走り続けた16年(254)

革新市政の過ち

昭和46年4月25日、全国統一地方選挙が各地で行われました。小金井市の市長選挙は保守系無所属の現職、関綾二郎市長に社共統一候補の永利友喜前市議の保革一騎打ちとなりました。その前段に行われていた都知事選挙は美濃部都知事が、小金井市においても相手候補の倍以上を得票する大勝で再選を果たしていました。その余勢を駆って革新候補の永利候補が勝利し、小金井市三代目市長に就任しました。また、同時に行われた市議会議員選挙でも保守系の当選が12名と、はじめて過半数割れとなり、社会党6名、共産党5名、公明党2名、社民党1名と革新系候補が躍進し、与野党は別として市長も議会も保革逆転の形になりました。

この結果、市政は激しく揺れ動き、大きな変化を来すことになりました。この統一地方選挙は革新のブームとなり、中央線沿線市においても、革新市長が多く誕生しました。

この選挙には、実力行使で数々の要求を強引に押し通してきた市職員組合も重大な関心を示していただけに、その結果に満足したのは言うまでもありません。また、選挙結果に示されたように、都市化による人口急増で市民意識にも大きな変化が生じてきました。

私は、この革新市政の8年間は取り返しのつかない失政を侵したと思っています。しかし、政策判断は市長の決定ですが、その決定には議会の同意が必要であり議会の責任も重いと言わざるを得ません。市長も議員も民主的手続きによる選挙で選ばれたものであり、最後のツケが市民に回ってくるということもやむを得ないことになるのでしょう。

革新行政は直営主義で、市の業務は市の正規職員で行うことを基本としています。そのため、ごみやし尿を収集する多摩清掃公社、学校等警備員、学童交通指導員(緑のおばさん)、庁内清掃、電話交換、ボイラーマンと次々に直営化し、関市長の最後の昭和45年は人口9万2千337人で、職員は662人だったのが永利市長最後の53年は人口9万9千22人と約7%増に対し、職員は1千130人と約1・7倍に膨れ上がりました。これにより、一般会計に占める人件費比率は昭和50年代の10年間で全国600を越える市の中でワーストを8回、2位3位を各1回記録することになるのです。

この間の損失は計り知れない金額になります。そのため、近隣市と比較するまでもなく都市基盤整備の遅れや文化施設、スポーツ施設、教育施設など公共施設の不足はここに起因します。

人件費問題の解決は一朝一夕に片付くものではありません。そのため、一時の過ちが取り返しの付かない大きな損失となります。

一例を挙げれば警備員問題です。

学校警備は古くは若手の教員が宿日直でしていたものを、日教組の運動で自治体の業務となり、臨時の職員や警備会社に委託して行っていました。

小金井市では48年10月、1施設3名の準職員の体制としましたが52年4月1日、市議会で職員の定数条例の可決を経て警備員96名が正職化されました。

学校警備のシフトは1日働いて2日休みとなり、勤務時間は夕方に出勤し、深夜から早朝までは仮眠時間、翌朝、教頭等に引き継いで勤務終了です、これに、一人分の給与が支給されていたのです。

(つづく)

走り続けた16年(36)

苦闘する庁舎問題⑦

小金井市最大の課題である人件費問題は、革新市政による大量職員の採用が原因で、昭和51年度の人件費比率45・2%を最高に、常に40%から30%台と35年以上の長い間、異常な状況が続きました。

私が市長に就任する前の平成10年度決算でも32・3%と、30%台が続いていました。

その後、私の選挙公約である行財政改革も欠員の補充の抑制や給与制度の改正などにより、徐々に進み、就任して12年を経た平成22年度の人件費比率は、悲願であった20%をわずかに切る19・9%となり、決算統計を記録するようになった昭和43年度以降、初めて10%台を記録しました。これは、職員の努力の賜物であるとともに、議会の理解や市民の協力の結果であり、行革の進捗の証明でした。この成果を職員とともに喜びを分かち合いました。

これにより、財政にも若干の余裕も出てきました。また、それ以降は常に10%台をキープしました。因みに市長、16年の最後になる平成27年度決算は15・3%と就任時の半分以下になりました。

平成23年度は蛇の目工場跡地購入の借入金の80億円を完済したことや、総務省が庁舎建設の起債(借金)の限度率を50%から75%へ緩和したことなどから新庁舎建設が具体化に視野に入ってきました。

