走り続けた16年(267)

六代目市長に大久保慎七氏

昭和60年3月31日の定年退職制度の導入で33人の職員が退職。その殆どが現業職員で職員組合は違法なストや超勤拒否を交渉材料に暴力的な欠員補充要求で、2期目就任早々の保立旻市長は6月12日、5名の現業職員の採用で組合と妥結。安定多数の与党体制に早くも亀裂が入った。

また、昭和61年9月定例会に「老人入院見舞金の支給に関する条例の制定」が与党の一部も含めて議員提案された。年間の財政負担は約400万円のこの条例案に保立市長は「私の政策的見地と相入れない」とし、国や都も、老健法上問題があるとの見解だが12月定例会で多数で可決。これに市長が再議(拒否権)に付したことから12月定例会が越年、異例の67日間に及ぶ12月定例会が2月12日午後5時の時間延長の議決に自民、公明、民社と市長もボイコット。2年続けて12月議会は流会となった。これにより「老人入院見舞金の条例」は審議未了で廃案になったが、市長が辞意を漏らした。その夜、私は同僚職員と二人で市長宅で慰留に努めたが辞意は堅く、夜中に市長宅を後にした。

翌日13日午後4時市長は鈴木一雄議長に辞表を手渡した。

辞意前の2月2日、小金井市も構成する公立昭和病院の総務部長が汚職で逮捕される不祥事に対する対応や、2月3日の高尾山での節分祭に参加した際、転倒し足を骨折し、松葉杖を使う状況で心身とも疲れきっていたことも引き金になった。

保立市長の任期途中の辞職に、1期目前半の経験不足もあり、与党の一員として責任を果たせなかったことに忸怩たる思いでした。

保立市政の1期半6年間も、革新市政時代に負った人件費問題の改善には至らず、自らも辞職の挨拶の中で不十分だったことを認め残念がっていた。

自民党は再三の市長候補の選考委員会を開き、大久保慎七氏の擁立を決した。大久保氏はその要請の1週間ほど前に「大久保税務事務所」の看板を自宅前の連雀通りに出したばかりだったがその看板は黒のビニールで覆われ、その後、使われることなく撤去された。

大久保氏は3年間のシベリアでの抑留から引き揚げ、24年3月小金井町役場に入所。独善的な組合に迎合しないことから保守反動と目の敵にされていたが、建設、総務部長等を歴任、革新の永利友喜市長2期目半ばの昭和52年、二度にわたり林茂夫企画部長と助役と大久保氏の教育長を抱き合わせの議案が作成されたが、職員組合が納得しなかったことからか正式の提案にはならなかった。

その後、54年6月、保守市政の星野平寿市長と、次の保立市長の助役も務めていた。
 
2年4月26日に執行された市長選は二代連続で途中辞職の自民党には厳しい選挙となったが自民党推薦の大久保候補が1万4千468票、社会党の田中二三男候補が1万2千919票、共産党の小柴作一候補4千964票で大久保氏が当選した。この結果に対して、その2週間前に行われた都知事選挙での小金井市での得票は自民の鈴木俊一1万8千48票、社会の和田静男7千198票、共産の畑田重夫7千288票だったことから、この統一地方選挙で全国的に票を伸した共産党の票が小金井市の市長選で激減したことから、堅いはずの共産党の2千票が何処へいったかが巷の話題となった。

(つづく)

走り続けた16年(263)

ごみ問題 苦難の保立市政

昭和56年6月、市長に就いた保立旻氏が当面する課題のひとつはごみ処理問題でした。

不燃ごみを細かく破砕する中間処理施設を持たない小金井市は、集積場に集めた不燃ごみから缶やビン、乾電池等の有害物質は手作業で取り除き、ロードローラーで潰した物をショベルカーでダンプカーに積まれ羽村町(羽村市)の埋立場に運ぶ方法で「小金井市は空気を運んでくる」と批判されていた。この処分場は3年の計画で多摩9市で運営されており、59年4月以降は他の場所を確保する必要に迫られていた。

