走り続けた16年(180)

「或る障がい者の死」⑤

平成28年11月28日午後3時、八王子市館町の八王子療護園の会議室に、重度の障がいのある山ヵ絵里さんが、自らの遺言の公正証書作成のため、関係する人が集まりました。

それは、元検事の公証人、二人の医師、社会福祉士の後見人、弁護士の後見監督人と証人が二人、そして、絵里さんをサポートしている施設の支援者等十数人が待機する部屋に車椅子に乗った絵里さんが入室しました。表情は分からなかったが、最高に緊張してるものと思われました。

公正証書作成は、最初に公証人から本人確認がされ、証人である絵里さんが十年間通所していた小金井市障害者福祉センターの吉岡博之所長と私が、山ヵ絵里さんに相違ないと証言。そして、二人の医師が絵里さんに判断能力があるか否かの診断で、「遺言者が遺言をするに、障害により事理を弁識する能力を欠く状態にないことを認める」との診断で、公正証書の作成に入りました。

公証人から絵里さんに亡くなった後、残った財産を寄付することでいいかとの趣旨を分かりやすく説明し、絵里さんがこれを了解しました。そして、公証人は具体的に「どこに寄付します」との問いに、A3判のボードに書かれた五十音図で「こかねい」と指差し、公証人の「小金井市でいいですか」を肯定しました。次に、遺言の執行を誰に進めてもらいますか、との問いに「いなは」そして「よしおか」とボードの文字を指差し、公正証書に表記される内容が確認されました。

その結果、遺言公正証書は「本公証人は、遺言者山ヵ絵里の嘱託証人吉岡博之の立会いの下に、遺言者は口がきけないため、ボードで文字を指し示した趣旨を筆記してこの証書 第1条 遺言者の全財産を小金井市に包括して遺贈する。

第2条 遺言執行者は稲葉孝彦、吉岡博之の両名を指定する。
となりました。

本旨外要件として、公正証書の内容を読み聞かせ、かつ、閲覧させたところ、各自その記載に誤りがないことを承認し、署名する。とし、山ヵ、稲葉、吉岡とあり、遺言者の山ヵは病気のため署名できないので、本公証人が代書した。というものです。

本来、遺言執行者は一名で済むものですが私は絵里さんより16歳も年上であり、遺言の執行者には相応しくないとの思いから、若い吉岡さんにもお願いし、単独でも執行できる、としたものです。

また、遺言者が本遺言をするに、障害により事理を弁識する能力を欠く状況になかったと認め、二人の医師の署名となりました。

末尾に「この正本は、遺言者の請求で同日、前同所において原本に基づき作成した」とあり、最後に公証人の所属と署名があります。

この遺言公正証書の作成は困難の連続でした。しかし、市長を退任し、時間的に余裕があったことから、なんとか、目的を達成することができました。

その後も、絵里さんは病気を抱えながらも特に変わること無く、私たちとの交流は令和に入っても続きましたが、令和2年7月、小金井に帰りたいとの彼女の希望で、桜町病院ホスピスに入院し、令和2年8月、息を引き取りました。享年61歳でした。

(つづく)

走り続けた16年(179)

「或る障がい者の死」④

重度の障がいある山ヵ絵里さんは、母の亡くなった平成7年、36歳から小金井市障害者福祉センターへ通所しました。身体の1種1級の障がいは体幹の機能障害で座ることもできず、室内の移動は四つ這いで、知的は1種2度で、書くことも話すこともできず、文字盤を指で押して音声を発信するトーキングエイドで多少の意思疎通はありましたが、次第にそれも困難になり、父の病いもあり平成16年、45歳で八王子療護園に入所しました。

平成22年50歳でがんに侵され、その後、転移も確認され手術で対応しましたが、再発となり体力的なことを考慮して外科的治療はしないことにしました。

その後も日常的な変化はなく元気であり、心配した食欲の減退もありませんでした。

私が市長を退任した平成28年に入ってから絵里さんの判断能力の減退が次第に進んでいることを知らされました。彼女には身寄りがなく、その財産を相続する人もいないため、もしもの時には全て国庫に帰属することになります。国庫への帰属には、絵里さんの周辺の誰もがそれを望みませんでした。

絵里さんが多くの友と楽しく過ごした小金井市障害者福祉センターの10年間、父恭一さんの遺書に、市の障害者福祉事業に感謝の思いを記されていたことを念頭に公式証書の作成作業を早急に進める必要が生じたのです。

絵里さんは話すことも書くこともできず、ボードで文字を示す意思表示のため、公正証書作成には繁雑な手続きが必要でした。

絵里さんの公正証書作成に当たり、移動が困難なため、公証役場ではなく八王子療護園となり、公証人の作成手数料の他、役場外執行費用、交通費等が必要であり、重度の知的障がいから複数の医師の立ち会いも必要とされ後見人、後見監督人、さらに、本人を確認する複数の証人も必要で、この人たちの報酬、交通費等の諸費用の捻出が課題でした。

