走り続けた16年(273)

職員二〇〇人削減へ

昭和51年度の全国自治体の財政状況を日本経済新聞が調査し発表した。革新市政の小金井市が人件費比率でワースト1位になり、以後ワーストを繰り返していた。この原因は職員が200人過剰だというのが行革を標榜する議員の主張でした。これを職員組合を含め市全体の共通認識にするにはどうしたらいいかと常に考えていた。

平成5年9月議会の私の一般質問でかなり前向きな答弁が出ました。そして、翌年2月1日の総務委員会で3期目に入った今は亡き同期の小川和彦議員と「今日の委員会で何か成果を上げたいね」と話して臨みました。大久保慎七市長2期目の任期も残り1年で予算編成も最終局面であり、ここで行革を一歩でも進めなければとの思いがあった。

委員会で市長から、「職員の退職金を支払う自信がない、大変深刻な問題だ」、また、「起債(借金)が認められない状況もある」とかなり厳しい答弁が繰り返された。

また、前年11月、助役を座長に部長職による行財政対策会議を設置した、との報告があったが血を見る改革は内部からでは無理だと私たちは主張した。

私の、外部の専門的第三者機関に委託すべきとの提案に、市長は「(星野市長時代に助役として)行対審のあの紛争の状況は空恐ろしくなる。行対審で外部の委員に大変迷惑を掛けた」、「理論的に他に委託は可能だと思うし、市民参加がいいか、もっと別の方法がいいか十分考える必要がある」との答弁を引き出しました。

委員会終了後、市長室で大久保市長と二人で話し合い、外部の専門的第三者機関に委託することで意見が一致しました。市長の了解を得たことでその足で既に決定している予算(案)に委託費を加えるよう企画財政部長に伝え、担当職員の「金額は?」に私は1千万円を要求しました。

1か月後の定例会に提案された平成6年度予算(案)に行政診断調査委託費として721万円が計上されました。総予算は453億6千万円その内の一般会計312億9千万円と比べて、決して大きな金額ではないが行革に反対する議員の執拗な質疑は続きましたが、予算が可決され(財)日本都市センターに行政診断が委託されました。

翌7年3月、小金井市行政診断調査報告書が(財)日本都市センターから納品されました。その緑の表紙の報告書を私は「小金井市行革のバイブル」と呼んでいました。その調査は事務事業、組織、定数管理等の現状と問題点を客観的な立場から調査・分析したもので、市の財政難の原因は革新市政時代の大量職員の採用にあり、総合的に判断して200人の職員が過剰だとの診断でした。そして、数年後には職員の退職金も払えなくなると警告しています。この報告書は多岐に亘り今でも行政執行の指針として十分通用するものです。

7年4月の大久保市長3期目の市長選挙は前回に続き選対事務局長を任せられ、公約の作成など選挙全体を指揮することになった。市長はやるべきことは分かっていると200人の職員削減を選挙公報に掲載することに消極的でした。しかし、公約にすることで、市民の理解が得られたことになり、職員削減がしやすくなるとの私の主張に、最後は了解してもらい、小金井市初の3選を果たしました。

(つづく)

走り続けた16年(256)

人件費率全国ワーストに

昭和33年の市制施行以来、小金井市の職員組合は「西の京都、東の小金井」と評される程に強力な組合となりました。法律で定められている職務・職階による「職務給」ではなく、年齢によって給与を定める「年齢給」とする「37協定」を実現させたり、職務命令違反で懲戒免職処分になった職員組合の執行委員長を復職させるなど、強力な組合体制が形成されていました。

46年4月の統一地方選挙は革新ブームもあり、永利友喜氏の当選により小金井市にとって初めてとなる革新市政が誕生しました。この革新市政実現には職員組合の積極的な支援もありました。

その組合の支援を受けて当選した永利市長にとっては厳しい市政運営が強いられることになりました。自分たちの支援で当選させたとする組合は、当然市長を支えていくものと思われたが、前号でお知らせした通り、社会常識を逸脱した暴力的手法を使ってでも理不尽と思われる要求を次々に提案「誰のお陰で当選できたと思っているのだ」との考えでその要求を次々に実現させていったのです。

それは、市の業務は市の職員でという直営主義で、次々と職員の正職化を進めました。それによる人件費の増は「人件費は事業費」との考えによるものでした。地方自治体の第2条第13項『地方公共団体は、その事業を処理するに当たっては、住民の福祉の増進に努めるとともに、最小の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない』と規定されています。これは、行政経営の基本中の基本であり、これすら守られていなかった8年ということになります。

これに危機感を持った中町、東町、本町の一部の青壮年で組織された中山谷青壮年会の若者が立上がり、48年に「小金井市は市民の納税額に対して教育費など市民への還元が少ない」と近隣市と比較した数字を機関紙で証明しました。その原因が職員増のための人件費にあることも明らかにしています。