58年9月12日、羽村町側から突然搬入停止が通告された。理由は「小金井市のごみの中に有害物質が含まれているのではないか」との一小金井市議会議員の問題提起からです。市長は、開会中の市議会を休会にした議長と搬入再開に奔走。毎日出るごみの処分ができないのは、市にとっては最悪です。有害物の混入はありえないが、市長と議会はこの疑義に対し羽村町に謝罪文を提出するなどし事態収拾を図った。羽村町の調査結果からも、有害物の混入の事実が確認できなかったことで、20日井上篤太郎羽村町長名で搬入再開許可の通知が届きました。搬入停止は約10日間で済みました。

58年4月、本市を含む多摩25市2町による新たな焼却灰など不燃ごみの埋立地となる日の出町谷戸沢最終処分場が完成し埋立てが開始された。しかし、処分場延命のため不燃ごみの投入には地元との公害防止協定に基づき金属等再資源化の可能なごみは除去し、かつ、15㎝以下に破砕し圧縮しての搬入が義務付けられました。そのため本市は基準に合うごみは谷戸沢処分場に搬入するが、それ以外は羽村町の埋立場への搬入を継続しました。

当時、選別、破砕のための中間処理場を持たないのは小金井市だけであり、早急な建設に迫られていました。

市は不燃ごみ積替場のある貫井北町1丁目を候補地に周辺用地を取得するが地元の理解が得られず足踏み状態が続いていた。その理由は騒音等公害に対する不安と集会場等地元還元施設の建設の約束を反故にしていたこと、事前に地元に説明が無かったことで地元が硬化していたのです。そのため2年連続して国の建設費の補助金を見送ってました。

羽村町処分場の使用期間が終えたことから全量日の出町谷戸沢処分場に搬入するが、小金井市の埋め立てごみは公害防止協定を守れないが中間処理場ができるまで特別に搬入させて貰うことで危機を脱したのです。

当局は危機的な状況を地元団体に理解してもらうため熱心な交渉の結果、地元との合意に到りました。後は時間との闘いです。

一方、調布市、府中市と本市の可燃ごみを焼却する二枚橋焼却場の老朽化から、59年2月建て替え計画を策定し、順調に進むかと思われたが、任期満了に伴う市議選直前の最後の議会となる60年2月13日「老朽化した二枚橋焼却施設を建て替えるについては、他の場所に『第2工場』を建設することを付帯条件とする」との決議を全会一致で議決したのです。この決議が、その後の小金井市のごみ行政に大きな影響を与えることになりました。

保立市長の1期目の四年間は危機的状況に直面するごみ処理に翻弄されていました。

(つづく)

走り続けた16年(261)

市長が市民を訴える

大混乱の中で星野平寿市長が任期半ばで辞職しました。財政再建が課題の小金井市で高らかに行財政改革を訴えて当選したが、不適正な北海道出張が原因で辞職となった。

それに伴う市長選挙は昭和56年5月31日に執行され無所属の3氏が立候補し、自民、公明、民社、新自由クが推す保立旻氏が1万5千218票、社民党推薦の田中二三男氏が9千700票、共産党推薦の林茂夫氏が8千319票で保立氏が当選した。不祥事の後の市長選挙だが革新の分裂と財政再建を望む市民の声が保立氏を当選に導いた。

保立氏は大正5年8月、高尾山薬王院の住職を父として生まれ、1m80㎝を超える長身で法政大学では自動車部で車を乗り回し、カメラを趣味とする恵まれた環境の方だった。

昭和26年4月の小金井町議選に34歳で立候補し1票差で落選したが、次の30年の町議選ではトップ当選を果し、町議1期、市議3期の間に議長を5期務め、都・市議会議長会会長にも就いた。市議を引退した後は教育委員等を務めていた。

6月2日保立市長の初登庁を待っていたのは、市長が市民を訴えることの決断でした。これは、武蔵小金井駅南口の2千平米の土地を駐輪場として借りる予定で整地するなど準備していたが、土地所有者のH氏は親戚にあたる星野平寿市長に貸したもので星野市長が辞職したので現状に回復して20日以内に返すように、との申し入れを受けていた。駅周辺には放置自転車が散乱している状況で、正式な土地賃貸借の契約はなかったが、この申し出では受け入れられなかったのです。

