走り続けた16年(244)

三七(さんなな)協定って何?

昭和33年の市制施行を契機に市職員を公募で採用することになり、その公募で入所した20代前半の若い職員により、昭和36年1月御用組合が闘う職員組合に変身して再結成。同時に自治労に加入し全国的な公務員共闘の第一次賃金闘争に参加し、自らの独自要求を押し通す等の成果を上げたことから組合活動はいやがうえにも盛り上がりました。

組合との団体交渉には同年の昭和36年12月23日、助役に就いたばかりの関綾二郎氏(二代目市長)が当りました。初代の鈴木誠一氏と二人の市長には私も長い間、ご指導をいただきました。この大先輩を私が評するのも如何かとは思いますが、鈴木市長の「剛」に対し、関助役は「柔」という感じでした。

自治労の第二次賃金闘争に取り組むため、小金井職員組合が昭和37年1月の臨時大会で決定した方針は、その後長く小金井市財政に大きな影響を及ぼすことになりました。

組合の発想は「賃金は生活給であり、課長だろうが現場の平職員だろうがサンマ一匹、大根一本の値段に変わりはない」との主張で、誰でもが一定の年齢になったら差別なく最低の保障を受けるための「年齢別最低賃金制度の導入」を打ち出してきたのです。

若く経験の少ない執行委員は問題があれば職場懇談会(職懇)等を開いて協議することから要求は次第にエスカレートしました。

2月に入り組合は勤務時間に食い込む違法な職場大会も開きました。3月、市長が出席した団体交渉の中、組合側の要求である「年齢別最低保障」を容認する発言が出されました。その後、当局はこれによる財政負担が高額になることから到底受け入れられないとの認識に至りました。再度の団交で、当局側は文書による確認に至っていないことからこの問題から逃げたが、組合は食いついて放さない状況が続きました。日付が変わってから市長は助役に一任して帰宅しました。明け方まで続いた団交で当局が組合の要求を一部押し返した形の妥協案を示し、組合の意向を打診し組合もこの内容で妥結しました。

その後、登庁した市長はこの妥結内容に不満を示し、容認しなかったとのことです。

この覚え書の標題には「小金井市長と自治労小金井市職員組合執行委員長との協議事項にかかる結果について(覚え書の交換)」とあり、文頭は「東京都小金井市長鈴木誠一を甲とし、自治労小金井市職員組合執行委員長M・Yを乙として、甲乙協議の結果次の通り覚え書を交換する」とあります。

その内容は、10項目の合意事項が列記されており、その4に「年齢別最低保証賃金制度の実施は不均衡の是正の措置を含め、全職種を通じて別表2の初任給基準表を用いるものとし、同表により在職者調査を行う」とされており、5で「経験年数換算分の調整の実施は昭和39年度までに完了するものとする」とあります。そして、合意日は昭和37年3月6日と記されており、この覚え書により小金井市の給与体系は年齢給となり、平成9年の職務給導入まで約35年間、人件費問題が小金井市財政に重くのしかかることになったのです。

この覚え書はいわゆる「37協定」と呼ばれますが、不思議なことに、この文書には市長印がないのです。

(つづく)

走り続けた16年(243)

強力な市・職員組合

小金井市は非常に潜在能力の高い町です。都心からJR中央線で30分程度に位置し、水と緑に恵まれた自然環境にあり、市民の意識は高く、その担税力は全国でもトップクラスにありながら、街づくりは遅れ危機的財政状況が数十年も続き、文化施設やスポーツ施設など公共施設の不足は市民の悩みでもあり、不便な生活を強いられました。なぜ武蔵野市や三鷹市、府中市など近隣市と比較して、市民サービスとしての還元が少なかったのか。

それは、市制施行当時から尖鋭化した職員組合に対し当局が適切な対応ができていなかったことが長く尾を引いたことと、昭和46年から2期8年間の革新市政でさらに組合が強力になったことに起因します。それは、市民にとって取り返しのつかない大きな損失となりました。

昭和33年、小金井市が市制施行を契機に職員採用を地元中心から広く公募で行うことにしました。それまで必要に応じて地元の人を選考等で採用していたのが、ここで大学で学生運動などを経験した新卒の学生が入所してきました。

公募で採用された20歳代の若者を中心に給与等労働条件の改善を求める声が次第に大きくなり、昭和36年1月それまで互助会的な活動を主とし、話し合いにより交代で管理職が執行委員長等を務めてきたポツダム組合が、慣例を破って入所早々の24〜5歳の若手職員が立候補し、若手平職員による執行部が誕生しました。闘う組合が無投票で再建・結成されました。これを、組合は無血クーデターと表していました。

