さくら通信

職員とのランチタイム

昭和60年から14年間の市議会議員時代、私は徹底して職員組合と対立してきましたが、職員との信頼関係は築いてきました。

しかし、財政再建には職員組合の協力なくしては果たせません。

職員組合の立場は尊重するが、労使交渉等での精神的、肉体的苦痛を伴い、自尊心を傷つけるような暴力的言動は許さない。また、労使関係に配慮し、歴代市長が黙認してきた罵詈雑言も許さない。と、私は組合に伝えました。

それは市民により選ばれたものの、誇りと責任だと常々感じていたことなのです。

労使がお互いの立場を尊重することで、財政健全化が進みました。

長かった議員時代もあり、1000名近い職員の名前はほとんど覚えることができました。

そのため、私は職員を役職で呼ぶのではなく、苗字で呼んでいました。

昼食は、第2庁舎の8階にあった軽食堂で職員とともにしました。

しかし、この軽食堂は採算が合わないことから、撤退され後を引き受ける業者もなく閉鎖したのは残念でした。

それ以降の昼食は市役所近くの店で済ませ、職員がいれば同席して意思の疎通を図り、料金は公選法等も念頭に私が負担させてもらいました。

時間がある時は、第二庁舎7階の教育委員会から下の階へ全部の課を回り、ひとりひとりに声を掛けるなど意見交換をしました。

また、庁内放送を使ってその時の課題や私の考え方も伝えました。

兎にも角にも、職員の理解なくしては財政再建は果たせません。

職員とも職員組合とも、信頼関係の構築に努めました。

職員組合もトップが変わり、民主的な組合に変身しました。

その結果が、財政再建に繋がったのです。

 

走り続けた16年(255)

革新市政のガバナンス

私が小金井市に転入して来たのは昭和48年9月で革新市政の真っ直中、市役所の中では信じられない驚くようなことが続々と起こっていたことを後で知ることになります。

昭和49年3月、1年を通して最も重要な定例会が行われている14日、本会議開会のコールがあり、議長や議員、そして、職員も席に着いているのに市長が現れず議会が開けない状況でした。原因は何と、警備員の正職化を求める組合員により市長が市長室に軟禁状態だったからなのです。

また、昭和49年8月7日の第4回臨時会で永利市長は議員の質問に「5月27日午前9時頃、東庁舎入口で市の警備員多数が私を取り囲み、ネクタイや胸ぐらをつかみ足蹴りで左足に打撲を受け全治3週間の診断を受けたのは事実です」と答弁。さらに、「労使慣行の正常化と本人の生活権と将来を考え(法的)手続きはしない」と答弁しています。

警備職員の正職化を求めて、一部職員は暴力を使ってでも要求を通そうとするのです。これに対し市長は報復を恐れてか、不問に付すのです。考えられない対応です。その後、警備員は正規職員として採用され37協定(年齢給)の恩恵に浴することになります。

さらに、49年夏、一般職及び管理職の人事異動を、一般職は7月10日、管理職については7月15日の予定が調整に手間取り、結局27日に同時発令となりました。それも、市役所内で辞令を渡すのでなく、市長の自宅に呼んでの交付です。また、対象の部課長には、深夜から28日未明にかけて市長と助役が自宅を訪ねて辞令を手渡すという全く考えられない異常な手法で辞令が交付されたのです。

それは、この人事異動に不満を持つ職員組合が辞令撤回の猛烈な反対運動を扇動し、庁内を大混乱に陥らせていたからです。

職員組合の過激な行動で市長自身が登庁できないという混乱の状況も起こりました。

市長は当然人事権は市長の専権事項であり組合の要求を拒否するが、革新市長と組合の対立は続き、辞令をもらった部課長は身動きが取れず、日常業務にも支障が出てくる始末でした。その結果、この辞令も組合の不当な要求に屈服し、8月10日管理職の異動を全面撤回する始末でした。

