戦場カメラマン石川文洋さん逝去
ベトナム戦争などを報じ、戦場カメラマンとして知られる石川文洋さんが、8月23日に逝去されたと報じられました。
昭和39年3月、私は大学1年の春休み、復帰前の沖縄へ行くため東京駅から鹿児島行きの列車に乗りました。
ホームには、若者たちが横断幕を掲げるなどで賑わっていました。
それは無銭旅行世界一周に出発する、石川さんを友人たちが見送っていたのです。
その時、石川さんは26歳で私は19歳でした。
当時の沖縄に行くには、パスポートに変わる日本政府総理府が発行する「身分証明書」が必要で、それには「日本人稲葉孝彦は観光の目的で南西諸島へ渡航するのするものである」と記され、昭和39年2月10日内閣総理大臣 池田勇人とあり、内閣総理大臣の朱印が押されています。
当時、米軍基地がある関係で、沖縄に行くのは外国へ行くより厳しい審査がありました。
その身分証明書には、100ドルと追加で10ドルの両替したことが書かれており、1ドルは360円の時代でしたので、 日本円で約4万円を持っての旅でした。
当時の沖縄の通貨はドルで、車は右側通行でした。
石川さんとは列車の席が別なので、接触はできませんでした。
鹿児島のユースホステルに泊まり、数日間鹿児島市内を散策し、13日沖縄丸への乗船はもちろん船底の大部屋です。
何とそこに、石川さんがいるではありませんか。
私はすぐに彼の横に場所をとりました。
私は1年後に世界一周無銭旅行を考えていたので、情報収集には絶好のチャンスだったのです。
限られた時間でしたが、多くの話を聞くことができました。
夜になって車座になっての話の中で、石川さんは好きな「蘇州夜曲」を歌われました。
彼の父親は沖縄の作家で、沖縄は彼の故郷でした。
沖縄に着いたら案内してもらう約束でしたが、下船時の手続きの混乱から離れ離れになってしまい、再び会うことができませんでした。
石川さんの世界一周旅行の出発点は沖縄で、次は香港でした。
石川さんは出発前に、週刊誌等の出版社と世界一周無銭旅行の寄稿文と写真を送る契約をしてたので、その後、週刊誌等で彼の行動は多少確認していました。
香港では、写真店で働き資金稼ぎをしたようです。
石川さんは高校卒業後、毎日映画社に勤めていたことから写真はプロでした。
香港からベトナムに移動した頃、当時米軍が本格的にベトナム介入し、ベトナム戦争が始まる時期で、従軍記者として現地で特派員契約を結び、最前線でベトナム戦争の写真や記事が、新聞等で報じられました。
私はその記事を読み、本や写真集が出版される度購入するなどしていたので、彼との関係は一方通行で保たれていました。
日本ウォーキング協会が、東京国際スリーデーマーチを都内で開催しましたが、問題が多く1回で中止となり、 再度の1回目として武蔵野市の中央公園に移り10回続きました。
それが参加者が次第に多くなり、トイレ、ゴミ、騒音、交通ルール無視などの問題で苦情が殺到し、続行が困難になりました。
協会から、小金井市が小金井公園で行ってくれないかと申し入れがありました。
私は、武蔵野市からのお申し入れなら考えるがと答えました。
誘致した土屋正忠市長は、衆議院議員に転出していたこともあり、私はこのスリーデー マーチを引き受けることに躊躇はありませんでしたが、武蔵野市に不快感を持たれないための配慮をしました。
しばらくして、武蔵野市からスリーデーマーチを引き受けてほしいとの連絡があり、内部で検討し、お受けすることを決め、協会との準備に入りました。
全国各地で行われるスリーデー マーチには、著名なスポーツマン等がゲストで参加します。
小金井市で最初となる第11回東京国際スリーデーマーチに、協会のゲストの提案は何と石川文洋さんなのです。
私は驚きました。
「私の知人です」に一発で協会の提案通りの決定です。
彼はウォーカーでもありました。
平成18年5月3日、第11回国際東京国際スリーデーマーチの開会です。
私は早速ゲストの石川さんに話しかけました。
しかし全く通じません。
それはそうです、私は 報道で彼の行動を追っていましたが、彼には42年前に船で一昼夜を共にしただけの私を思い出すことはできませんでした。
ただ、沖縄丸での蘇州夜曲は大好きな歌なので、船の中で歌ったかもしれない、と話していました。
その後、石川さんとは電話や手紙で細々と交流は続いていましたが、これで完全に断たれることになりました。
ご冥福をお祈り致します。
享年88歳でした。