怖いもの知らずの若手執行委員は早速賃金闘争に取組み、その要求は強引で当局は慣れない守りに必要な理論武装が不十分なことから、労使交渉は組合のペースで進みました。

同時に懸案の、全国の地方公務員による組合組織である自治労(全日本自治団体労働組合)に加入し、全国的な公務員共闘の第一次賃金闘争に参加することにもなりました。

当時の職員の待遇は必ずしも恵まれていたという状況にはありませんでした。特に中途採用の現業職員の待遇は厳しいものでした。そこに、御用組合から脱皮した職員組合は初めての賃金交渉に取り組んだのです。

交渉に当たる執行部は臨時大会での決定を実現させるため、当局に要望を飲ませることに懸命でした。

昭和36年2月の組合の臨時大会では人事院の勧告に沿う市の給与改定案を拒否。独自の要望を提案し、組合の要望が生かされる結果になりました。また、懸案だった時間外手当支給の頭打ちの解消や、一時金(賞与)の支給を勤務評定によることを止めさせるなどに成功し、組合活動の意気はいやがうえにも盛り上がりました。

当時、助役を務めていた鈴木祐三郎氏の体調不良により、鈴木誠一市長は同級生の東京都職員だった関綾二郎氏(二代目市長)を昭和36年12月に助役に起用し、職員組合との交渉に当りました。鈴木助役は昭和37年3月末に辞職しました。

昭和37年1月、臨時大会は第二次賃金闘争に取り組む方針決定のために開かれました。

組合の発想は賃金は生活給であり、誰でも一定の年齢になったら差別なく最低の保障を受けるための「年齢別最低賃金制度の導入」を打ち出したのです。

(つづく)

走り続けた16年(242)

専決処分について②

平成11年の3月定例会が終えた大久保慎七市長は年度末の3月30日、一般会計の補正予算を議会に諮ることなく専決処分しました。

これは、平成10年度の市の一般会計予算が当初の計画に反する社会変動により歳入の減と歳出増により赤字になることが確実になったのです。慌てたのは東京都です。定例会中にも拘らず担当職員を都庁に呼び、その対応策を市と協議していました。小金井市の一般会計が赤字になれば都は面目が丸つぶれになることから熱心な対応でした。私は事実を明らかにし、あえて都のために繕う必要はないとの考えでした。

補正予算の補正額は表面上の数字は56万1千円と当初の315億8千万円と比較して少額でしたが非常に手の込んだ複雑な手法でした。

まず、都の振興交付金の協力を得る。一般会計から繰出すべき2特別会計への繰出しを止める。そのため、特別会計は赤字になるが、それは次年度予算を繰り上げて充用して対応する。それにより後年度負担は重くなるがやむを得ないことでした。さらに、市の公園整備基金からの借入れて帳尻を合わせ、辛うじて平成10年度の一般会計を黒字にする形が整いました。

大久保市長の任期は4月25日までであり、この専決処分を市議会へ報告し承認を求めるのは次の市長の仕事になります。

4月25日の投開票で当選が決まり、26日午前0時、選挙事務所で大久保市長から「後は任せる」との言葉で引き継ぎを受けました。

その数時間後に初登庁した私は、一連の儀式の後、秘書から都の市町村を所管する行政部が早急に面会したいので時間を取ってほしいとのこと。就任3日目の28日午後1時半、都の松澤行政部長、松本地方課長ら6〜7人が来庁。「小金井市の財政は極めて厳しく自治体として存続も危ぶまれる」というものでした。私は「議員として財政状況は十分把握してる、財政再建を果すため行革を推進するので都の特段の支援を」の要請に都も力強く応じてくれました。

5月11日に開かれた臨時会は私が市長就任し最初の議会です。議題は議会人事の改選であり、議長には初めて共産党議長になりました。また、3月30日に大久保市長が専決処分した一般会計補正予算(第7回)を報告し承認を求めました。議会からは、専決処分に対して私の考えが問われ、「やむを得ない措置だと思う」と答弁しましたが、特別会計には予算通り繰り出し、一般会計の赤字を事実として、市民にそれを知らせる必要があると考えていました。大久保市長は都の立場等を考慮し、一般会計の赤字回避に努めた結果でした。

質疑を終了し採決の結果、賛成13、反対9、退席1で承認はされましたが、専決処分に対しての議会の反応は厳しいものでした。

かくありながら、5月31日、自らの給与の10%を平成12年3月まで減額することと6月に支給される期末手当(ボーナス)30%の減額を専決処分し、6月定例会に報告し承認を求めました。自分自身の減給であり、6月1日がボーナスの基準日であることから5月31日に専決処分したのです。議会の承認は得られましたが、1か月前の市長選挙で熱心に応援してくれた議員からも厳しい指摘を受けることになりました。

(つづく)