走り続けた16年(239)

謹賀新年

新年あけましておめでとうございます。希望に満ちた新春を健やかにお迎えのこととお慶び申し上げます。

昨年のご厚誼に感謝申し上げるとともに、本年も本欄をご愛読いただきますよう宜しくお願いいたします。

昨年を振り替えると新型コロナウイルスの感染とロシアのウクライナ侵攻が世界中を不安に陥れ、それが本年への持越しになってしまったのが残念です。少しでも早くコロナ禍が収まることと、プーチンの狂気の野望が打ち砕かれて終結することを願うばかりです。

小金井市においては西岡市長の市立保育園廃園のための条例改正を議会の議決を経ることなく「専決処分」したことに対し議会に承認を求めたが、賛成2反対20人で不承認となりました。市長はそれに対する対応策を示せず、辞職の道を選択しました。対応策としては元に戻すだけでいいのです。議会は市長案の廃園に賛成の議員が多数を占めているのであり「専決処分」という強行手段が問題で、丁寧に進めれば何ら問題になる案件ではなく、議会対応の稚拙さも影響しました。

新たに就任した白井亨市長の選挙公約は、市立保育園の存続でした。このことから、最初の定例会である12月議会で廃園になっている条例を元に戻す、市立保育園存続の条例改正案を議会に提案したが本会議で否決され、西岡前市長が専決処分した条例が継続されることになりました。

複雑に入り組んだ展開となりましたが、市長選挙での公約の第一であった市立保育園の存続について、白井市長が今後どの様に対応していくのかが注目されます。

明るい話題は、サッカーW杯カタール大会でした。日本チームの大活躍でテレビに釘付けとなり、多くの感動が展開され世界中に夢と希望を与えました。

本年は3月の世界野球大会です。米国で活躍する大谷翔平選手やダルビッシュ有投手等日本人大リーガーの活躍で、再び日本中が熱狂することでしょう。

一方、市民にとって最も身近で重要な市長選挙が最低の投票率になったのは、西岡市長の突然の辞職によることや革新系候補の争いになったことによるものであり、市民の目が市政から離れてしまったことは問題です。

小金井市は市民の担税力が全国トップクラスにあるなど、非常にポテンシャルの高い町です。これを、いかに顕在化させるかです。

私は、平成11年市長就任以来、多くの課題解決とともに、市民が愛着と誇りの持てる小金井市を創ることに腐心し、数々の改革を進めました。

また、平成20年、東京都市長会の政策調査部会長に就任し、市長会の各自治体への共通政策として多摩の知名度アップを目的に「多摩シティプロモーション」を提言しました。その一環として平成25年の「東京国体」が「東京・多摩国体」となり、多摩・島嶼地域を中心に行われ、多摩シティプロモーションの展開となりました。

白井市長の課題である新庁舎建設には、地元のスタジオジブリや日本の標準時を発信する貫井北町のNICT国立研究開発法人・情報通信研究機構等の協力をいただき、JR中央線を利用する人々の目にふれる事により「小金井シティプロモーション」の広告塔になることに期待したいものです。

(つづく)

走り続けた16年(237)

新市長に白井亨氏

西岡真一郎市長の突然の辞職による市長選挙と市議会議員補欠選挙が11月27日投開票され、市長には白井亨氏が、市議補選の2議席は河野麻美氏と高木章成氏が当選しました。

市長選の白井氏の得票は2万7千251票で、共産党推薦の小泉民未嗣候補の7千1票とは大差となりました。

問題は、白井、小泉の両候補とも革新系であり選挙公約に大きな違いがないことから、盛り上がりに欠ける選挙になったことです。

また、自民党が候補を擁立することができなかったことで、選択肢が限定されたこともあり、投票率が34・25%で前回の市長選を5ポイントも下回り過去最低を記録し、無効票も2千票を上回ってしまいました。これは、西岡市政を支えてきた与党議員や支援者も積極的に参加できる状況になかったことも一因と思われます。