市に諸費用の負担が可能かを検討したが、自治体の公費負担は困難と判断しました。

遺言作成に関わる個人には報酬が支払われることから、根底は善意であっても、それを負担することが還流と見られるのは潔よしとせず、また、正当性を求めるところから、手続きは繁雑だが通例に従い絵里さん本人の財産から支出せざるを得ないと判断しました。

父恭一さんの遺志を継ぎ、絵里さんの財産についても、障害者福祉事業に活用する旨の遺言作成にかかる諸費用を、絵里さんの財産から支出することの許可が家庭裁判所から出されたことから、諸手続きを具体的に進める事になりました。

まず、公証人の選任ですが、なぜか公証人がなかなか決まらず、法務省の関係者に協力を依頼し、元検事の公証人が決定しました。次は、現職の医師2名も決め、後は、社会福祉士の後見人と弁護士の後見監督人、証人2名は絵里さんが最も信頼する障害者センターの前所長吉岡博之さんと私が務めました。

日程調整に手間取りましたが、平成28年11月28日15時全員が八王子療護園の会議室に集合し、簡単な打合わせが終えたところに、特別注文の座面も動くリクライニングの車椅子で絵里さんが支援員と会議室に入りました。

(つづく)

走り続けた16年(178)

「或る障がい者の死」③

昭和59年、身体、知的に重度の障がいのある山ヵ絵里さんが26歳の時、両親と3人で前原町に転入しました。他の自治体での障害者施設の運営に懐疑的だった山ヵ家は、絵里さんの介護は自宅での母の手厚い介護でした。

しかし、平成7年、その母が亡くなったことから、小金井市障害者福祉センターに父恭一さんの押す車椅子での通所となり、10年間多くの友だちや職員にも恵まれ、充実した日々を送りましたが、絵里さんの体力も衰え四つ這いでの室内の移動も困難になり、さらに恭一さんの病気も重なり、止むを得ず平成16年絵里さんは八王子市館町の八王子療護園への入所となりました。

平成24年11月25日、父恭一さんが死去し、その遺書には全財産を「小金井市の障害者福祉事業に寄付する」とありました。これは、障害者センターでの絵里さんの生活が、いかに充実していたかを証明するものでした。

恭一さんの遺産の1億円超は、遺書にある小金井市と相続人である絵里さんの遺留分とで折半となりました。

絵里さんは、平成22年に卵巣がん、24年肺に転移し手術。2年後の26年には肺がんが再発したが、体力的なことから外科的な治療はしないとしました。その後も、日常的な変化はなく元気であり、食欲の減退等もみられませんでした。

私は、恭一さんの「将来的に生活が維持継続できるように」の遺言が常に頭をよぎるのでした。

平成25年、私は市の担当職員と八王子療護園を訪問しました。療護園の絵里さんは、支援員の支えもあり、寝たきりでしたが、恵まれた環境の中で元気に過ごしていました。

その後、恭一さんの遺骨を絵里さんのお母さんの眠る多磨霊園みたま堂に、絵里さんと親しい人たちで納骨をしました。その時、私が予てより計画していた絵里さんとセンター所長の吉岡博之さんの10年ぶりの再会を果たすことができました。絵里さんは満面の笑みで声を出して喜んでいました。それは、文字や言葉では表せるものでなく、私も、涙が出る程の嬉しさでした。

これを契機に吉岡さんと私は療護園にイベントに合わせて訪問することになりました。

絵里さんは、遠足と称しての外出にあたっては小金井市を希望して、多磨霊園での両親の墓参の後、絵里さんの好きな寿司を皆で食べ、その後、通所していた障害者福祉センターの訪問がコースで、友だちや職員との再会には大喜びでした。

市長を退任して約1年後の平成28年秋の叙勲で私が叙勲の栄に浴し、知人の皆さんが発起人となって祝賀会の準備が進められていました。絵里さんに出欠を尋ねると、出席したいとのことで、施設側もこの様な機会は無いので、車や人員は確保するので是非出席させてあげてほしいとのことでした。本人は大喜びで何を着ていくか気を揉んでると聞きました。平成29年4月、立川パレスホテルでの祝賀会には笑顔で出席してもらいました。

また、同時期に絵里さんの思考力に変化が生じていることを知らされました。絵里さんには財産を相続する人がいないため、もしもの時には財産は全て国庫に帰属することになります。国の帰属となることに対しては、絵里さんの周辺の誰もがそれを望みませんでした。そのためには、公正証書等の作成作業を早急に進める必要が生じたのです。

(つづく)