さくら通信

管理職全員が徴税吏員に

平成13年5月7日から18日まで、市税及び国民健康保険税の未納者の方に対する管理職者による、納税促進行動を実施しました。

これはあまりにも厳しい財政状況を職員にも実感してもらうのと、納税者である市民の生の声を聞いて、それを仕事に活かしてもらうためでした。

管理職全員に徴税行動マニュアルを使って研修を行い、 徴税吏員の辞令を一般職と重複して交付し、土、日を含め12日間の行動に入りました 。

納税額が特に多い場合や問題を抱え困難な場合は、私が納税課長と尋ねることにしました。

新聞やテレビなどマスコミの報道もあったことから、失念した方はすぐに納付されました。

納税額の多い方は私の知る人が多く、私に来られたら困るということで、すぐに納めるから来なくていいという電話も貰いました 。

小金井警察からは面倒なところに私が行くことに警告が入りました。

それは、反社勢力等々とのトラブルなどの例を挙げて説得されましたが、私が先頭に立たなければ職員の士気が萎えると言って決行しました。

職員は2人一組で32組が一斉に街に出ました。

個別訪問による納税は多くはなかったですが、後日窓口に来られた方や郵便局で、大勢の方々に納付していただきました。

納税促進行動の期間は勿論その後も当分の間、自宅と市役所の往復で寄り道は徴収と見られるのでできませんでした。

 

さくら通信

職員とのランチタイム

昭和60年から14年間の市議会議員時代、私は徹底して職員組合と対立してきましたが、職員との信頼関係は築いてきました。

しかし、財政再建には職員組合の協力なくしては果たせません。

職員組合の立場は尊重するが、労使交渉等での精神的、肉体的苦痛を伴い、自尊心を傷つけるような暴力的言動は許さない。また、労使関係に配慮し、歴代市長が黙認してきた罵詈雑言も許さない。と、私は組合に伝えました。

それは市民により選ばれたものの、誇りと責任だと常々感じていたことなのです。

労使がお互いの立場を尊重することで、財政健全化が進みました。

長かった議員時代もあり、1000名近い職員の名前はほとんど覚えることができました。

そのため、私は職員を役職で呼ぶのではなく、苗字で呼んでいました。

昼食は、第2庁舎の8階にあった軽食堂で職員とともにしました。

しかし、この軽食堂は採算が合わないことから、撤退され後を引き受ける業者もなく閉鎖したのは残念でした。

それ以降の昼食は市役所近くの店で済ませ、職員がいれば同席して意思の疎通を図り、料金は公選法等も念頭に私が負担させてもらいました。

時間がある時は、第二庁舎7階の教育委員会から下の階へ全部の課を回り、ひとりひとりに声を掛けるなど意見交換をしました。

また、庁内放送を使ってその時の課題や私の考え方も伝えました。

兎にも角にも、職員の理解なくしては財政再建は果たせません。

職員とも職員組合とも、信頼関係の構築に努めました。

職員組合もトップが変わり、民主的な組合に変身しました。

その結果が、財政再建に繋がったのです。

 

走り続けて16年(278)

共産党の関根優司氏は当選だった

行財政改革の推進を標榜する議員は、自らも痛みを伴う改革をすべきと議員定数の削減にも取り組んだ。また、市民からも削減の陳情が多く出された。

地方自治法では小金井市の10万人超人口では議員定数は36人とされるが条例で減少できると規定されている。

小金井は昭和22年4月の最初の普通選挙の町議会議員選挙以来、市議会でも定数26人が続いていた。

平成7年9月定例会に市民から「定数2人の削減を条件として市議会議員の資質向上のため報酬の一部を引き上げを求める陳情書」が提出され、議会運営員会(議連)に付託された。議連では継続審査となり、閉会中の11月7日、29日に開かれ29日の議連で陳情が採択、12月の定例会の初日の本会議で採択され議員削減への議会意思が確認された。

これを受けて、8年3月定例会に「小金井市議会議員定数条例の一部を改正する条例」を黒川輝秀、小川和彦、中根三枝の各議員と私の4人で、26人の議員を25人に削減する議案を提案した。議連に付託されるが継続審査になる。閉会中の議連で可決。6月議会初日の6月6日の本会議で1名削減が可決された。これは、平成9年3月の市議選から適用されることになった。

9年6月定例会に、「議員定数削減を求める請願書」が提出された。これは、議員定数を選挙ごとに20人を目標に削減するもので、6月19日から1年以上7回の議連が開かれ、10年9月21日に請願書は可否同数で委員長による裁決で議連で採択され本会議では賛成13反対10で採択された。

この結果を受け、10年12月定例会に3名の議員削減を議員提案、議連に送付され、12月18日、11年2月24日と継続して審査している間に4月の市長選挙となった。

公職選挙法第百十三条で市長選挙の告示日10日以前までに市議会に欠員がある場合補欠選挙になると規定されています。既に議員辞職していた佐野浩さんと市長選に立候補予定の大鳥龍男さんの2名の欠員があり補選も同時に行われることが決まっていました。

市長選に立候補を予定する私は行革の観点から補選にせず欠員のままにするために告示の3日前まで辞職を引き延ばして、私の議席は欠員とし補選は2議席とした。

市長選は私が当選させていただき、2議席の市議補選には5人が立候補し、民主党の遠藤百合子さんと、自民党の伊藤隆文さんが当選し、共産党の関根優司さんは落選した。

数年後、私は公職選挙法の解説書を読み返し重大な過ちに気付いた。それは、公選法の百十三条の解釈は既に補選が行われることが決定している場合、告示の前日までの欠員の全部が対象であると解すのが公選法の趣旨に適うとあり、補欠選挙の当選人は3人だったのです。これには、選挙管理委員会も各党選対もそれに気付かずにいたのです。私が気付いた時には、共産党の関根優司さんは2年後の本選挙で当選し市議会議員として既に活動中でした。

