走り続けた16年(230)

戦争と平和を考える八月

今年も平和を考える猛暑の8月を迎えました。今年が例年と違うのは、実際に激しい戦争が行われ、それが、連日SNS等で世界中に映像で発信されていることです。

20世紀は戦争の世紀でしたが、21世紀は平和の世紀でありたいと誰もが願ってました。しかし、これもプーチンの独善的な理由によるロシアのウクライナ侵略によって完全に崩れました。ウクライナを支配下に置くというプーチンの残忍な野望により、ロシアは2月24日にウクライナへの侵略を決行しました。プーチンも誰もが短期間で終わると思われた戦いが5か月を経た8月に入っても終結の見通しがたちません。ロシアにとってはウクライナがこれ程まで抗戦することや、米欧が一枚岩でウクライナを支援するとは想定しなかったことでしょう。

これは、専制主義と民主主義の戦いでもあり、プーチンの思いを達成させる事にはなりません。力による他国への侵略は世界を敵に回すことになり、決して目的は達成できないことを実証しなければなりません。

停戦から終戦への道筋には、プーチンに侵略の失敗を気付かせることです。辛く厳しくとも米欧を中心に日本を含む国際社会はウクライナへの支援と対露制裁の強化を継続しなければなりません。

ロシアのウクライナ侵略で子どもを含む民間人を無差別で殺傷。住宅や学校、病院など民間施設も無差別で攻撃の対象にしてます。これらに対して世界中からの非難にも虚偽と思える発表で自らの正当性を主張します。

ロシアの攻撃を受けたウクライナ東部や南部の主要都市はがれきの山と化しています。しかし、ロシアの都市は無傷であり、軍人を除けばロシア国民に死傷者はありません。

西側からの軍事支援でウクライナは持ち堪えています。次々に登場する新兵器により、実力伯仲、反転攻勢とか、陣地の奪還とか、まるでスポーツかゲームのような報道に、ウクライナが攻勢との報に接すると気持ちが軽くなりますが、反面、これで戦争が長引きウクライナ国民の安寧な生活は遠のき、子どもを含む死傷者が増えていくことを考えると、非常に複雑な思いになります。

戦後60年の平成17年8月、私はポーランドのアウシュビッツを訪ねました。そこで体感したことは、人間はここまで残虐な行為ができるものなのかということでした。ヒトラーが率いるナチスドイツはただユダヤ人であるというだけで500万人とも600万人ともいわれるユダヤ人を虐殺しました。プーチンもヒトラーの狂気と並び人類の汚点として世界の歴史に残ることでしょう。

77年前の昭和20年8月9日、相互不可侵を約す日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲に侵攻したソ連軍の蛮行により、平和な家庭が一瞬に破壊され、満鉄社員の父を失い逆境の少年時代を送った私には、テレビに写るウクライナの子どもたちが二重写しになり、プーチンに対する憎悪の念は募るばかりです。

戦争の悲惨さを体験した人が減り、それを次世代に伝えていくことが困難な中でのロシアによるウクライナ侵略です。プーチン戦争を他山の石とし、わが国が第二のウクライナにならないための抑止力は、防衛力は大丈夫なのか真剣に考える必要があります。

(つづく)

走り続けた16年(229)

区画整理への道②

JR中央線の高架化には東小金井駅北口の土地区画整理事業の推進が必要でした。

区画整理事業とは、駅前広場や道路、公園など公共施設を整備することで所有する土地の評価が上がった分を所有者から土地で提供していただき、それを整備に使うもので『土地のタダ取り』と喧伝されることになり、地権者の理解を得るのは厳しいものです。

市は平成6年度に、部課長を中心とした本部員が地権者に戸別訪問で理解と協力を得るべく説明を重ねました。その結果、平成9年4月1日現在、地権者は189人であり、賛成が70%(土地面積90%)、反対が24%(〃8%)であり、その他6%(〃2%)であると市議会に報告がありました。それを基本に進めてきたのが、平成9年1月に制定された情報公開条例に則り反対地権者が自己情報の開示を求めた結果5名が賛成にカウントされていたことが判明。また、賛成の中には市や市の土地開発公社、都や区画整理関連の6団体が。さらに、29人の区分所有者の集合住宅は管理組合の代表の意向だけで全員を賛成でカウントするなど不適切な対応があり、野党議員からの杜撰な調査との指摘に反論の言葉もありませんでした。

平成9年、10年と2年続けて内示のあった国庫補助金を取下げるという異常な状況に、再度予算が付くか不安視されたことから佐藤義明市議と都の区画整理課へ予算要望に走ったのは平成11年1月のことでした。

市が区画整理事業を施行する場合、法の規定により「土地区画整理事業施行規程を定める条例」を市議会で議決しなければなりません。それを大久保市長は平成10年9月議会に事業に必須とされるその「条例」を提案しました。9日から10日未明まで本会議で質疑され、更に、24日の本会議での質疑後、特別委員会(特委)に付託され、同日の特委での質疑も「地元地権者の理解が得られてない」という入口論に終止し継続審査となりました。11月20日の特委でも保留。12月定例会中の16日、21日の特委でも可決に至らず平成11年1月28日に継続されましたが、なかなか条例の中身の質疑に入れず、必要な前進が全く見られませんでした。

この様な状況の中、大久保市長は2月5日の記者会見で4月25日の任期を以て引退することを表明しました。

東小金井の区画整理の進捗を待っていた東京都も待ちきれず、仮線用地が一定確保できたことから3月18日武蔵野市スイングホールで中央線の高架工事の着工式を行いました。そのため、市議会の一部には「区画整理の進捗にかかわらず高架は進むので無理に急ぐことはない」との発言が出る始末でした。

大久保市長から引き継いだ市政、まず取り組むべき課題はこの東小金井駅北口の区画整理事業の推進でした。

「地元地権者の過半が反対している状況では質疑に入れない」というのが市議会の大勢でした。何としても『施行規定を定める条例』は可決させなければならないのです。そのため反対の地権者にも理解をいただくための努力が必要です。

4月26日市長に就任した私は、その直後の大型連休が終えるのを待って地元地権者の理解をいただくため、土・日を含めて毎日戸別訪問を行うことを内外に宣言しました。

(つづく)