自民党にとっては市長奪還の絶好のチャンスであり、市議会議員等からの立候補が期待されましたが果たせませんでした。

一方、保守系と目される候補者出馬の動きもありましたが、告示日直前に体調不良で立候補を断念したことから革新系同士の戦いとなってしまいました。結局、政党に属さない白井氏に保守票が流れる結果となりました。

また、定数2議席の市議会議員補欠選挙は市長選に候補を擁しない自民党推薦の河野氏が1万5千926票で当選し、2議席目は市議会単独会派の3議員が推す高木氏が9千301票で当選しました。白井氏のグループ「小金井をおもしろくする会」に属する永鳥太郎氏が9千267票と34票差で苦杯を嘗めました。

市議補選の河野氏は告示の1週間前に出馬を決意し、そこから事務所の開設、ポスターの写真撮影と制作、選挙車の準備、政策のとりまとめ、立候補の手続き、5歳と3歳の男児の母としては超多忙なスケジュールの中での選挙となりました。短い準備期間で、市長候補と共闘できないにも係わらず約1万6千票は大善戦であり、この1万6千票は市長選では白井氏に投じられたと思われます。それは、同じグループ「小金井をおもしろくする会」に属しながら、市議補選の9千票と市長選の2万7千票との差にあります。市議補選トップの河野票に永鳥氏の票を加えると、ほぼ白井氏の票に近いものになり、自民党は市議補選で存在感を示し、面目を保ったということになります。

前市長が議会の議決を経ず専決処分した保育園の廃園問題は、議会の不承認にもかかわらず現在も廃園に向けた事務作業が進んでいます。白井市長は専決処分前の状態に戻して廃園の事務作業を止める条例改正案を市議会に提出する考えを示していました。職員は市政トップの言動に翻弄されています。

白井新市長は就任初日の28日の記者会見で選挙戦の公約に掲げた市立保育園廃園計画の撤回や新庁舎建設問題について、具体的な日時は示さず、「市議会などと各種調整をしてタイミングをみる」と述べるに止まった、と報じられました。議会を知る新市長としては慎重なスタートを切ったようです。

新市長には保育園の廃園問題、新庁舎建設計画や都市計画道路の建設問題など諸課題が待ち受けています。

市民の期待に応え、安定的に発展する市政が期待されます。

(つづく)

走り続けた16年(216)

小金井市長選挙

大久保慎七市長が引退を決めた小金井市長選挙は平成11年4月25日に執行され、民主党代表菅直人氏の公設第一秘書で事務局長の久保田俊二氏四七が民主党の推薦で、共産党市議会議員8期の大鳥竜男氏六〇が共産党推薦で、また、無所属の鈴木敏文氏七四と自民、公明、自由党推薦の私稲葉孝彦五四の4人の新人が無所属での争いとなりました。

小金井市の課題は危機的状況の財政問題であり、遅れている中央線の高架化と駅周辺の整備や介護保険の導入などで、各候補とも共通認識でも、大鳥氏は共産党の主張で、鈴木氏は独自の選挙戦で、久保田氏と稲葉は大きな争点はなく、後は組織力と候補者の実行力が問われることになります。誰が勝っても少数与党という議会構成で、厳しい議会対応が強いられることになります。

久保田氏は、民主党代表であり地元衆院議員の菅直人氏や小金井市選出の藤川隆則都議会議員の支援を受けました。久保田氏は神奈川県座間市議を3期務めた後、厚木市での市長選や県議選に落選し、地元では次の衆院選出馬が取り沙汰されていたようです。

一方、自民党は低迷を繰り返し、私が市議会初当選の昭和60年は10人の同志でしたが、平成元年は8人、5年は6人、そして、9年は4人と選挙の度ごとに2人ずつ減らすという状況で組織力の低下が指摘されてました。