市はやむを得ず権利保全のため仮処分申請をし受理されたが、H氏から仮処分決定に異議の申し立てがあり、裁判所の指導もあり本裁判に持ち込まざるを得なくなっていたもので、市が市民から借りた駐輪場用地を返さないことを訴える裁判です。就任早々の保立市長には厳しい判断でした。市が提訴するには議会の議決が必要であり、昭和56年6月の市議会定例会に「土地賃借権確認請求に関する民事訴訟の提起について」が提案され、長時間にわたる熟議の結果単独会派の3議員を除く全議員の賛成で可決された。もし、私が市長でも同じ行動をとったと思います。

この裁判が4年間続く間に別の場所が確保されました。59年11月裁判所の斡旋で市が用地を返し和解金を支払うことで決着した。

しかし、その後も地権者H氏と市が和解することは一切無く没交渉となりました。

60年4月私が市議会議員になって最初に開かれた与党会議で保立市長からこの和解金の支払いが済んだとの報告がありました。

14年後の平成11年4月市長になった私はH氏との不信感を解くことに腐心しました。それは、中央線の高架化や南口の再開発はH氏の協力がなければ進まないからです。就任数か月後、近隣市にある大学病院の特別室で筆談での面会が許され、私は街づくりの協力をお願いしたが、中央線の高架化は進めるべきとの考えでしたが、再開発には返答がなく終わりました。

しかし、その後、H氏の親しい方から再開発を進めることには反対しないとの伝言をいただきました。その数か月後の11月、H氏は逝去され私の面会は1度だけになりました。

(つづく)

走り続けた16年(260)

不信任で議会解散そして辞職

昭和55年12月8日に開会した定例会は12日(金)佐野浩議員の一般質問「市民の血税の使途はこれでよいのか!」で、10月8日〜9日北海道釧路市で開かれた「全国都市問題会議」での星野平寿市長の公務出張の質疑で議会は大混乱に陥った。

これは、11月の決算委員会に出された「都市問題会議」の資料に基づき一部議員は入念な調査をしていた。

佐野議員は「いろいろ噂が飛び交っているが事実でなければ市長も迷惑であろうから確認します」と切り出し星野市長の会議の出欠席や、所在不明時の行動等を質した。質疑は答弁調査の休憩もあり延々と続き、15日(月)も日程変更し佐野議員の一般質問が続いた。さらに休会予定の16日も続いたが、本会議の開議宣告だけで会議は開けず空転のまま協議が行われ、午後3時すぎ星野市長が鹿野勇議長に「退職申出書」を提出した。これを受け17日を定例会最終日に繰上げ、各委員会を開催し補正予算等を即決した。最後に星野市長の辞職の挨拶があり午後5時前に大混乱の議会が終了した。

それが3日後の19日夕方、星野市長が突然議会事務局に「退職申出書の撤回届」を提出。自らの意思で辞職する場合、行政の混乱を避けるため、辞職は20日後になります。そのため撤回が認められ平常の形に戻った。

この一連の星野市長の動きはマスコミの好餌となり、市役所はテレビカメラや記者による取材合戦となり、年末・年始を通し連日報道番組や新聞で全国に混乱が報じられた。

同時期の昭和56年1月中旬「川上紀一千葉県知事が副知事時代の昭和49年春、知事選の選挙資金として都内の不動産業者から現金5千万円を受領した。その際『貴下の事業発展に全面的に協力するとともに、利権等についても相談に応じます』との署名入りの念書を入れた」と新聞が報じた。新聞やテレビの報道番組等マスコミは連日知事の念書問題と市長の北海道出張問題がセットで報道され、千葉県銚子市出身の私には辛い時期でした。

川上知事は「念書」を認め2月27日県議会で辞任が認められた。

2月4日、混乱する市政の中、議員の招集請求による異例の臨時会が開かれた。それは星野市長の不信任を決議するのが目的で、市長から一連の経過の釈明があり、これに全議員が質問する形になった。二転三転する答弁に複数の保守系与党議員からも「真実を話すように」との発言が出るのでした。質疑は日付を超えて続き、ついに市長は体調不良でダウン。回復には1週間との診断で17日に再開したが、市長は欠席のまま不信任案が上程され説明、質疑、討論後の採決で賛成24、反対2で可決された。

