走り続けた16年(186)

コロナ禍について②

新型コロナウイルスの感染拡大が進む中、信じられないような課題、問題が次々と顕在化しました。

先ず、世界の科学技術の先頭を走っていると思われていた日本の医学が、このコロナワクチンを米、英、中、露の各国が生産に成功しているのに、国内では生産できず、他国と競っての不安定な輸入に頼らなければならないということが信じられません。そのため、諸外国と比べて接種の時期が遅れ、ようやく始まったが接種率が著しく低く、国も自治体も準備期間が十分あったにもかかわらず、混乱が続いているのは残念です。国は、将来を見据えたワクチン生産の対策を早急に進める必要があります。

また、わが国は先進国の中でも病床数が多いとされてたが、コロナの重症患者により重症病床が満床になり、医療崩壊が起こりつつあります。病院が満床で入院が不可能であるにもかかわらず、通院による感染を恐れ病院離れが起こり、経営が困難にあるともいわれています。そのため、感染の危険の中で活躍する看護師のボーナスの減額なども報道されています。家族等の協力で、献身的に医療に従事する医療関係者には感謝の思いと、恵まれた環境の整備が必要だと思います。

このコロナ禍の令和2、3年の入学式や卒業式、入社式も簡素化され、成人式も中止されるなど、節目に当たる若者たちは本当に不運だと思います。念願叶って入学した大学の授業はリモートでキャンパスも使用できず、友人をつくる機会もなく、入学金や授業料だけは通常通りというのは到底納得できるものではありません。

時を経て、この期間を振り返って、氷河期と呼ばれないようにしなければなりません。

このコロナ禍での非常時、諸外国の厳しい私権の制限が報道されてます。しかし、我が国においては法に基づいての人権を優先することから、非常時における私権の制限が、諸外国と比較して徹底できないという問題点も顕在化しました。

コロナ禍により新生児の出生数が減少となり、一層の人口減が進むことになりました。

経済活動の停滞で直接影響を受けるのは社会的弱者といわれる人々です。今こそ、国も都も市にも、「誰ひとり取り残さない政治」が求められます。

このコロナ禍を契機に変革が進み、社会は一変すると思います。

昨年、令和2年10月2日の小金井市議会全員協議会で、令和3年度から令和7年度まで5年間の財政計画が当局から示されました。これは、平成20年9月の投資銀行リーマンブラザーズ倒産に伴うリーマンショック時の影響を参考に、年間約11億円の減で5年間で約55億円減収。さらに、地方消費税交付金の減も年間約1億3千万円、5年間で6億5千万円の減を見込み、合わせて61億5千万円の減収とされています。

この、歳入の減に対し、歳出の扶助費は子育て環境の整備や経済悪化による生活困窮者支援の増により、大幅増額が想定されます。

リーマンショックに直面した私は、一過性であり数年で回復できると信じていました。今回のコロナ禍は先が見えず、5年で元に戻るのは困難と思われ、政策の大幅な見直しが必要になりそうです。

(つづく)

走り続けた16年(185)

コロナ禍について

中国に端を発した新型コロナウイルス、瞬く間に地球全体に蔓延し社会的、経済的危機をもたらしています。世界中の人々が一斉に生命の危機に直面することは、人類史上これまでに経験のないことと思われます。

連日、世界各国から地元の市町村に至るまで、新規感染者との報道が、早朝から深夜まで繰り返し続けられますが、事態はなかなか好転への兆しが見えてきません。

コロナ禍の救世主とも思われるワクチンの接種が各国で行われ、その接種率や効用が報道される中、遅れていた国内接種もようやく始まり、各地で混乱も起こっています。政府は十分なワクチンが確保されているとしていますが、少しでも早くの心理がコロナの脅威を表明しています。

医療機関が充実し衛生意識が高く、環境が整備されている日本にあっても、この混乱です。ましてや発展途上国や、紛争・内戦により迫害を受け、住み慣れた故郷を追われ難民キャンプでの生活は、医療体制の不備、密集した生活で食料や清潔な水の不足する中、感染者が出れば感染拡大は避けられない危険な状況です。現在、難民生活者は8千万人ともいわれています。

新型コロナウイルスによって命の危険にさらされている感染者に対して、生命の危険の中、医療の最前線で崇高な使命感の下、防護服を着ての献身的な活動を続ける医師や看護師をはじめ介護施設などに従事する方々には感謝です。また、私たちが生活するに欠かせない仕事をしてくれているエッセンシャルワーカーの皆さんのご労苦にも感謝です。

コロナ禍により私たちの生活は一変しました。それは、新しい日常とされているソーシャルディスタンスの設定や不要不急の外出を控え、ステイホームの推進。さらに、5月11日までの3回目の緊急事態宣言が東京、大阪、京都、兵庫の4都府県に発令され、再度の休業、時短等の要請になりました。丁度、大型連休に重なることから行楽や帰省などに対しては自粛してほしいと政府は求めています。この大型連休を終えて感染者数が減少して宣言が解除されることを願いましたが、さらに延長されることになりました。

