さくら通信

旧満州・中国東北地方は

連日新聞やテレビ等で、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルによるパレスチナ自治区であるガザへの攻撃で、子供達が瓦礫の中から医療体制も十分とは言えない施設に運ばれるのを見て、1日も早い終戦を願わずにはいられません。

私は9月22日から9日間、中国東北地方旧満州を訪ねました。

現在でも多くの日本人が満州に対しては、いろいろな思いを持っています。

それは満州国という傀儡政権を樹立した日本政府は、官僚や軍人、そして経済人や開拓団など民間人が政府の方針に従い、多くの日本人が満州に移住したことで、家族の中や親類等の中に満州で生活していた人がいるからです。

22日空路で着いたハルビンは、日本の初代内閣総理大臣伊藤博文が 安重根に暗殺された地であり、それはハルピン駅の1番線ホームで、その場所は一目でわかるように明示されており、韓国人である 安重根は、中国では抗日運動の英雄とされており記念館もあると聞いています。

中国ではバブル経済時、各地に博物館や美術館等を建設し、その中には日本の支配下にあった時の目を背けたくなるような残虐な写真が展示されています。

また、大きな公園や広場など多くの人の集まる所には石碑が建てられ、過去の日本の犯したことが記されています。

「 殴ったことは忘れても殴られたことは忘れないのが人間である」と言われますが、自虐的でなく長い間にわたる日本の抑圧や搾取という辛い過去にも、私たちは目を向けなければなりません。

 

走り続けた16年(89)

私の戦争体験 満州からの引揚げ④

昭和20年8月9日未明、ソビエト軍が国境を越え、私たちの住む満州牡丹江省綏芬河(スイフンガ)に侵攻して来た。平凡で平和な私の布施家(小5に養子で稲葉姓に)は一瞬にして引き裂かれ、暗黒の荒海に放り出されてしまいました。

母は持てるだけの必要な荷物を準備し、父の勤める満鉄の避難列車で母と私だけが逃げることになりました。

父も母も死を覚悟していた。スイフンガ駅の列車の前で父は抱いていた私を母に渡し、「二人とも日本には帰れないだろうが、あなたは孝彦より先に死ぬことのないように」が父の最後の言葉となった。母は抱いた私を父に向け「またお会いできますよね」と言うと、父は黙ってうなずいた。私たちは列車に乗り、助役を務める父はこの列車の出発を指示するためその場を離れた。そして、行く当てのない列車はスイフンガ駅を離れ、多くの家族が離散することになったのです。

母の手記『追憶(その2)』の「ソビエトの参戦」の項を再度抜き出してみます。

「行く宛てのない列車はスピードもそう早くはなかった。駅々に止まることもなく中央に向かって進むのであろう。(中略)

列車はイイメンパーという駅に止まった。この駅名を漢字でどう書いたかは忘れてしまった。ひと先ず安全な場所と言う処で皆下車する様命令が出た。御飯を炊く人、洗濯する人、皆それぞれ忙しかった。

その時、私の前に一人の男の方が来られ『布施さんの奥さんですね?』と言われた。『ハイそうです』私は言った。『御主人は玉砕されたそうです』其の男の方は教えてくれた。私は驚かなかった。やっぱり来るべきときが来たんだ。ああ彼は玉砕したのか。心の中で再び言いかえした。私は爆撃を受けた瞬間から別れる時までのあの慌ただしかった数時間を思い起こさずには居られなかった。

其の男の方は続けて『後藤さんの家族は全員薬を飲んで亡くなられたそうです』と付け加えた。後藤さん家族は私たちがお世話になった家族でした。この様にして良い情報は何もなかった。私は孝彦を暫く無言の儘見詰め強く生きよう。彼の残された最後の言葉を私は再び思いおこす。この子と共に生きて行ける所まで生きる事に努力しなければと自分自身に言い聞かせた。

私達を乗せた列車は再び四日目、五日目と何処へ行くあてもなく走り続けるのだった。」

母は奉天(現・瀋陽)に行くため途中でこの列車を降り、いつ来るか分からない列車を待った。そして、玉音放送のあった翌日の夜中に奉天に着くことができました。

その後、約1年の奉天での難民生活、そして葫蘆島(コロトウ)から引揚船により、船内に伝染病のため2か月かかって下関港か仙崎港に上陸し、日本に辿り着きました。

「私の戦争体験」はこの辺で終わります。また、機会がありましたら母の手記を含めて戦争の悲惨さを伝えていきたいと思います。

現在、母は96歳、私は73歳、ともに元気で天国の父は驚いていることでしょう。

(つづく)