さらに、革新市政2回目がスタートして間もない昭和50年7月、夏のボーナス交渉が難航してることから組合は保育園、学校給食、浄水場を除く全職員に「一斉半日休暇」の実力行使を指示しました。これに対して市長は「業務に支障を来すので一斉休暇は認めず拒否するように」と41人の課長に命じました。しかし、全課長が市長の業務命令に背き、組合の意向に従い半日休暇を与えるのでした。

この異常な状況は、多くの真面目な職員のモチベーションにも影響を与え、人件費は増えるが、勤労意欲は減退し、市民には踏んだり蹴ったりでした。

市長は市民に選ばれた市民の代表です。選ばれた者の誇りと責任を持つのは当然です。私人の永利氏なら判断は別ですが、公人である市長が不法な暴力に屈することは到底許されません。まして、市長が職員からの暴力で行政がねじ曲げられることは想定外で、絶対に許されません。

革新市政の2期8年は全くガバナンスが働かなかったのです。

(つづく)

走り続けた16年(244)

三七(さんなな)協定って何?

昭和33年の市制施行を契機に市職員を公募で採用することになり、その公募で入所した20代前半の若い職員により、昭和36年1月御用組合が闘う職員組合に変身して再結成。同時に自治労に加入し全国的な公務員共闘の第一次賃金闘争に参加し、自らの独自要求を押し通す等の成果を上げたことから組合活動はいやがうえにも盛り上がりました。

組合との団体交渉には同年の昭和36年12月23日、助役に就いたばかりの関綾二郎氏(二代目市長)が当りました。初代の鈴木誠一氏と二人の市長には私も長い間、ご指導をいただきました。この大先輩を私が評するのも如何かとは思いますが、鈴木市長の「剛」に対し、関助役は「柔」という感じでした。

自治労の第二次賃金闘争に取り組むため、小金井職員組合が昭和37年1月の臨時大会で決定した方針は、その後長く小金井市財政に大きな影響を及ぼすことになりました。

組合の発想は「賃金は生活給であり、課長だろうが現場の平職員だろうがサンマ一匹、大根一本の値段に変わりはない」との主張で、誰でもが一定の年齢になったら差別なく最低の保障を受けるための「年齢別最低賃金制度の導入」を打ち出してきたのです。

若く経験の少ない執行委員は問題があれば職場懇談会(職懇)等を開いて協議することから要求は次第にエスカレートしました。

2月に入り組合は勤務時間に食い込む違法な職場大会も開きました。3月、市長が出席した団体交渉の中、組合側の要求である「年齢別最低保障」を容認する発言が出されました。その後、当局はこれによる財政負担が高額になることから到底受け入れられないとの認識に至りました。再度の団交で、当局側は文書による確認に至っていないことからこの問題から逃げたが、組合は食いついて放さない状況が続きました。日付が変わってから市長は助役に一任して帰宅しました。明け方まで続いた団交で当局が組合の要求を一部押し返した形の妥協案を示し、組合の意向を打診し組合もこの内容で妥結しました。

その後、登庁した市長はこの妥結内容に不満を示し、容認しなかったとのことです。

この覚え書の標題には「小金井市長と自治労小金井市職員組合執行委員長との協議事項にかかる結果について(覚え書の交換)」とあり、文頭は「東京都小金井市長鈴木誠一を甲とし、自治労小金井市職員組合執行委員長M・Yを乙として、甲乙協議の結果次の通り覚え書を交換する」とあります。

その内容は、10項目の合意事項が列記されており、その4に「年齢別最低保証賃金制度の実施は不均衡の是正の措置を含め、全職種を通じて別表2の初任給基準表を用いるものとし、同表により在職者調査を行う」とされており、5で「経験年数換算分の調整の実施は昭和39年度までに完了するものとする」とあります。そして、合意日は昭和37年3月6日と記されており、この覚え書により小金井市の給与体系は年齢給となり、平成9年の職務給導入まで約35年間、人件費問題が小金井市財政に重くのしかかることになったのです。

この覚え書はいわゆる「37協定」と呼ばれますが、不思議なことに、この文書には市長印がないのです。

(つづく)