飲食店や中小小売店、観光業等への影響は計り知れず、それに携わる人々の生活環境は厳しいものがあります。環境の激変により社会的弱者といわれる人々が生活に困窮することのないように、今こそ政治の出番です。

小金井市においても「一人も取り残さない市政」が言葉だけでなく、どこにでも目が届くものであってほしいのです。その結果「小金井市に住んでよかった」と言われる市政が実現できるのです。

このコロナ禍により各種行事やボランティア活動が中止され、存続も危惧されます。

国民が待望したオリンピック、パラリンピックの開催が近付いてきました。開催の環境を一日も早く整え、失われた月日を取り返すためにも、世界中の子どもから高齢者まで誰にも夢と希望と感動を東京から発信してほしいものです。

オリパラ競技はステイホームを励行し、映像で楽しむことです。それにより、感染拡大が収束することを強く期待します。

(つづく)

走り続けた16年(174)

新しい年を迎えて②

新たな年、令和3年の新春を迎えた小金井市は、元旦から澄み切った青空と暖かな陽光、霊峰富士を連日仰ぐなど穏やかな天候で1年が始まりました。

しかし、新型コロナウイルスの猛威は世界中に蔓延し、衰えることなく拡大が続いています。世界中、多くの人々が感染の恐怖に晒されています。

国内においても、年末から年始にかけても感染が拡大し、新規感染者数の増加が挨拶代わりになっており、枕言葉は「過去最多」の繰り返しです。心配されるのは医療崩壊です。政府は東京都と埼玉、千葉、神奈川の3県を対象に再度の緊急事態宣言を1月7日に発令しました。今、議論になっている経済の再生か、感染防止かの議論があります。それを両立させることは、現実には困難であり、どちらかを取るとすれば、私は、感染防止策を優先すべきで、それによって被る市民の負担は、少しでも軽減されるよう、国や都、市の施策が必要です。

このような中、市民の生命を守る医療、看護、介護の最前線で活動している方々、そして、私たちの生活に欠かすことのできない日常の業務を果たしているソーシャルワーカーの方々にも敬意と感謝を申し上げます。

コロナ禍を収束させるには、治療薬やワクチンの開発・製造が進むことであり、それが発展途上国等に向けても供給され、世界がひとつになることにより、収束が進むことになります。

コロナ禍が進む中、小金井市議会から市長に対し、中・長期の財政計画を提出するようにと再三の要望で、やっと10月に中期財政計画が提出されました。それによると市の財政は今後5年間で60億円の税収減が想定されるというものです。それは、今後の事業計画に大きく影響することになります。

この大災害をただ単にピンチとだけとらえるのではなく、これを契機に市政の改革を断行するチャンスにする必要があります。ピンチはチャンスととらえることが必要です。

小金井市は、バブル経済の真っ最中の平成4年度に120億円で蛇の目工場跡地を購入し、その蛇の目工場跡地取得の借金80億円の返済が始まるや、バブル経済は崩壊し、大久保市政はその返済に苦慮することになりました。苦しく厳しい返済の始まった平成6年度には全国各市の財政比較の指標である経常収支比率は全国663市の中でワースト1位となり、財政再建団体に陥った北海道夕張市よりも下位の状況に位置してました。さらに、平成7年度には人件費が104億円を越えてしまい、平成9年度には職員の退職金の支払いが不能となり、全国に例のない借金で退職金を支払うという状況で、ついに、蛇の目用地取得の残債50数億円の返済も不能となりました。民間企業なら倒産です。

平成11年4月、最悪の財政状況の中で私は市長に就任しました。

私は、この小金井市政最大のピンチをチャンスと捉え市政の改革に取り組みました。

市民も職員組合も、多くの議員も私の考えを理解し、協力してくれました。このピンチを生かして財政再建が果たせたのです。

今、西岡市政が考えなければならないのは新庁舎・福祉会館建設問題です。このコロナ禍は終戦以降、例のない大惨事です。それが発生以前に立てられた計画をそのまま進めていくことでいいのかが問われます。

(つづく)

走り続けた16年(172)

令和2年の終わりにあたり 

本年も残り僅かになりました。皆さんにとってこの1年、どの様な年だったでしょうか。子どもから高齢者にいたるまで、世界中の全ての人々が新型コロナウイルスの恐怖に晒された1年でした。

この辛い報道は朝から深夜まで続き、新たな感染者の増加などを伝えています。76年前の戦時中、大本営発表のラジオニュースが、こういう状況だったのではと思われます。

コロナ禍が長期化する中、年末にも関わらず感染の危険と隣り合わせで、医療の最前線で奮闘されている医師や看護師など医療関係者の皆さん、また、エッセンシャルワーカーと呼ばれる方々にも感謝の目を向ける必要があります。それは、緊急事態で外出自粛となっても、私たちの生活を支えるため、危険と隣り合わせの中、その使命感で通常通りの仕事に日夜献身的に取り組んでいる方が大勢います。そして、それを支えているご家族の皆さんにも心から感謝したいと思います。

入学や就職など人生の大きな節目にあたってしまった人や、ご自身の将来設計を変更せざるを得ない方もいます。また食糧や水も不足する発展途上国や紛争国、難民キャンプの子どもを含む人々の悲惨な状況にコロナ禍が追い討ちをかけていることに心が痛みます。

