走り続けた16年(52)

世界平和への願い

あの大戦が終えて72年が経過しました。

戦後生まれが人口の80%を超える現在、戦争の悲惨さを次代に伝えられる戦争体験のある人は年々少なくなっています。

20世紀は戦争の世紀といわれ、21世紀は平和の世紀と期待されていましたが世界中に紛争が絶えません。

日本周辺の安全保障も重要です。北朝鮮の核・ミサイル開発の脅威に対する防衛策も喫緊の課題です。中国の尖閣諸島等への強引な海洋進出も問題です。

イスラエルが、シオニズム運動により1948年イギリスの委任統治の終了とともにパレスチナ地域に移住したユダヤ人により、建国されました。この国家の存在とパレスチナ国家建設の運動が、常に中東紛争の火種となり、報復に次ぐ報復、憎しみの連鎖が世代を越えて増幅しています。どこかでこの憎しみの連鎖を断ち切らなければなりません。

市は、平成20年7月、中東和平に熱心に取り組んでいる旧知の四方八洲男綾部市長の勧めもあり「中東和平プロジェクトin小金井」を実施しました。

これは、イスラエルとパレスチナの紛争で肉親を失った両国の高校生を招いて交流を図るというものです。一歩間違えれば国際紛争の引き金にもなりかねず、大変な緊張感を持って準備を重ね実施しました。

兵役を間近にした両国の高校生たちが「お互いに銃を向け合うことはやめよう」と交わした会話は、このプロジェクトの大きな成果であり、和平への一粒の種を蒔いたとの思いでした。

この事業は同年9月25日、ニューヨークの国連本部で麻生太郎首相が一般討論演説で「日本の市民社会が地道に続ける和解促進の努力」とし、全世界に向けて詳しく発信されました。(事業内容は市のホームページをご覧ください。)

また、私は「小金井平和の日」の制定を考えていました。戦後70年の節目の平成26年12月議会に、その日を「3月10日」にする議案を提案し、議会の議決をいただき決定しました。3月10日は東京大空襲の日であり、学校で、家庭や地域で、戦争の悲惨さ平和の貴さを話し合う機会にしてほしいと思います。

私は昭和19年11月に旧満州で生まれました。昭和20年8月9日ソ連の参戦により満鉄(南満州鉄道)の社員だった父は死を覚悟し、特別列車で避難する24歳の母と、生後9か月の私をソ満国境の水芬河(スイフンガ)駅で見送りました。父の最後の言葉は「貴方たちも生きて日本には帰れないだろうが、この子より先に死なないように。この子は生まれてこない方が良かった」だったそうです。

奉天(現・藩陽)での辛く厳しい難民生活の1年を経て、昭和21年8月葫蘆島(コロトウ)から引揚船で下関に。そして、鉄道で母の実家のある銚子へ、着の身着のまま辿り着きました。そのため、私は父親の顔を知りません。父も天国で、母と私が今でも元気でいることを驚いているでしょう。

(つづく)

走り続けた16年(20)

世界平和への思い②

平成20年1月31日、京都・綾部市長の四方八洲男氏が突然来庁されました。

四方市長とは旧知の関係で、前年の秋頃からイスラエル、パレスチナへの自治体外交を展開するため四方市長を団長に使節団を結成し、1月中旬に両国を訪問することで準備を進めてきました。

しかし、副団長の私が市政の課題への対応から急遽(きょ)不参加となり、訪問の報告のための来庁でした。そこで、四方市長から、「中東和平プロジェクト」の小金井市での開催を懇願されました。

この事業はイスラエル、パレスチナの紛争で家族を失った高校生を主催市に招いて、両国の友好親善を図ることを目的にする事業で、両国の紛争激化のために数年間中断していました。

平成20年度は、小金井市制施行50周年の記念行事等で手一杯であり、既に翌日の2月1日に予算書の印刷を行う予定であること、また、万が一この事業で不測の事態が発生したら国際問題に発展する可能性のあること等から即答せず、一晩考えをめぐらせました。

翌朝、財政課に予算書の印刷をストップさせ、「中東和平プロジェクトin小金井」の予算を組み込むことを決め、実施に向けて準備に入りました。

準備にあたり、庁内にプロジェクトチームや、市民による実行委員会、作業部会を設置し、日本イスラエル商工会議所理事であり市民の原芳道氏や、経験のある綾部市の職員の協力を受けて進めました。

私も、両国の大使館、外務省、東京都、警視庁、現地との連絡調整などの仕事に追われました。

2月に、12名の高校生の人選を現地の遺族会にお願いし、引率者の2名も決められました。

7月28日朝、パレスチナの1人が出国が認められなかったのは残念でしたが、一行はパリで合流し元気に成田空港に到着しました。

高校生は両国1人ずつ2人が組になり、一般家庭でのホームステイ、日本の高校生や市民との様々な交流事業、日本の芸術・文化、伝統芸能などの体験学習を通じ、若者たちの心が通じ合うのに長い時間は不要でした。両国の長い紛争で多くの悲劇が繰り返され、報復につぐ報復、憎しみの連鎖が簡単に断ち切れるものではありませんが、この交流を契機に彼等が英語で直接会話し、共に成長し真の友情が築けたことは最大の成果であり、和平に向けての一粒の種をまくことができたと確信しています。

兵役に就く年齢に近い両国の高校生が「お互いに銃を向け合うことはやめよう」と話していたとホストファミリーからの報告には、涙が出るほど嬉しいものでした。

首相官邸なども表敬訪問し、8月2日夜、成田空港で皆、抱き合って別れを惜しみました。私は無事帰国させることができ、責任を果たせたとの安堵の思いでした。

9月25日、ニューヨークの国連本部で麻生太郎首相が一般討論演説で「日本の市民社会が地道に続ける和解促進の努力」と称し、この事業を詳しく全世界に発信しました。一自治体の平和施策として外務省もその成果を高く評価しました。

事業の詳しい内容については、市の公式ホームページにアップされていますのでご覧ください。また、この有効親善事業がイスラエル、パレスチナの両国大使をお招きしての講演「国際理解講座」に引き継がれています。