走り続けた16年(240)

区画整理への道⑥

私が政治生命をかけて東小金井駅北口土地区画整理と武蔵小金井駅南口の再開発に取り組んだのは、両事業とも行政や市議会で調査研究は進むが、具体化する度に頓挫が繰り返され、両駅ともJR中央線新宿から八王子間で最も開発が遅れているということを自他ともに認めざるを得ないような状況からです。

東小金井駅北口は歩車道の区別が無い981平米と狭い駅前に、路線バスやタクシー、自転車、送迎の自家用車が乗り入れられ、その間を縫って通勤・通学の電車利用の歩行者が交錯するのです。この様な状況は昭和39年の開設以来30数年も続き、その改善には区画整理事業が必要でした。

同事業に反対の議員からも駅前整備は要望されました。因みに、区画整理事業の進捗で駅前広場は現在4千400平米と約4・5倍になり、やっと駅前広場の様相となりました。

また、市の税収構造を変えるためにも街づくりが必要でした。

この区画整理事業の総事業費は170億円で、そのうち国と都からの補助金は110億円で市の負担は60億円であり、これは、市の年間15億円超の都市計画税を考えれば決して困難な数字ではありません。

小金井市民の担税力は常に全国でトップクラスでありながら、税金は全国ワーストの人件費に費やされ街づくり等市民サービスに回す財源が不足し、市民が納めた国税や都税は納めっ放しで補助金等として小金井市に戻ってくるのは僅かで、他市の事業等に回されてしまっていました。

その区画整理事業に必要な「施行規定を定める条例」が平成10年9月議会に大久保市長により提案されましたが議決が得られず、翌年4月私にバトンが渡され、反対の多い区域内地権者の理解を得るため連日夜討ち朝駆けの交渉が続きました。

10月29日、都と私との話し合いの中で、建設省と都が小金井市の区画整理について協議の結果『補助金の申請は11月10日を最終の期限とし、議会の議決が得られなければ今後、都は国に対して本要望を行わないことで合意した』と伝えられました。最後通告です。

職員も私も種々の困難があってもこの区画整理は何としても進めなければと行動したのは、2年に渡って補助金を流しており、ここで再度流すことになれば区画整理は消滅し、国や都の市への特別の配慮も無にすることになり、JR中央線の高架化や武蔵小金井駅の再開発も影響を与え、今後の市政運営全体にも悪影響を及ぼすことから、私が先頭に立ち全庁一丸となって取組み、大きな成果を上げつつありました。

11月5日に開かれた特別委員会は日曜だけを休会し4日連続の質疑となり、その間の8日、都は有識者による「事業評価委員会」を開き、事業採択後5年を経ても未着工の公共事業を継続させるか否かの判定で、市職員の熱意が通じ区画整理は市議会の動向を見ての判断となりました。

そして、国や都、近隣市やマスコミ注目の中、9日未明の特別委員会でついに可決。翌日、急遽臨時会を招集し、本会議での採決で原案可決となり午後10時20分閉会しました。

これは、ただ単に区画整理事業の進展だけでなく、半世紀にわたって反動的状況にあった市政全体に風穴をあけることになり、その後の市政改革に大きな影響を与えました。

(つづく)

走り続けた16年(229)

区画整理への道②

JR中央線の高架化には東小金井駅北口の土地区画整理事業の推進が必要でした。

区画整理事業とは、駅前広場や道路、公園など公共施設を整備することで所有する土地の評価が上がった分を所有者から土地で提供していただき、それを整備に使うもので『土地のタダ取り』と喧伝されることになり、地権者の理解を得るのは厳しいものです。

市は平成6年度に、部課長を中心とした本部員が地権者に戸別訪問で理解と協力を得るべく説明を重ねました。その結果、平成9年4月1日現在、地権者は189人であり、賛成が70%(土地面積90%)、反対が24%(〃8%)であり、その他6%(〃2%)であると市議会に報告がありました。それを基本に進めてきたのが、平成9年1月に制定された情報公開条例に則り反対地権者が自己情報の開示を求めた結果5名が賛成にカウントされていたことが判明。また、賛成の中には市や市の土地開発公社、都や区画整理関連の6団体が。さらに、29人の区分所有者の集合住宅は管理組合の代表の意向だけで全員を賛成でカウントするなど不適切な対応があり、野党議員からの杜撰な調査との指摘に反論の言葉もありませんでした。

平成9年、10年と2年続けて内示のあった国庫補助金を取下げるという異常な状況に、再度予算が付くか不安視されたことから佐藤義明市議と都の区画整理課へ予算要望に走ったのは平成11年1月のことでした。