また、革新市政を憂え警備員の正職化運動を問題視した全市的若者による「菊栄会」も組織され、積極的に活動されました。私も後年参加しました。

さらに、小金井青年会議所も具体的な財政健全化策を機関紙で提案していました。

昭和52年11月24日の日本経済新聞(日経)で51年度の全国662市の財政状況がランク付けで詳細に発表されました。一面に大きな見出しで、人件費比率ワースト1位が小金井市であることが報じられたのです。さらに、見開きの2ページを使って詳しく解説されたのです。議会もこれを看過することにはならず議論になりました。しかし、人件費問題は一朝一夕に変えられるものではなく、翌53年10月15日の日経で2年連続して人件費ワーストが報じられました。

その後も人件費問題には歯止めがかからず昭和50年代の10年間でワーストが8回、2位3位が各1回と最悪の状況が続きました。

昭和48年に発生した第4次中東戦争による石油ショックが狂乱物価を招き、石油製品やトイレットペーパーの品不足等で市民生活が大変な時代でした。

昭和54年4月の市長選挙は、前回552票の僅差で惜敗した星野平寿氏が4千票差で勝利し、2期8年に及んだ革新市政にピリオドが打たれました。

(つづく)

走り続けた16年(57)

財政健全化への闘い その2②

小金井市は、昭和33年10月、人口4万124人で市制を施行し、来年は60周年の還暦を迎えることになります。

それは、長い年月であり、いくつかの失政も重ねました。良いことは当然として忘れ去られても、忘れてはならない失政もあり、市の歴史として今後に活かされなければならないと考えます。

昔から小金井にお住まいの皆さんは思い出してください。また、新しくお住いの方々は、小金井市には辛く厳しい時代が長く続いたことを知って欲しいのです。

それは、昭和46年から53年までの8年間の革新市政による大量職員の採用です。

革新市政誕生の前年、昭和45年の小金井市の人口は9万2千人でした。それが、8年後、革新市政の終えた昭和53年は人口は9万9千人と7千人(7%)の増でしたが、662人だった職員はなんと1千130人と468人(70%)の増加となりました。これが長い間、小金井市財政を危機に陥れてきた元凶でした。

これには、革新市長の責任は極めて重いものがあります。しかし、職員定数は条例で定めることから議決が必要であり、1千136人まで徐々に引き上げてきた議会の責任も重大です。結果的には、市長や議員を選んだ市民にその大きなツケが回ってくることになりました。

昭和52年第1回(3月)定例会で、市立南中学校の開校や警備員、庁内清掃の職員等の定数外職員(準職員)を正規化するため、定数を1千136人とする条例案が本会議で可否同数となり、議長採決により可決されました。その結果、職員数は最大の1千130人と膨らみました。(因みに、私が退く平成27年度の職員数は671人でした)。

当時、東京都は美濃部亮吉知事であり、武蔵野市から立川以西にかけても革新市長が連なる、中央線革新ベルトラインと呼ばれた時代でしたが、小金井市だけが重い後遺症に長年悩まされてきたのは職員増による人件費問題だったからです。

私が小金井市の住民になったのは、革新市政がスタートして2年目の昭和48年でした。

昭和54年、革新市政に代わり星野平寿市長により保守市政が復活しました。星野市長のタカ派的言動により職員組合や反行革市民団体とは真っ向対決姿勢となり、大混乱の中で行財政対策審議会を設置し、行革に取り組んだが目的を果たせず2年で辞職。次の保立旻市長も定年制の導入や欠員不補充を貫き、職員削減に取り組んだが、1期半の6年で辞職となりました。

次の大久保慎七市長は3期12年間務めましたが、行政需要が増える中バブル経済の崩壊などによる減収で大変な苦労をしながら、200人の職員削減計画に取り組まれました。

しかし、3市長にわたる20年の任期中の人件費の削減は、人件費比率40%は切りましたが30%台に止まり、人件費削減の難しさが表われています。

それは、公務員の身分保証が確立していることや西の京都、東の小金井と称された強力な労働組合に阻まれたからでした。

(つづく)

走り続けた16年(30)

財政健全化への闘い ⑱

小金井市は昭和50年前後の8年間、「費用と効果」を全く度外視した、市職員による直営主義の革新の市政が執り行われました。

昭和46年の小金井市の人口が9万2千人であったのが、革新市政の終えた昭和53年は9万9千人と7千人、約8%増に対し、職員数は662人から1千130人と実に倍近くに増員するという取り返しのつかない失政を犯(おか)し、市財政を長期間に渡り苦しめることになりました。

これは、市の事業は市の職員で行うという主張から、常軌を逸した強力な正職化運動を展開する職員組合、そして、それに屈した市長。また、チェック機関としての役割を果たせなかった議会の責任も重いと言わざるを得ません。しかし、市長も議員も市民が選んだ人たちであることを私たちは肝に銘じなければなりません。