私たちがすべきことは、自らが感染しないための感染防止策に努めることに尽きます。

一日も早くワクチンが世界中に普及されることを願うものです。

そのように暗い世相の中、年末になって明るいニュースが飛び込んできました。

日本の小惑星探査機「はやぶさ2」が、地球から3億キロメートルも離れた小惑星リュウグウを6年かけて往復し、リュウグウの石や砂を採取したカプセルを無事地球へ送り届けるという探査ミッションを完璧に達成したことです。宇宙の貴重なお土産を地球に届け休む間もなく再び宇宙への旅にでる「はやぶさ2」。機体が完全なため当初計画にはない新たな探査に旅立ったが、新たな目標の小惑星に到着するのは11年後の2031年とのことです。地球にリュウグウの玉手箱を残して再び次のミッションに向けて去っていくなんて格好よすぎますね。

「初代はやぶさ」が主力エンジンの故障や通信断絶などトラブルが相次ぐ中、満身創痍で2010年、国民注視の中、奇跡の生還を果たしたのが、今回の大成功につながったものと思われます。

私のこの1年は、感染予防対策を十分果たしながら、趣味でも健康維持でもあるウオーキングは毎日欠かさず距離は3千400㌔㍍でした。その甲斐あってか健康寿命を1年伸ばすことができました。

長い間乗ってきた車を1月に手放しました。これは、高齢者の交通事故が多発することから、もらい事故も考えれば自分だけは別だと言い切れないことで決断しました。

また、4月29日発のロシア、樺太へのダイヤモンドプリンセスのクルーズ、7月の中国東北部(旧満州)への父親への慰霊の旅も中止となり、本年の計画のほとんどが翌年送りになりました。

来年はコロナ禍も収まり、オリンピック・パラリンピック開催に期待したいものです。

どうぞよいお年をお迎えください。

(つづく)

走り続けた16年(159)

平和を考える8月

今年も平和を考える8月が来ました。しかし、終戦から75年の時を経て、戦争体験のある方々も少なくなり、その体験を聞くことが次第に難しくなってきました。

夏休みやお盆で帰省し、家族が揃ったところで、戦争の悲惨さ、平和の尊さを話し合い、親戚等で、志半ばで戦争により犠牲になった方々を偲ぶ時でもあり、決して風化させてはなりません。

しかし、今年は異例の8月となりました。それは、かつて人類が経験したことのないような新型コロナウイルスの感染拡大の勢いが衰える様子はなく、世界中で猛威を振るっています。我が国も、前例のないこの感染拡大により、経済、教育、スポーツや芸術・文化等あらゆる分野に影響を与えています。私たち一人ひとりが「新しい日常」の実践が必要になります。

本年はコロナ禍の影響で、例年の平和行事や追悼行事は中止、もしくは縮小されているのは残念ですが、やむを得ないことです。

私も戦争被害者の一人として、市長在任中は市のできる平和事業を考えてきました。

武蔵小金井駅北口のブロンズの平和の塔は昭和37年建立、裸婦像は彫刻家尾形喜代治氏の作で、私が小金井市に越してきて住んだアパートの大家さんでした。また、台座の揮毫はノーベル物理学賞授賞者で平和活動家の湯川秀樹氏のものです。これが北口整備で撤去の話になりました。ブロンズ像は手入れもされず痛みが激しく、台座は途中で切断しなければならず、整備に合わせ新たなものの作成を勧められましたが、残す決断をしました。

さて、北口整備が完了し取り出したブロンズ像は、とても駅前の中心に設置できるものではなく、再び防災倉庫に保存することになりました。この像に手を加えたら尾形氏の作品ではなくなることから悩みました。そこで尾形氏のお孫さんが彫刻家を引き継いだことを思い出し尾形家と話し合い鳥屋尚行氏に補修をお願いしました。都の協力もあり、北口に復活したのです。

昭島市役所庁舎の南側に、6メートルを越すアオギリが植えられています。この木は、昭和20年8月6日、一発の原子爆弾により広島の街は廃墟と化し、14万人もの市民が亡くなりました。爆心地から約1・3キロメートルの地点で、熱戦と爆風で幹の半分が焼け焦げ、枯れ木同然だったのが、翌春、奇跡的に芽を吹き、失意の広島市民に勇気と希望を与え、広島復興の支えとなった被爆アオギリの2世だったのです。

平成21年8月、小金井市は平和市長会議(平成25年に平和首長会議に改称)に加入しました。

小金井市もこのアオギリを「平和のシンボル」にしたいと、事務的に平和首長会議にこのアオギリの提供を要請しました。担当職員には強い思いが伝わるようにお願いし、私は、別に広島市長に直筆の手紙で要請しました。

平成27年2月、平和首長会議から念願の全長30〜40センチメートルの被爆アオギリが送られてきました。

現在、このアオギリは武蔵小金井栄北口の西側信号機の側で、6メートル位に成長しています。ぜひ、市民の皆さんには、この平和のシンボルの成長も見守ってください。

(つづく)