走り続けた16年(274)

職員の退職金が払えない

200人の職員削減を公約に平成7年4月大久保慎七市長が3期目の当選を果しました。

昭和62年4月からの2期8年間はバブル経済の波に乗り、遅れていた公共施設の建設に取組み、緑児童館、土水会館、東センター、総合体育館、三楽集会場、緑センター等の開館や清里山荘の改築、浴恩館公園の整備、そして44年から続いていた公共下水道工事の竣工と長い間の市民要望に応えたもので、本市にとって最も発展した華やかな時代でした。

しかし、その間も財政危機は続いており大久保市政の12年間、市財政の指標である人件費比率は庁舎建設用地として蛇の目工場跡地を取得したため予算規模が膨らんだ平成4年度を除いては常に30%台であり多摩全市の平均を常に10%以上も高い状況が続いていた。

大久保市長就任前の15年間での9年は人件費比率は40%台であり全国ワースト1位を繰り返していた。公共施設は増やしたが職員を増員しないで踏み止どまっていたが、この12年間に要した小金井市の人件費の総額は約1千117億円であり、これを多摩全市平均の人件費比率で収めれば約124億5千万円が節減されることになり、都や国の補助事業であれば400〜500億円の事業が可能だったのです。

職員の増員は押さえたが74億円でスタートした人件費は革新市政時代に採用された大量職員の年齢が上がるにつけ、80億円90億円と吊り上がり、ついに、平成6年度の人件費は100億円超となり、それが7、8年度と続き、財政の弾力性を示す経常収支比率は全国664市の中でワースト1位になってしまった。

平成6年頃から大久保市長は度々「早晩職員の退職金が払えなくなる時が来る」と発言していた。6年度に(財)日本都市センターに委託した「行政診断調査報告書」でもそれが指摘されていた。

その時が到来した。平成9年は市議会議員選挙の関係で2月に開会した定例会の9年度一般会計予算に退職手当債(借金)9億5千万円が計上された。

市民の声は職員に厳しく、退職する職員の退職金がなければ払わなければいいとか、これまでの市民に奉仕してきた職員の退職金を将来の市民に返済させるのはおかしい、等多くの意見が出ました。市議会では何かの事業を削って、とか、別の目的を持つ基金を取り崩して、とか、市有地を売却して等、色々な意見が出されたが私たちは借金もやむを得ないと判断し予算は可決された。予算は可決されてもそれを執行するには国や都の起債許可が必要になります。市独自の判断だけでは借金はできません。

この直後に行われた市議選は退職手当債に対する批判もあって与党自民党には厳しい審判になったが私は4選を果しました。私はこのピンチをチャンスに変えようと考えていました。

本来、税収に恵まれて地方交付税の不交付団体でもある本市が退職手当債に頼るのは問題であり、国も都も大きな改革を許可条件にしたのです。

それは、職員削減、適正な市民負担、そして、「37協定」に伴って続いていた給与制度の改正でした。

いよいよ35年間小金井市を蝕んできた病根の摘出です。同一年齢同一給の年齢給を法に基づく職務・職階による職務給への改革の時が来たのです。

(つづく)

走り続けた16年(17)

財政健全化への闘い⑨

昭和60年4月5日、私の選挙後の市議会議員としての任期がスタートしました。

当選した議員の選挙公約は、職員削減による行政改革で人件費問題を改善し、財政を健全化することが全体の主張であり、それが議会共通の認識でした。

行革には批判的な共産党の候補者ですら、中身は分かりませんが「『行財政改善委員会の設置』で無駄のない市政」等を公約とする程でした。党派を超えて職員削減が最大の課題だったのです。

市議選の約2カ月後の市長選挙では、二期目を目指す保立旻市長の選挙公約も、第一は「行財政改革をさらに推進します」とし、具体的には「民間活力の導入による職員数の削減」を掲げました。

結果、次点の候補にダブルスコアで再選を果たした保立市長の二期目が、5月31日から始まりました。

前任期中に定年制を導入したことから多くの退職者が出たこともあり、職員組合はその欠員補充を激しく求めてきました。交渉は、成立した予算の定数に余裕のある5人の職員を採用するか否かでしたが、保立市政を支持する議員、そして市長本人も直前の選挙公約は職員の削減でした。

