走り続けた16年(232)

「今、市政で何が」西岡市長辞職

西岡真一郎市長が10月14日付けで辞職することが7日の本会議で決定しました。

市立保育園を廃園するための条例改正を「議会が議決をしない」ことを理由に、議会の議決を得ず専決処分で決しました。この専決処分を承認するか否かが議会に諮られ、市議会は賛成が2人、反対は与党議員や、廃園に賛意を示す議員も含め20人となり不承認が決定しました。これを受け、西岡市長は市議会議長に辞表を提出、市議会はこの申し出を受け、本会議で14日に辞職することを全会一致で同意しました。専決処分は地方自治法(以下・法)で定められた市長の権限で「議会を開く暇のないとき」などで実行されるもので、大きく議会の意見が異なる課題での強権の発動は、市長と議会の二元代表制の下では禁じ手であり、より慎重な判断を要します。

専決処分が不承認でも法的拘束力はなく、廃園対象の2園は来春からゼロ歳児の募集を停止し、段階的に縮小され5年後には廃園になります。その効力に影響はないが、法では「市長は必要な措置を講ずる」と定められており、西岡市長は「辞職は法に基づく判断である」とも報じられていますが、辞職ではなく改めて廃園問題に取り組むべきです。保育園に通う子どもたちの保護者からは「辞職は責任放棄で、最悪の置き土産を残した」などの声も出ています。辞める前にこの問題を解決するのが責務だったと思われます。

「日本一の子育て環境」を唱える西岡市長が保育問題で行き詰まり、急を要する新庁舎や福祉会館の建設や市立第一小学校の建て替え、武蔵小金井駅北口の再開発などの課題に行き詰まり、投げ出しての辞職は責任放棄とのそしりは免れ得ないものと思われます。

市長の専決処分に副市長、教育長、部長職の出席する庁議でも、法的問題や議会対応を懸念する声も多く出されたようです。

また、この結果について地方自治の有識者による意見も厳しいもので、近隣の市役所でも驚きの声が出ていたようです。

私は市長就任直後、危機的財政状況にあることから、6月1日のボーナスの基準日の前日、自らの報酬10%とボーナス30%のカットを専決処分しました。6月議会に、この承認を提案し承認はされましたが、私の市長選挙を応援してくれた複数の議員からも非常に厳しい指摘を受けました。自分の報酬を下げる案件についてもです。市議にとって専決処分は「議会の議決権を奪う」、「議会軽視の暴挙」、「市長の暴挙・暴走」との評価となり、なかなか容認されるものではないのです。

西岡市長は次の市長選には出馬しないことを表明しています。

小金井市長は初代の鈴木誠一氏から西岡氏まで9人です。その中で5人の市長が任期途中で辞職しています。任期満了での退任は4人で、その中で再選、再々選が果たせず退任が2人で、自らの意思で任期を終えた市長はわずか2人です。

私の場合は複雑で、2期目当選1年後に当初予算が否決されたことから「民意を問う」と出直し選挙を表明しながら辞職し当選。その後、平成23年の東日本大震災直後の選挙で落選。6か月後、新市長の辞職に伴う市長選挙に立候補して当選し5選4期満了で終えることができました。

(つづく)

走り続けた16年(231)

区画整理への道③

小金井市は長い間、都や国、そして多摩各市から特別な目で見られていました。貫井北町3丁目の公務員住宅に住んだり、前原町5丁目に隣接する東京自治会館での会議に出席する公務員は駅周辺整備の遅れや危機的な財政状況、さらに、JR中央線の高架化の遅れや、日の出町のごみ最終処分場建設反対のトラスト運動や市議会の決議などから、多摩各市は小金井市を特別扱いで、陰では「しょうがねい市」と揶揄されていました。

小金井市の地元負担ゼロの主張等で遅れていたJR中央線の高架化も沿線各市の街づくり計画により動き出しました。大久保慎七市長は東小金井駅北口の土地区画整理事業を選択し、積極的に計画を進め平成10年9月議会に、そのための「施行規程を定める条例」(条例)を提案しました。しかし、市議会は地権者の理解が得られていないことを理由に、質疑は入り口論に終始し膠着状態が続きました。待ち切れない東京都は平成11年3月18日、武蔵野スイングホールでJR中央線の着工式を挙行しました。これにより、市議会の一部に「区画整理をしなくても中央線の高架化は進んでいく」という声が出る始末でした。

4月26日市長に就任した私は、この区画整理事業の推進が選挙公約であり、それが、小金井市の発展となり、国や都、そして他市との信頼回復にもつながるものであり、何としても果たさなければならない課題でした。

私は、200人近い地権者と直接お会いして理解を求めるため公務の合間を縫って土・日を含めて連日戸別訪問を繰り返し続けました。

6月23日の中央線・駅周辺整備特別委員会(特委)でも「条例」は採決に至らず継続審査になりました。私は「区画整理推進のため都を通し国に補助金の申請をした。そのため、9月議会で『条例』を可決してほしい」と市議会に要望しました。そのため、私も職員も地権者回りを懸命に進め、公開の説明会や区画整理反対住民の会との話し合いも行いました。しかし、市議会は、全体でなく区域内に住む地権者の過半数の同意とハードルが上がりました。

9月20日の特委でも継続審査となり、平成9、10年度と連続して補助金を流し、これが最後の機会です。何としても「条例」を通すことです。大差だった反対・賛成の数が次第に近付いたことから職員も一段と気合いが入りましたが、9月定例会でも10月20日の特委でも「条例」は採決に至りませんでした。

梶野通りから数軒入った地権者が「主人の帰る夜に来てほしい」と言われ、夜に職員と4人で訪ね、出た言葉は「区画整理に反対しない、進めて欲しい」とのことでした。通りに出た私たちは、「やった!」と大声で叫びました。これで、賛成が反対を上回ったのです。その後も地権者回りは続きました。

11月5日10時に開会した特委は緊張感で張り詰めていました。私の「区域内の地権者の過半数の方々の同意をいただいている」との発言に「市長としての地位と名誉と責任を懸けての発言か」に「政治生命をかける」と答弁し、緊迫した質疑が日付を越えて延々と続きました。小金井市の命運を懸けた区画整理事業、ラストチャンスの補助金申請のタイムリミットは11月10日、秒読みに入りました。

(つづく)