走り続けた16年(248)

職員組合M委員長を免職に②

昭和33年10月、小金井町が市への移行を機に公募による職員採用を実施しました。そこで採用された職員が中心になり労働組合が再結成されました。時代を反映し運動が一挙に過激化しました。当局はこれに対応しきれず、賃金闘争では成果を挙げられ、「年齢別最低賃金」を保証するいわゆる「三七協定」が昭和37年3月に合意されるなど、組合側は主張が通る度ごとに、さらに強力になりました。これは、職歴や学歴、職務・職階に関係なく年齢により給与が決まる「年齢給」であり、財政はもちろん職員のモチベーションにも大きな影響を与えることになり、その後、35年間の小金井市政に与えた影響は甚大であり、決して忘れてはならないことです。

時が流れ、市職員も「三七協定」を知る人も少なくなり、労働基準法第三六条の「時間外と休日の労働」により、当局と労働組合が毎年締結する「三六協定」は分かるが「三七協定」って何?、となってしまってます。

また、昭和54年4月に市制施行20周年を記念して刊行された「小金井市議会史」にも、この「三七協定」に関しての記述はありません。さらに当時の市報にも記載はなく、このまま風化されることが懸念されます。

この「三七協定」の合意をはじめ労働運動を先導してきた職員組合のM執行委員長が昭和38年4月10日に免職されました。この免職に対する手続きには疑問を持つものでした。それが、不当首切り反対の運動を盛り上げる要因になりました。

M委員長は市制施行後に小金井市役所に入所し、昭和36年10月5日号の小金井市報に「市役所機構改革 大幅な人事異動行なわる」との見出しの中に「税務課固定資産税係主任M・Y」とあります。入所2年数か月の委員長の抜擢が記述されているのです。これは、入所して間もないM委員長等により再結成され勢い付く組合を押さえるための当局の策だったのか、その効果はなく職場の中に組合の存在感を示すだけのものでした。その次に市報にM委員長の名前が出るのは昭和38年6月5日号で「4月10日付免職 主事M・Y」との記載でした。

この4月は、統一地方選挙で都知事、都議選に続き、4月30日は市長選と市議選が同時に行われ、市長選は鈴木誠一市長が1万3千785票で革新統一候補の岩内義明候補に4千203票の差で勝利し2期目に入りました。

また、同時に行われた市議選では社会党が2から4に、共産党が1から2と増になり革新系は計6人、それに新たに公明党が2人の当選を果たしました。鈴木市政の中核となる保守系無所属は18人が当選し与党体制は堅持されました。

選挙後の新議員による最初の議会は5月18日に開かれた昭和38年第1回臨時会でした。本来、正副議長の選任等議会人事が主の臨時会ですが、革新系議員が増えたことから議会運営についての活発な発言が出され、それが23日まで続き、当然のこととして議会閉会中に起こった市職員組合M委員長懲戒免職について、初当選の社会党の岡田清則議員から「市職員組合委員長の免職について」と、同じく共産党の朝倉篤郎議員から「市長の行政処置について(市職員組合委員長の免職について)」の表題で緊急質問が行われました。

(つづく)

走り続けた16年(246)

幻の三七(さんなな)協定を追認

昭和36年1月に再結成された小金井市職員組合は自治労による第一次賃金闘争で成果を上げ、さらに翌年の第二次においても年齢別最低賃金を保証する覚え書で合意しました。これが、昭和37年3月6日であったことから「37協定」と呼ばれました。それは、組合側にとっては大勝利となるものでした。これで、小金井市の職員の給料は学歴や職歴、職務・職階に関係なく年齢が同じであれば同一の給料になるというものでした。関綾二郎助役や労務担当は鈴木誠一市長を説得できるとの判断で組合と合意しましたが、市長はこれを了とせず覚え書に署名・捺印をしなかったとのことです。しかも、その覚え書自体が市役所に不存在です。そのため「幻の37協定」とも言われました。

この覚え書に沿った形の給与改定により、ほとんどの職員が大幅な昇給対象となり、特に現業職員は2倍以上になる職員も出る等、財政負担があまりにも大きくなることから、単年度での対応は不可能で当局が組合に3年後の昭和39年までの制度完成の延伸を申し出る始末でした。

この年齢給の導入で永年奉職していた職員と入所して数年でも年齢が同じであれば同一であるし、例えば、入所し10年20年地道に勤めてきた職員が、入所し数年でも年齢が上であれば大幅な昇給で追い越されることに不満はあったが、組合にものが言える状況はなく大きな声になることはありませんでした。

地方公務員法第24条1項では『職員の給与はその職務と責任に応ずるものでなければならない』と明記されています。すなわち、年齢給は法律に反するものなのです。

強力な職員組合の反撃を恐れてか、当局は法に反するような組合の行動にも穏便な対応をすることが、さらに組合運動を過激化させることになりました。

市長が合意することの無かった覚え書の下3月17日に起案された「職員の給与に関する条例の一部を改正する条例の制定について」が3月12日に開会していた3月定例会に54号の議案番号で議会に送付されました。

議会において、この「給与改正の条例」については特段の質疑もなく可決されました。その中で、保立旻議員が一般質問の中で、給与改定の交渉について質しています。

保立議員は、交渉が次第に尖鋭化し、勤務時間内に食い込む職場大会や抜き打ちの5割休暇闘争、理事者を夜の3時半近くまでの軟禁状態での団体交渉は地方公務員法上違法となり、人権問題にもなる不法行為には厳しく対応すべきだ、との質問に対し、関助役からは、市長は非常に気を悪くしていると思います、との発言があり、違法行為についての対応は、非常に腰抜けでだらしないとご指摘があるかもしれません。また、違法が認められましたが処分をすることは差し控えたのでございます、との答弁になりました。助役は組合とは対決姿勢でなく信頼関係を構築したいとの思いから譲歩してきたようですが、逆にそれが労使交渉をさらに激しくし、全職場挙げての超過勤務拒否や団体交渉の場に大勢の職員が加わる集団交渉に発展して市長を追及するという状況にもなりました。

ついに昭和38年4月10日、市長に職員組合K執行委員長に解雇の辞令を発しました。

(つづく)