連日、長時間の、常軌を逸した激しい交渉は、市長、助役をはじめ担当者にとっては、精神的にも肉体的にも苦痛を伴い、自尊心をも傷つけられるものでした。

その結果、ついに6月12日労使による覚書きが締結され、5人の現業職員の採用が決まりました。

当欄6月1日付の⒀号に記したように、保立市長が職員組合と市議会との軋轢(あつれき)、そして、選挙公約との関係から辞職を考えたのはこのタイミングだったのです。二期目が始まって、まだ2週間の時点にです。

大久保慎七助役がその責任を取る形で10月に辞職し、後任の助役に東京都の職員である市川正氏の選任同意議案が12月議会に提案され議員の質問に保立市長は「大久保助役は6月頃から辞任の意思を示されており慰留は無理だった」と答弁しました。市長選挙に勝利して間もない時点で市長も助役も辞めることを考えていたのです。

革新市政の昭和48年4月、警備職場が1施設3人制となり、その体制は、1日働いたら2日の休みを繰り返すという勤務体系となりました。

昭和52年4月、職員定数の一部改正が議会で可決されてしまいました。それに伴って、その警備員は臨時職員の個人委託等から小金井市の正規職員になったのです。

「月に10日の勤務」とか「775万円(年収)の警備員も」等当時のマスコミで多く報じられるなど、この警備員問題は市政の大きな課題となりました。

昭和62年9月議会で①市民の納得を得られる学校施設管理を②施設管理係の事務室を一カ所に、という決議が議決されましたが、当局の対応が遅々として進まず、賛成の私は独自の行動に出ました。

果たして、虎(?)の尾を踏むことになるのか、です。
(つづく)

走り続けた16年(5)

小金井市長選挙⑤

平成6年2月、閉会中の総務委員会で「小金井市の事務事業見直しに関する緊急対策決議を求める陳情書」が審査されました。この日の委員会は、小金井市政の将来にとって大きな転換となる非常に重要な委員会になりました。私は、行革に関して共通の認識を持つ小川和彦委員とともにその考え方を示し、大久保慎七市長の考えを質(ただ)しました。

質疑の中で、私は、今後15年間に約500人の職員が退職するが、補充を抑制し200人以上の職員を削減すべきとの持論を展開しました。

大久保市長は、今後10年を見ても職員の退職金を支払う自信がないとし、現業職には直接雇用(直営主義)はとらないと明言しました。また、長い経験から、やるべきことは分かっているし、庁内では行財政再建推進本部で検討しているので、行政診断の外部委託はしないと頑なに拒否してきましたが、私の、自分の身は自分では切れない、痛みを伴う行革の提案は仲間内ではできないとの主張に、この日は一転して「経営診断の実施や、事務事業の見直しを委託することも考えなければならない」との答弁を引き出しました。

外部の専門的第三者機関に委託して市の行政診断することを認めたのです。また、背水の陣で退路を断って…との覚悟を示す発言も付されました。私は喝采をあげる思いでした。市が行革へ大きく舵を切ったその日を20年以上経った今でも思い出します。

すでに予算編成は終えていましたが、市長の答弁をもとに企画調整費の委託料を要望し、予算案に721万円をねじ込みました。予算委員会等で反対の質疑もありましたが予算を可決成立させることができました。行政診断は(財)日本都市センターに618万円で委託されました。

1年後の平成7年2月に完成した小金井市を象徴する緑色の表紙の「小金井市行政診断調査報告書」は小金井市の将来への羅針盤といえるもので、市政に対する厳格な経営診断は私の期待に十分応えられるものでした。私は、この緑の表紙の冊子を「小金井市の行革のバイブル」と呼んでいます。

内容は、市が財政危機に陥った原因や、今後の課題及び改善の方策を専門的立場から明らかにしています。結論として市の規模から200人の職員が多いというもので、この200人の職員削減がその後の小金井市の大きな目標となりました。

そして4月は、大久保市長3期目の選挙です。選挙対策委員会事務局長の私は、市長と市政全般についての話し合いの中で選挙公約をまとめるのも役割です。

当時、選挙公報は500字の字数制限もあり、公約の整理をファクシミリの交換で調整するのですが、その度ごとに「200人職員削減」の文言が消えていました。最後は大久保市長の自宅に乗り込み、市民に公約し認知を得て審判を仰ぐ。そして、その民意を後ろ盾に選挙公約を実現させるということにご理解をいただきました。

大久保市長は200人の職員削減を旗印に3選を果たし、平成7年から平成14年までの間に197人の職員削減を基本とした「小金井市行財政改革大綱」を混乱の中で策定し、それに取り組みました。
(つづく)