プロフィール

稲葉 孝彦(いなばたかひこ)

■昭和19年11月26日 旧満州牡丹江省穆稜(ムーリン)に生まれる。
■38年 銚子市立銚子高校卒業。
■42年 日本大学法学部法律学科卒業、商事会社等勤務。
■48年 小金井市に転入 会社経営。
■60年 小金井市議会議員選挙に初当選、市議会議員4期14年、予算、決算、総務、議会運営委員長等歴任。
■平成11年 小金井市長選挙初当選。
■平成15年 小金井市長選挙2期目当選。
■平成16年 再開発に関する民意を問うため、市長職を途中で辞し、3回目立候補。当選。
■平成19年4月 小金井市長選挙4回目の当選、3期目へ。

◎東京都市長会監事
◎東京都市区長会理事
◎東京都市町村職員共済組合理事長
◎関東都県市町村職員共済組合理事長会監事
◎昭和病院理事会会長
◎日本赤十字社東京支部小金井地区長
◎三鷹・立川間立体化複々線促進協議会副会長
◎東京都土地区画整理事業推進連盟会計監事
◎(財)東京都公園協会評議員
◎(財)東京市長村自治調査会評議員会議長 等を歴任。

私の生い立ち

私は、昭和19年(1944年)11月26日、旧満州(中国・東北地方)牡丹江省穆稜(ムーリン)で布施孝彦として生まれました。父は南満州鉄道株式会社(満鉄)の社員でした。助役の資格を得たことから、勤務地がソ連(ロシア)との国境の街である綏芬河(スイフンガ)に移りました。昭和20年8月9日、ソ連がこの戦争に参戦したことから、母と私は父を残して特別列車で逃げました。父の最後の言葉は「この子は生まれてこないほうがよかった。どうせあなたたちも日本までは帰れないだろう。この子より先に死なないように」だったそうです。父28歳、母24歳、私は9か月でした。

10年前の夏、母と妻と長女と私の家族4人(次女は青年海外協力隊でガーナに赴任中)で穆稜と綏芬河を訪ねました。穆稜は中国の典型的な田舎町で、私の生まれた満鉄のレンガ建ての官舎は、その時でも、周辺の建物の中では目立つ位で、中国の人が住んでいました。

綏芬河は一転、素晴らしい景色の中にヨーロッパ文化を取り入れたリゾート地で、とても中国のイメージとは異なる美しい街でした。私たちの住んでいた建物は取り壊され、マンションに立て替え中でした。

父の職場でもあり、最後の別れとなった綏芬河駅はロシアとの国境の大きなターミナル駅で、引き込み線には木材を積んだ貨車が多く見られました。そのプラットフォームに立った時、56年前、迫ってくる砲弾の音を背に、死を覚悟し、妻子を見送るその時の父の気持を考えると涙が止まりませんでした。

昭和21年8月、終戦から1年かけて栄養失調ではあったようですが、無事日本に帰ってきました。

私の脳裏になる最も古い記憶は、間口1間、奥行1間半の物置での生活でした。千葉県銚子の母の実家の近くでした。母の実家は手広く商売をし、たいへん繁盛していましたが、私は母の洋裁や編み物の内職で生活していたので、今考えても極貧の生活でした。

数年前、小金井公園のラジオ体操会場で、「稲葉さん、私、あなたの小さい頃の事を知っているのよ」と、話しかけられました。私は「いつ頃のことですか」とお聞きすると、正にその時の、タダで借りていた物置の時代でした。「この頃のことを話されるのは嫌ですか」と言われるので「嫌ではありません、もっと詳しく知りたい位です」と申し上げました。その方は貫井北町3丁目にお住まいで、私より少し年上ですが、私の過去を鮮明に記憶されていることには驚きました。最近お会いしていないので私の記憶を補強しておかなければならないと考えています。

この物置は、私が大学2年の夏休み、母の実家でアルバイトをしている時、家主さんが「孝ちゃん、物置を壊すので見ておいたら」と、声を掛けてくれました。細い路地に面していたので時々は目にしていたのですが、あまりの小ささと貧弱なのに改めて驚きました。物置は数時間で解体されました。

小学校に入学する前、母は私を連れて再婚しました。母と私の戸籍は父の実家の八日市場市(現・匝瑳市)にあったのですが、私の戸籍を抜くことに父の実家は同意しませんでした。そのため、稲葉家5人と私、布施孝彦が一緒に住む形になりました。