前号まで数回に渡って掲載した学校施設警備以外にも、建設部土木課維持補修係も当局の管理が行き届かない部署のひとつであり、革新市政以降も旧名称の「工事二係」と恐れられ、数多くの問題を起こしました。

平成2年第一回(3月)定例会で市議会は次のような決議をしました。

『市役所庁内秩序の回復と確立を求める』(要旨)
平成2年3月28日の予算特別委員会において、土木課維持補修係職員等の傍聴者が市長の答弁に対して一斉に不満の声をあげ審議の続行が不可能になった。これに対して委員長から傍聴者に対し、強く注意を促すという事態が生じた。

かかる状況下で市長が体調を崩しドクターストップとなり、本定例会の会期の延長を余儀なくされることに至った。

その原因の一つには、平成2年度一般会計予算の審議における土木費の経費にかかる予算特別委員会の審議の成り行きに不満を持つ維持補修係の職員を主体とする一部市職員の業務打ち合わせと称したこの抗議行動にあるといっても過言ではない。

あまつさえ、3月29日には本庁舎4階議会棟東階段入口において37名の係員のうち30数名の職員が勤務時間中にもかかわらず激しい態度で助役に迫って取り囲み、動きの取れない状況にするなどの事態は常軌を逸したものというべきである。その後、職場担当課長が職場復帰命令を出しても応じようとせず、議会運営委員会を中断せざるをえない状況に追い込んだ。職場を放棄し、職務に専念する義務に違反したことは、地方公務員法に背反する行為である。

このような、あたかも議会審議に介入するかのごとき維持補修係を主体とする一部職員の不見識な行動は、まじめに働く他の職員の名誉を傷つけ、ひいては市民の良識と名誉を汚す行為であり、本市議会は断じて容認することはできない。かかる異常事態を招来した原因と責任は、挙げて市政運営の最高責任者たる市長にある。市長は、勇断をもって維持補修係を管理可能な職場として、市民に応える機能に改善すべく早急に対処されたい。

以上の決議が、共産党と青木ひかる議員を除く全員の賛成で議決されたのです。

(つづく)

走り続けた16年(15)

財政健全化への闘い⑦

私が小金井市に移り住んだのは43年前、昭和48年9月でした。

学生時代に、田無市(現・西東京市)に住んでいたこともあり、住むなら文教・住宅都市で、交通の便もよく環境に恵まれた小金井市にと思い、狭いアパートでの生活が始まりました。

当時、都知事は美濃部亮吉氏であり、多摩各市にも多くの革新市長が誕生した時代で、小金井市も永利友喜革新市政が誕生し、2年半くらい経過した時でした。労働運動も活発な社会的風潮とはいえ、小金井市の労働運動は異常でした。

なぜこの様な激しい運動に突入していったのかと考えると、前号6月21日号当欄に記したように、当局の姿勢が非常に弱腰で、組合に立ち向かう毅然とした対応がなかったこともその一因です。

昭和52年11月24日の日本経済新聞が、全国644都市の昭和51年度の都市財政を独自の調査をもとに分析し、小金井市の財政問題について、人件費比率が全国ワースト1位であること等、一面と見開きのページで大きく報じました。しかし、それ以降も昭和57年度まで7年連続、昭和58年度は2位でしたが、昭和59年は再びワーストに戻ってしまいました。

小金井市の人件費比率がワーストになったのは現業部門の正規職員化と表裏一体でした。全国的にも、多摩地域でも、労働条件、賃金、仕事の範囲など、現業としては比類のない程に突出している現業の直営化は多摩地域には見られないことであり、全国にも例のないことだったと思っています。

その様な間に、我が家にも子どもが生まれ育ち、夏はプールに行くようになると、市内には二枚橋焼却場のプールしかなく、小金井から大勢の人が設備の完備している府中市郷土の森にある市民総合プールにバスを乗り継いで行くのでした。

府中市民プールの料金設定は非常に低料金ですが、市外の人は府中市民の倍の料金になります。そのため、小金井の子どもたちも慣れてくると、府中市民の窓口に並ぶようになることも生じていました。このことは大人にとっては非常に辛いことでした。私が小金井市政に強く関心を持つようになったのは、まさにこれが原点です。

小金井市民は担税力が非常に高いにもかかわらず、公共施設の整備や街づくりが遅れるなど市民サービスが行き届かない根本は何なのかを考えました。そして、地方自治に関心を持ち、市政の改善の方策を考えるため図書館で資料を閲覧したり、議会を傍聴したりしました。

その様な中で、分かったことは、小金井市の労働組合の異常な強さが、現業直営化による職員増を招き、それが、そのまま人件費を押し上げ、財政悪化を生じさせたことにより、市民サービスの低下となりました。「市民のための市役所」とはいえない状況を作ってしまったのです。

これを正すには市議会議員になることだと考え、昭和60年の市議会議員選挙への立候補を決意しました。
(つづく)