これらのことから庁内に、新庁舎を建設するための検討委員会を設置し、職員により新庁舎建設基本構想(素案)を策定し、この素案をたたき台として、市民参加による新庁舎建設基本構想策定市民検討委員会を設置し、建設場所を含めた基本構想の策定を諮問しました。

平成23年3月、市民検討委員会は、市民1万人アンケート調査や、市民フォーラム等の意見を参考に、17回の審議を重ねるなど精力的に協議・検討を重ねた結果、新庁舎の建設場所を「蛇の目工場跡地」とする等の基本構想案の答申をいただきました。私は、その答申を尊重し、新庁舎の建設場所を「蛇の目工場跡地」とすることを行政決定しました。

平成23年3月11日、未曾有の大災害となった東日本大震災の大混乱がまだ治まらない4月の市長選挙で私が落選し、佐藤和雄市長が誕生しました。

佐藤市長の選挙公約は、ごみ処理経費や市民交流センター(宮地楽器ホール)の取得、そして、第二庁舎の賃貸借は無駄遣いと批判し、当選しました。

就任した佐藤新市長は5月18日、突然、臨時記者会見を開き、新庁舎を蛇の目工場跡地に平成27年中に建設し、その移転目標の平成28年1月1日から業務を開始するというものでした。

これは、佐藤市長が市長選挙で、第二庁舎の賃貸借は無駄遣いであり、早急に解消すべきであるという公約から、一方的に行政内部での協議・検討も一切せず、内容も不十分のまま、で実現の可能性のない計画の、寝耳に水の発表となり、議会は紛糾し市政は大混乱となりました。結局、この提案は撤回されることになりました。

(つづく)

走り続けた16年(17)

財政健全化への闘い⑨

昭和60年4月5日、私の選挙後の市議会議員としての任期がスタートしました。

当選した議員の選挙公約は、職員削減による行政改革で人件費問題を改善し、財政を健全化することが全体の主張であり、それが議会共通の認識でした。

行革には批判的な共産党の候補者ですら、中身は分かりませんが「『行財政改善委員会の設置』で無駄のない市政」等を公約とする程でした。党派を超えて職員削減が最大の課題だったのです。

市議選の約2カ月後の市長選挙では、二期目を目指す保立旻市長の選挙公約も、第一は「行財政改革をさらに推進します」とし、具体的には「民間活力の導入による職員数の削減」を掲げました。

結果、次点の候補にダブルスコアで再選を果たした保立市長の二期目が、5月31日から始まりました。

前任期中に定年制を導入したことから多くの退職者が出たこともあり、職員組合はその欠員補充を激しく求めてきました。交渉は、成立した予算の定数に余裕のある5人の職員を採用するか否かでしたが、保立市政を支持する議員、そして市長本人も直前の選挙公約は職員の削減でした。

連日、長時間の、常軌を逸した激しい交渉は、市長、助役をはじめ担当者にとっては、精神的にも肉体的にも苦痛を伴い、自尊心をも傷つけられるものでした。

その結果、ついに6月12日労使による覚書きが締結され、5人の現業職員の採用が決まりました。

当欄6月1日付の⒀号に記したように、保立市長が職員組合と市議会との軋轢(あつれき)、そして、選挙公約との関係から辞職を考えたのはこのタイミングだったのです。二期目が始まって、まだ2週間の時点にです。

大久保慎七助役がその責任を取る形で10月に辞職し、後任の助役に東京都の職員である市川正氏の選任同意議案が12月議会に提案され議員の質問に保立市長は「大久保助役は6月頃から辞任の意思を示されており慰留は無理だった」と答弁しました。市長選挙に勝利して間もない時点で市長も助役も辞めることを考えていたのです。

革新市政の昭和48年4月、警備職場が1施設3人制となり、その体制は、1日働いたら2日の休みを繰り返すという勤務体系となりました。

昭和52年4月、職員定数の一部改正が議会で可決されてしまいました。それに伴って、その警備員は臨時職員の個人委託等から小金井市の正規職員になったのです。

「月に10日の勤務」とか「775万円(年収)の警備員も」等当時のマスコミで多く報じられるなど、この警備員問題は市政の大きな課題となりました。

昭和62年9月議会で①市民の納得を得られる学校施設管理を②施設管理係の事務室を一カ所に、という決議が議決されましたが、当局の対応が遅々として進まず、賛成の私は独自の行動に出ました。

果たして、虎(?)の尾を踏むことになるのか、です。
(つづく)