学校では先生が気を使って稲葉と呼びますが、公式の文書などを貰うときは布施となります。そのため、いつもからかいの対象でした。田舎のことですので、時には、父が引き揚げてくるという噂が立つこともありました。帰ってきて欲しいと強く願いつつ、そうなったらどうなるのだろうか。弟も生まれているし、と、子ども心にも考えていました。貧しい時代でもあり、家の中は複雑でしたので、現在、子育てで社会問題化されることの多くは体験したと思っています。満州からの着の身着のまま、命懸けで私を連れて引き揚げてきたわけで、母の愛情は十分に感じていましたが、私に厳しく当たることで家の中が上手くいくことを子ども心にも分っていましたが、人目に付かない所で、声を殺して泣くこともしばしばでした。母は辛かったと思います。

小学5年の時、学校の先生の勧めもあり、母は父の実家の同意を得ずに、強引に養子とし私の姓を変更しました。後々、問題もあったようですが、私には布施より稲葉の方が多く使われていたので特に抵抗感はありませんでした。

中学時代は学校が荒れていたこともあり、楽しい思い出はあまりありません。育ての父が事業に成功し、貧乏からは脱しましたが、私の環境に変わりはなく、小学校、中学校時代は今思い出しても楽しいことは少なく、辛いことの連続でした。

高校時代は、自分にとって最も楽しかった時期だったと思います。自由な校風の学校で、尊敬する先生方、多くの友人にも恵まれました。

大学はワンダーフォーゲル部に属し、山登りと旅行に熱中しました。学校に行くより山登りや旅行をすることの方が多く、ほとんど勉強しない日々でした。特に3年生の時は、大阪商船の貸客船の船底に乗せてもらって太平洋を渡り、1年間アメリカで仕事をしながらの無銭旅行をしていました。帰ることがなかなか決断できないほど楽しかったです。

勉強をしたのは4年の1年間でした。卒業のための勉強であり、単位を取るだけが目的でした。早く社会人として自立したいと思っていただけに、卒業が決まった時、「やったー」と大声を出して喜んだのを覚えています。  大学4年から田無市(現・西東京市)に住んでいたこと、それが小金井市民になるきっかけになりました。

以上が、社会人になるまでの私の履歴です。

瀬戸内しまなみ海道を完歩

第11回瀬戸内しまなみ海道スリーデーマーチが9月30日〜10月2日にかけて行われました。これは、愛媛県今治市から、しまなみ海道を広島県尾道まで歩くもので、小金井市での東京国際スリーデーマーチ等で知り合い、瀬戸内しまなみ海道スリーデーマーチが日本マーチングリーグに加入に際し、お手伝いしたことから今治市の職員等のお誘いや、かねて挑戦したいと考えていたこともあり今回実現しました。

1日目は、今治城吹揚公園から伯方SCパークまでの30Km。出発式は晴れましたがその後は、降ったり止んだりで午後は大雨になりました。

2日目は、伯方SCパークから瀬戸田市民会館までの20Km。天気は晴れ。

3日目は、瀬戸田市民会館からゴールの尾道駅前広場までの30Km。天気は曇り。

瀬戸内しまなみ海道スリーデーマーチで、瀬戸内海の美しさと、ウオーキングの素晴らしさを堪能しました。

丁度、ゴールになった尾道市では、尾道市出身で小金井市民の漫画家かわぐちかいじさんの「かわぐちかいじ展」が10月1日から尾道市立美術館で盛大に開催されており、また、おのみち歴史博物館では、[特別展]尾道人物伝「かわぐちかいじの心」が併せて開催されており、美術館も博物館も大勢の若者でにぎわっていました。また、市内はかわぐちさんの作品のポスターや横断幕などで、尾道はかわぐちかいじ一色でした。

1日 1万歩

公務等で時間に余裕のない時は計画的に物事が進むのですが、今のように時間に余裕ができるとなかなか思う通りに進まないものです。

その中で、特にこだわっているのは1日1万歩です。市長の時は自宅と市役所の往復で4,500歩、後は市役所の中でどのぐらい歩くか、市内は時間さえあれば貫井センターや東センターへも歩いたものです。夜、自宅近くで歩数計をみて9,000歩台の時は、近所を一週して帳尻を合わせました。家族からは、「不審者と間違えられますよ」といわれてもめげずに頑張りました。手帳には、その年の1月1日からの1日1日の歩数を記録しています。

最近は歩かなければならないことがないので意識して歩くようにしています。特に6月8日から7月11日まで34日間連続して1万歩を超えており、それを途切れさせないためにもまた歩くという毎日です。歩くコースは市内全域です。気が向いたときは、武蔵境駅や国分寺駅で電車を下り、歩いて帰ることもあります。

健康のためには歩くのがいいですね。自分の体力に合った距離や速さで無理をしないことです。歩くと、多くの人と出会えることや、季節の移り変わりや町の変化、そして、新しい発見にも出会い、小金井市の素晴らしさを再発見することができます。