私が市長に就任し最初の定例会である11年6月議会で継続していた「議員定数削減…」について、提案者から3名の削減を1名に訂正が了承され、24日の議連では質疑打ち切りとなり議員案は委員長裁決で可決されたが、本会議では賛成14反対8で可決され、議員定数24人が決定し現在に至っている。

(つづく)

走り続けた16年(277)

最大の危機が財政再建を

30数年に渡る小金井市の財政危機は異常に多い人件費にあり、その原因は多すぎる職員と給与制度にあった。それは、全国ワーストの人件費比率や経常収支比率に表れていた。

平成9年度は定年退職する33人の職員の退職金の財源が無いことから東京では初めてとなる退職手当債(借金)を活用することになった。借金の許可に国と都は市の給与制度等の改正を条件とした。これには職員組合も飲まざるを得ず35年間小金井市を蝕み、地方公務員法にも反する同一年齢同一給(年齢給)にピリオドが打たれ「職務給」が導入された。

また、同時期に退職を願い出た2人の退職金が工面できないことから4月中旬まで有給休暇を使って在籍してもらい、新年度の予算から支払うという財政状況だった。

行財政改革を主張する議員は近隣市等と比較し200人以上の職員削減を主張していた。

財政計画から退職金が払えなくなる時が早晩くることから当局は6年頃から職員削減を打ち出していた。職員組合も財政が破綻した場合は自治権の放棄につながることから職員削減の協議に応じざるを得なかった。

7年(財)日本都市センターの専門家による「小金井市行政診断調査報告書」においても200人の職員が過剰であると報告された。

また、7年4月の市長選挙で大久保慎七市長は200人の職員削減を公約に三選を果した。

平成7年6月当局は197人の職員削減計画を組合に提案し、覚書を締結した。これは、7〜8年かけて完結させるというものでした。

当局は、給与制度の改正と職員削減を合わせて14年度までに51億5千万円の経費削減となると説明していた。

平成11年の市長選挙で私の公約はさらなる職員削減でした。当選後の記者会見で、私はさらに110人の削減を発表しました。

また、公約年金制度の改正により共済年金についても13年4月から年金の満額受給が65歳に引き上げられることから11年7月地方公務員法の改正があり、一般職の定年退職者が働く意欲と能力のある職員に改めて再任用として採用することで、新規採用はせず行革を進めることで組合とも合意した。再任用職員は職員定数に入りません。再任用制度は公務員優遇だとの意見が与党からも出て、議論は白熱したが与野党入り交じった採決で賛成12反対10で可決された。

この再任用制度の活用も行財政改革の後押しの力となった。

その結果、昭和50年前後の革新市政による常軌を逸した大量職員採用で、職員は1千130人。人件費比率は45・2%、金額は103億9千万円がワーストで、私の就任前の平成10年は892人で32・3%、98億8千万円だったが、27年の退任時は671人で16・2%、60億3千万円と大きく改善された。

私は昭和60年、小金井市の財政再建を果たすことを目的に市議会議員となり14年、そして市長として16年、議員や職員の身を切る協力、そして、市民のご理解でやっと他市並みとなり、最大の公約を果たしました。西の京都・東の小金井と評された職員組合も市の倒産を意味する財政再建団体への転落は自治権の放棄となり、国の監視下で財政再建に取り組むことになり、少しの金の使い道も制限されることから、自主再建の道に向けお互いに力を合わせた結果です。

(つづく)

さくら通信

ゴミ拾い(その3)
ゴミを拾った16年

「小金井市は美しいまち」と市内外から評価されるには、公園や道路等にゴミが落ちていないことや、放置自転車がないことです。

それは財源を必要とせず、私たちが少し意識を変えることで、日本のシンガポールが実現できるのです。

市議会議員時代、市役所へは主に自転車で通っていました。

空き缶やペットボトル等、大きなものは拾って前かごに入れて市役所に持ち込みました。

市長になってからは、歩いての通勤になりました。

メガロスの東隣のマンションから市役所まで、歩いて約30分の通勤は、私には適当な距離でした。

中央線の北側を武蔵小金井駅北口へ、それを通過し駅西の跨線橋を渡り市役所へ行きます。

高架完成後は、駅南口から市民交流センター(宮地楽器ホール)と、ヨーカドーの間のフェスティバル コートを清掃して市役所へ向かいました。

最初は恥ずかしかったが、周りの人の顔を見ないようにすればすぐになれるものです。

これを16年間、雨の日を除いて市役所に行く日は毎日続けました。

今振り返ってもよく続いたものだと思います。

市長退任後は週1回のペースで、武蔵小金井駅南北のロータリーから高架線の北側を東小金井駅へ、そして、北南のロータリーのゴミを拾って武蔵小金井駅に戻ります。

また、毎月第2日曜日は、平成23年に小金井市環境賞を受賞した「小金井市を美しくする会」の人たちと、場所を変えて市内のゴミ拾いをしています。

私のゴミ拾い はウォーキングを兼ねたものです。

市議会は平成9年12月定例会で、議員提案の「まちを美しくする 条例」を制定しました。

いわゆる「ポイ捨て禁止条例」です。

また、平成15年3月定例会で路上禁煙区域を設け、歩きタバコを禁止する条例改正をしました。

この条例には罰則規制があり、違反者には2000円の過料を課すとありますが、適用したことはありません。

私が市長に就任した25年前と比較して、ポイ捨ての量は大きく減少しました。

これは、小金井市が美しくなってきたことの証しではないでしょうか。