市議会議員、そして、市長として②
私が小金井市に転入してきた昭和48年は、革新市政の下で大量職員の採用が行われていました。それは、市にとって取り返しのつかない失政と言わざるを得ません。その結果が昭和50年代の10年間に、小金井市の人件費比率は全国ワースト1位が8回、後は2、3位が各々1回という惨たんたるもので、高比率はその後も長く続くことになりました。
私は、この市政を改革し、財政を健全化したいという思いから市議選への立候補を考えていました。そのための準備として小金井市の財政問題について調べるほど、誰のための市政なのかと怒りを覚えるような市政運営が行われていたのです。
市議選出馬を考えていた、昭和58年1月14日朝刊に、4月の武蔵野市長選挙に土屋正忠市議会議員が立候補すると報じられました。土屋氏とは旧知の間柄であったことから、早速、選挙区ではないが選挙の手伝いをさせていただきたいと申し入れました。
選挙の手伝いはポスター貼り、ビラ配り、車の運転などの単純労務ですが、選挙に直接関われたのは私の貴重な経験となりました。
当時、武蔵野市も革新市政が続いており、現職の藤元正信氏の二期目が強いという評価から自民党は候補者の擁立ができず、ついに土屋氏に白羽の矢が立ったのです。
この選挙戦の終盤、職責に関係なく支給される4千万円の高額退職金が争点になりました。両候補とも退職金の是正を訴えましたが、新人の土屋候補が現職に859票の僅差で勝利しました。
当選した土屋新市長は5月2日初登庁し、日本中が注目する中、4千万円の退職金是正の公約実現に取り組みました。17日には改正案を職員組合に提示し連日の団体交渉が続きました。改正案は大幅な引き下げ案だったことから、自治労都本部は現地闘争本部を市役所内に設け、全国から動員された2千人といわれる自治労組合員が武蔵野市役所を取り囲み、それに抗議する右翼団体の街宣車、いざという場面に備えて待機する機動隊、それを取材する報道陣、上空は取材用のヘリが舞い、庁内では腕を組み列を作ってのジグザグデモが行われ、ついに26日職員組合はストに突入、武蔵野市全体が大混乱に陥りました。
全国民が注視の中、市長自ら徹夜の団交を繰り返し、ついに28日未明に労使合意を果たしました。妥結の内容は、7月1日から約1千万円の減額というものでした。
私は、市長選と同時に当選した自民党の武蔵野市議会議員と大混乱の市政の現状を訴える街宣車で、市内遊説に同行するなど行動を共にさせていただきました。そのため、高額退職金是正に燃えた30日間の「武蔵野ショック」を直接現場で目の当たりで体験できたことは、その後の私の政治活動の大きな糧になりました。
その後も行革を進める土屋市長は地方行革のトップランナーとして、土光臨調、中曽根行革と並び称され、その地方行革が燎原の火となり全国に広まっていきました。
そこで私は、市政は変えられるということを実感したのです。
この経過は、武蔵野市が発行した『武蔵野ショック』に詳細に書かれています。
(つづく)