しかし、この市長選挙は議員を中心に自民党、公明党の組織がフル回転で運動を盛り上げてくれました。元々自民党員の私に公明党の支援は力強いものがあり、その後の中央線の高架化や駅周辺の整備、財政再建、ごみ問題の解決など、市長としての16年間も変わらない自民党、公明党の支援が課題解決に繋がったとの思いです。

選挙戦を通して、小金井街道と北大通りの交差点に面する建築中のマンションの最上階に不審な人影が連日目撃されていました。その場所は、私たちの選挙事務所と相手方の選挙事務所の双方を見るに最適の位置で、警察官ではないかと話されていました。投票日に投票箱が閉まった後、何が起こるのか、と話してました。その結果は、相手方の運動員募集のチラシが警視庁の目に入り、電話作戦の運動員に報酬を支払った選挙違反で、事務所に警察が入る結末となりました。

選挙の結果は、稲葉1万4209、久保田候補が1万3600、大鳥候補が6868、鈴木候補が2334。激しい選挙戦は僅か609票の僅差の結着でした。選挙事務所では大勢の支援者の人々と、万歳で喜びを分かち合いました。

当選が確定し日付が変わる12時、大久保慎七市長の任期が終え、「後は任せた」と笑顔での引継ぎになりました。一般的には市長選挙は任期前に余裕をもって行われるのですが「地方公共団体の議会の議員及び長の任期満了による選挙の期日等の臨時的特例に関する法律」により統一地方選挙の期日に合わせての選挙となります。統一地方選挙で当選した市長の任期は5月1日から始まるのが常ですが、小金井市長の任期は4月26日、投票日の翌日から始まります。

一段落の後、武蔵野市長選で5選を果たした土屋正忠氏の三鷹駅北口の事務所を訪ねお互いの当選を祝福し合い、話は時間を忘れて続きました。

(つづく)

走り続けた16年(168)

【今、市政で何が】

西岡真一郎市長は平成27年12月の市長選挙で「市庁舎、福祉会館、図書館等6施設を複合化し、それに要する建設工事費は67億円で新たな市民負担はない」という選挙公約で当選しました。しかし、その公約は就任間もなく2転3転、5か月後には「私の揺るぎない方針とする」との発言内容で超目玉公約の図書館は消えてしまいました。また、10か月後には「ゼロベースで見直す」と表明し「今後、市民、議会、行政が一体となって進むべき方向を定める」との考えを表明。これにより、選挙公約は白紙撤回となりました。

その後、紆余曲折の末、平成30年6月議会に提案された庁舎・福祉会館建設の基本設計委託費の補正予算に、14人の議員が付帯決議を付けて賛成に回り、基本設計に着手することができたのです。

その基本設計が整ったことから、市民への基本設計に関する説明会や本年2月の市報で基本設計(案)を発表し、パブリックコメントにより多くの市民から多くの提案や意見が寄せられました。しかし、それに対する対応は十分とはいえず、形だけのアリバイづくりの感もありました。

市長は、設計の最終段階である実施設計を予算の可決を理由に、本年6月2日実施設計の業務委託契約を締結し、12月以降は設計変更はできないと発言しています。しかし、先ず市民から寄せられた提案等に誠実に対応する必要があります。

市民からの意見の多くは、①市民のためのひろばの設置。②福祉会館も庁舎同様、安全性の高い免震構造に。③建設工事費と工事期間の縮減。④小金井市のシンボルとなる大時計の設置などでした。

こうした意見を十分に反映させず実施計画に入ることは、何のための説明会やパブリックコメントだったのかが問われます。

市長案のL字型の建物は、3階建ての福祉会館が6階の市庁舎の北側に位置し、それが、庁舎に食い込むような設計になっていて、建設費、メンテナンス、防災、日照等を考えると、この設計は無理があり、意味のない設計者の遊びのようです。

現在、市民団体が建設計画案を提案しています。これは、本年2月の説明会での一市民の提案で、内容説明にも応じず、やっと議員の斡旋で10月下旬になって短時間の面談が実現したようです。

