走り続けた16年(12)

財政健全化への闘い④

小金井市の財政問題は、昭和50年前後の革新市政に起因します。いわゆる人件費問題です。

昭和46年、小金井市の人口が9万2千人で職員が662人だったのが、8年間続いた革新市政の終えた昭和53年は、人口は9万9千人と7千人、約7%の増加に対し、なんと職員は約1・7倍の1130人まで増えてしまったのです。

当時、東京都は美濃部革新都政であり、JR中央線沿線は革新市政が多いことから、革新ベルトラインといわれた時代でもありました。それにも拘らず、小金井だけが特に深い傷を負い、長い間、その後遺症に悩まされることになったのです。その原因は、三鷹市、国立市と本市の3市で設立した多摩清掃公社に委託していた、ごみ、し尿処理業務を、昭和48年4月の直営化により100名を小金井市の正規職員としたことや、学校警備等の施設管理職員などを正規職員とした直営主義による人員増の問題だったからです。

その結果、昭和52年の総職員1111名中、現業職員は670人となり、前号5月11日号の当欄でお示ししたように、昭和50年代の10年間の人件費比率は、全国ワースト1位が8回、2、3位が各々1回となったのです。

特に、昭和51年度には45.2%と信じられないような数字になってしまったのです。保守市政になった昭和57年6月の市議会では、人件費比率を35%以下に抑える決議を全会一致で議決するに至る程でした。

行政に対しては、市民からの予算要望や人員要望は限りなくあります。議会に請願、陳情も出されます。もちろん議員からの要望もあります。これらは、どれも切実な要望であり、どれも叶えたいと思うのは当然ですし、担当部局もそれを望みます。しかし、限られた財源である予算は、市政全体を見据えて措置していく必要があり、例え、5万、10万の予算であっても、削減したり、また、事業の縮小や延伸しなければならない場面もあります。また、望んだ予算が計上されれば、喜ぶ市民の顔も目に浮かびます。それが、市政の評価になるのかも知れません。

しかしそれは自分の金でなく市民の血税であることの認識で、迎合せず常に厳しい対応をしてまいりました。

政治に対する評価はその時々も必要ですが、20年、30年後の歴史の評価に耐えられなければなりません。私が昭和50年前後の市政を厳しく批判するのは、再びあの様な市政を繰り返してはならないという強い思いがあるからです。

当時の市政執行者である市長の責任は重いものがあります。しかし、それを認めてきた議会も厳しく問われなければなりません。そして、最終的にはその市政を望み、選んだ市民の責任でもあります。それが、後々の大きなツケとなって返ってくるのです。

小金井市は画餅に帰すような政策により、長い間、苦しみ不利益を被ってきた経過があります。市民の皆さんには、それを、忘れず覚えていてほしいのです。
(つづく)