法により不信任が可決された場合、市長が辞任するか議会を解散するかを10日以内に決することになります。星野市長は2月26日に自らの辞任ではなく議会の解散を選択した。

それに伴う市議選が4月6日に行われ星野支持派は全滅となり、13日、新議員の初顔合わせが行われ、その後の全員協議会で「市長の即時退陣要求」を全議員の賛成で決めた。

4月19日星野市長は議会事務局長に「退職申出書」を提出し5月8日で市長を終えた。

5月31日に行われた市長選挙は3人が立候補し自民党の保立旻氏が当選を果した。

(つづく)

走り続けた16年(257)

革新の終焉と保守の復活

永利友喜市長が2期目の当選を果たした翌昭和51年度一般会計決算で小金井市の人件費比率が全国ワースト1位である事が52年11月24日の日本経済新聞が報じました。これは、全国662市の財政状況の調査結果で小金井市の人件費比率が45・2%と全国最悪であることが一面の見出しと見開きの2面を使っての報道に驚かされました。(因みに、私が16年間の市長の任期を終えた時の人件費比率は15・33%でした)その後も永利市政による人件費比率全国ワーストが改善されないことから、組合主導の革新市政、次第に市民の不満の声が高まってきました。

昭和54年4月の市長選挙は三期目を目指す現職の永利市長に対するのは前回惜敗した自民党の星野平寿氏で、行財政改革を公約の中心に据え、自民、公明、民社、新自クが推薦・支持する選挙体制となりました。

星野氏は生まれも育ちも小金井の生粋の小金井人で、大学卒業後小金井町役場に入所して25年、建設部長などを歴任していました。前回の選挙が552票差の惜敗だけに今回に備えての満を持しての戦いとなりました。

この市長選の直前に行われた知事選では鈴木俊一氏が当選し、12年振りの保守都政の復活となりましたが、小金井市においては社・共の推す太田薫氏が鈴木氏を700票上回るという結果でした。

星野候補の選挙公約は人件費問題を解決するため職員200人の削減を謳っていました。

結果は、星野氏が永利市長を約4千票上回る得票で当選し、2期8年続いた革新市政にピリオドが打たれ保守市政が復活しました。

昭和54年5月1日の初登庁は思いもよらない驚くような形の展開となりました。市役所前庭の慰霊碑の傍に設置した仮設ポールに「日の丸」を掲げ、星野市長の初登庁を激励する大勢の市民とともに「君が代」の斉唱が行われたのです。

また、職員への第一声の「労使間で今日まで慣習化された諸件については白紙に戻します」との発言等は、新市長の初登庁を取材するマスコミには「タカ派市長の出現」と格好の話題提供でした。

先ず手始めに、市の始業は8時30分だが、交通事情を考慮して8時45分までは遅刻扱いにしないという慣行があり、革新市政下では8時45分までに出勤すれば問題ないというルーズな慣習でした。これを、8時30分の時間厳守で1分でも遅刻は遅刻と徹底しました。組合側は、1分間が19円に当たるというなら昼食時や閉庁後の電話応対も超過勤務に加えるのかなど理屈を並べたが、これは当然新市長に軍配が上がりました。この通告後は恒常化していた遅刻はなくなりました。

さらに、タカ派市長は、昼休み窓口の開設や名札の着用、財政再建のための審査会の設置など次々に打ち出す施策に、職員組合とは全面対決の様相でしたが新聞やテレビ、週刊誌などが飛び付き、マスコミに多く取り上げられて注目を集めることになりました。

星野市長は助役に大久保慎七氏を指名し6月19日の市議会で同意を得て就任しました。大久保氏は長い間、組合主導の市政が続く中でも時流に流されず、一貫して与えられた立場での主張で組合とは常に緊張関係に有り、組合の機関紙ではいつも厳しい批判の対象となっていました。

(つづく)