市民団体の案は、庁舎を10m程北側に移すことで、南側に陽の当たる3千平方メートルの広場が生まれます。また、建物をL字型からI字型に変えれば、全面南向きで大震災に対応するため、庁舎だけでなく福祉会館も理想とする免震構造にすることができます。

また、建設工事費は大幅に削減され、工事期間も短縮される計画であり、市長案の問題点が解消されることになります。

今後50年以上にわたり使用していく市民の庁舎です。時間切れによる見切り発車でなく市民等の意見を十分に反映させて進めていかなければなりません。

日本の標準時が貫井北町の情報通信研究機構から発信されているのは、小金井市の誇りであり、魅力発信として新庁舎に電車から見える位置に大時計の設置をしたいものです。その資金集めにはクラウドファンデングの活用も考えられます。

(つづく)

走り続けた16年(165)

大久保市政【施設管理⑥】

昭和62年9月定例会は、小金井市の難題である学校施設管理等が市議会で激しい議論になりました。これは、与党の私にも歓迎するものでした。それは、学校等施設管理職場は民主的職場に変える必要があり、財政的にも早急な改善が必要と感じていたからです。

この定例会での議論を踏まえ「学校施設管理に関する決議」が議員提案されました。

内容は、

『学校施設管理に関し次の事項を強く求めると共に早期解決を望む

①部課長による(学校の)宿・日直は中止し、市民の納得を得られる施設管理方法を早期に見い出すこと。②施設管理業務を適格に遂行するため、分散している施設管理係事務室を一か所に集中すること。③以上の事項を話し合う間、現職員に負担のかからない方法で対処すること。以上の事柄は当面の緊急避難であり、行政としては法を遵守する中で労使の信頼関係を一日も早く回復し、将来に禍根を残すことは厳に避け、根本的な解決を図ることを強く求める』というもので共産党を除く全議員の賛成で議決されました。

小金井市職員組合は西の京都、東の小金井と称される程強力で、委員長の朝熊(仮名)氏は、年齢給の導入、現業、非現業の賃金格差の解消。清掃、土木、施設警備、庁内清掃など革新市政のやり易さもあり、次々に現業職の直営化を実現したことから、その恩恵を受けた職員の中には信奉者も多く生れ、その権威は絶大で、市には2人の市長がいると言われ、「影の市長」とか「朝熊天皇」と呼ばれていました。

朝熊氏は市が職員採用を公募で開始して入所し、間もなく組合を再建し委員長に就き、昭和37年、年齢別最低賃金制度(年号から37協定という)で労使が合意する。これはいわゆる年齢給であり、多くの職員がその恩恵を受けたのですが、市財政を35年間に渡り蝕むことになるのです。これは、多摩各市にも拡散されました。37協定については後日詳しく報告します。

昭和38年4月、鈴木誠一市長は朝熊委員長を解雇しました。しかし、市議会での懲戒免職についての質疑に、具体的理由は示されず「業務命令違反」を繰り返すばかりであり、手続き的にも問題があったことから、組合の首切り撤回運動が続き、5年後の昭和43年4月、関綾二郎市長の時、都人事委員会の斡旋もあって、復職することになりました。これによって朝熊委員長の地位は不動のものとなり、組合は一層強固なものになるのです。

職員組合は朝熊氏の主導の下、活動はさらに過激になるが、それは、当局の力量不足も大きな要因であり、市民不在の中で朝熊委員長の要求に屈していくのであり、それを覆すための、冒頭の決議の㈪になるのです。

朝熊氏の事務室は、本庁舎前、現在の前原暫定集会施設の位置にあり、市民にも職員にも全く目に触れない場所で、本来の基準の倍くらいの広さの個室で係長の本人と、外村(仮名)職員と2人で仕事をしてました。議会の質疑の中で2人の1日の仕事量は15分程度の引き継ぎであるとの答弁には唖然としました。この2人の職員には、職員としての当然の責務を果たさせるための決議でした。

(つづく)