。

4月に行われた2度の説明会は、開会前から大混乱となり、説明に入れず打ち切りとなりました。そのため、市長を本部長とする推進本部を設置し、幹部職員により地権者を個別に訪問し、説明を繰り返しました。

この辺の状況を7月25日の日本テレビ「ニュースプラス1」の「ニッポン紛争地図」は、片寄ったと思われる放映であり、私は日本テレビに激しく抗議し、今見ても憤りを感ずる程です。その後10月13日の同番組で再度放映され、私は法的措置は断念しました。

また、9月の市議会定例会で「区画整理推進の陳情」が採択、「反対の陳情」を不採択とし、議会の意思が確認されました。

これを受けて市は10月1日、市立第三小学校体育館で地権者を対象に土地区画整理の説明会を行いました。4月の混乱を参考に、体育館を地権者、一般市民、議員を区分けし、事前に受けた質問に回答し、会場での質問にも答え、説明会は混乱なく終了しました。

市は10月11日の市議会全員協議会に東小金井駅北口土地区画整理等の都市計画の案を示し、17日開催の小金井市都市計画審議会に東小金井駅北口土地区画整理事業の都市計画案を諮問しました。

これが、国に評価され平成7年度予算の大蔵原案に遅れていた三鷹〜国分寺の東区間の調査費が計上されました。これにより、すでに事業採択されている立川〜国分寺の西区間と合わせ、全線高架に向け前進しました。

都市計画が決定するなど手続きは順調に進みますが、反対運動も盛り上がり、なかなか地権者の理解を得るには困難な状況が続いていました。

平成7年5月、都から市に対し、JR中央線の高架に係る事業費負担が示されました。それは、総事業費が1千950億円で、JR東日本が420億円の負担で、都市側の負担は1千530億円。内訳は国庫補助金が765億円、都が535億円、沿線6市が230億円で沿線市の負担額の算出根拠は、線路延長距離の按分となっており、本市の負担額は99億円でした。(高架完成後の清算では、総額が1千711億円となり、小金井市の負担は94億5千800万円でした)。

東小金井駅北口区画整理事業の手続が進んだことにより、不即不離の関係にある中央線の高架事業も着々と進み、都は、武蔵野、小金井と国立の3市域での仮線路用地の取得も進めてきました。

市が区画整理事業を実施するには「東小金井駅北口土地区画整理事業施工規定を定める条例」を市議会で議決する必要があります。反対運動が続く中で、この必須である条例の制定が極めて困難となりました。

(つづく)

走り続けた16年(202)

「今、市政で何が」

9月の市議会定例会で、令和2年度の一般会計決算が審査されました。この結果、認定に賛成の議員は4人、反対議員が18人で不認定になりました。

決算審査は、その年度の行政が適正に執行されたか否かが問われるもので、4年連続しての不認定は異常な状況であり、過去に例のないことです。

昨年、世界中を震撼させ、今も続くコロナ禍が市民生活に大きな影響を与えています。国も都も支援策を打ち出しますが、市の対応策は必ずしも十分といえる状況にはありません。令和2年度の一般会計でのコロナ禍における市の独自策は、コロナ禍で中止になったイベント等の不用額、6千600万円をそのまま回したに過ぎないのではないかと議会で指摘される程度です。

都市間競争が叫ばれる中、隣接の武蔵野市は当該の令和2年度で約7億6千万円、本年度はくらし地域応援券の発行などで23億円が予定されており、この2年間で30億円が「市民の暮らしとまちの経済を守り、まちの活力につなげるための支援策」として予算化されています。西岡市長の唱える「住んで良かったと言われる小金井市」とするには、今こそ社会的弱者といわれ、声の出せない人々への独自策としての予算措置が必要です。

さらに、不認定の理由の一つは新庁舎建設問題にあります。西岡市長は市長選挙で「庁舎、福祉会館、図書館など6施設復号化は67億円で、新たな市民負担はない」と公約して当選しました。5か月後に「4施設に変更は私のゆるぎない方針」と断言。それが、5か月後には「ゼロベースで見直す」に変わりました。市民の期待を集めた超目玉公約の図書館は消えてしまいました。「67億円は建設費だけである」としていますが、図書館を除いても84億4千万円であり、設計等を含めた総事業費は112億円に膨れ上がり、その74%は借金で「新たな市民負担はない」と到底いえる状況ではありません。もし、図書館も入れれば選挙公約を100億円以上もオーバーすると思われます。選挙公約とはいったい何なのか。

市が基本設計の予算を提案できないことから、平成30年9月、市議会6会派12議員による非公式の提言があり市長はこの提言を参考に調整したものを、基本設計の選定に示しました。この整備方針を市長や与党系議員は市長案ではないと主張しますが、政策決定は市長の専権であり、自らの政策意思に反する内容ならば、それは拒否することになります。議員や市民の提言を参考にしても、決定すればそれが市長案なのです。市長に付与された権限と責任とはそういうものなのです。

議会は昨年3月の定例会から毎定例会に、コロナ禍での市民生活優先と、財政見通しを立てての庁舎建設を何度も求めています。しかし、結局議会の指摘に耳を貸すことなく、9月議会でも最終本会議で再度、新型コロナ感染拡大が市政に与える影響を考慮し新庁舎等建設の見直しを求める決議が賛成16、反対6で可決されました。

庁舎建設に反対の議員は一人もいません。この空前のコロナ禍による税収不足や建築資材の値上がり、市民生活など懸念されます。市長は一度立ち止まり、市民や議会の声に耳を傾けることが、結果的には早期の竣工になると思われます。

(つづく)