市が区画整理事業を施行する場合、法の規定により「土地区画整理事業施行規程を定める条例」を市議会で議決しなければなりません。それを大久保市長は平成10年9月議会に事業に必須とされるその「条例」を提案しました。9日から10日未明まで本会議で質疑され、更に、24日の本会議での質疑後、特別委員会(特委)に付託され、同日の特委での質疑も「地元地権者の理解が得られてない」という入口論に終止し継続審査となりました。11月20日の特委でも保留。12月定例会中の16日、21日の特委でも可決に至らず平成11年1月28日に継続されましたが、なかなか条例の中身の質疑に入れず、必要な前進が全く見られませんでした。

この様な状況の中、大久保市長は2月5日の記者会見で4月25日の任期を以て引退することを表明しました。

東小金井の区画整理の進捗を待っていた東京都も待ちきれず、仮線用地が一定確保できたことから3月18日武蔵野市スイングホールで中央線の高架工事の着工式を行いました。そのため、市議会の一部には「区画整理の進捗にかかわらず高架は進むので無理に急ぐことはない」との発言が出る始末でした。

大久保市長から引き継いだ市政、まず取り組むべき課題はこの東小金井駅北口の区画整理事業の推進でした。

「地元地権者の過半が反対している状況では質疑に入れない」というのが市議会の大勢でした。何としても『施行規定を定める条例』は可決させなければならないのです。そのため反対の地権者にも理解をいただくための努力が必要です。

4月26日市長に就任した私は、その直後の大型連休が終えるのを待って地元地権者の理解をいただくため、土・日を含めて毎日戸別訪問を行うことを内外に宣言しました。

(つづく)

走り続けた16年(34)

苦闘する庁舎問題⑤

平成3年12月、市は土地開発公社を通じて120億円の蛇の目工場跡地を取得しました。その頭金として庁舎建設等の基金を使い果たし、用地は確保したが庁舎建設の着手には至りませんでした。

そのため、緊急避難として大久保慎七市長は、議会の同意を得て市役所第二庁舎を建設してもらい10年の契約で貸借しました。しかし、バブル経済の崩壊は、庁舎建設基金の積み立てどころか用地取得の借入金の返済も滞る状況に陥りました。

そのため平成11年市長に就いた私は、平成12年3月の議会に、武蔵小金井駅南口再開発事業に伴って第二地区内に都市基盤整備公団の保留床に建設される庁舎を、市有財産の運用と公団の割賦償還制度を使い92億円で取得する計画を提案しました。

これにより、再開発事業が円滑に進み庁舎問題も解決できることで、市議会3分の2強の議員の同意を得てのスタートでした。

しかし、再開発第一地区の事業の遅れや、選挙による議会構成の変化、議員の考え方が変わるなどもあり、第二地区への庁舎建設は思い通りには進みませんでした。120億円の用地費を加算せず蛇の目に建てれば40〜50億円で済むとし、用地費を含む駅前庁舎92億円の無駄遣いとの喧伝もありました。

リース庁舎は解決すべきとの主張はあるものの実現可能な対案を示すことができず、第二庁舎の賃貸契約が平成15年で満期になっても、さらに5年間継続をしなければなりませんでした。

さらに、平成16年第1回(3月)定例会で平成16年度一般会計予算が本会議の採決で可否同数になり、議長裁決により否決されました。否決の原因は、再開発と東小金井北口土地区画整理事業の予算が組み込まれていることへの反発でした。

そのため、国や都、都市公団も再開発を諦め、小金井市から撤退することを考え、市に対して、損害賠償請求の準備に入ったといわれました。そのため、私は臨時に市議会を開いて予算を通すことの強い決意を伝え、国や都、関係団体に協力を依頼しました。

あらゆる手を尽くして開いた5月24日の臨時市議会。改めて3月と同様の予算を提案しましたが、議会の理解が得られず否決され、再度の暫定予算になりました。

何度も挫折した小金井市の街づくりのラストチャンスです、JR中央線の高架化にも影響を与える再開発や区画整理等、諦めるわけにはいきません。小金井100年の街づくりは何としても果たさなければなりません。

市民は、この街づくりに期待しており、議会の対応とは乖離(かいり)があるというのが私の思いでした。

6月4日、任期を3年残して市長を辞職し、再選挙により市民の考え方をお聞きすることにしました。

選挙の結果は、街づくりを進めるべき、という民意がはっきり示されました。その結果、武蔵小金井駅南口第一地区の再開発が平成23年度末に完成し、東小金井駅北口の区画整理も大きく前進することになりました。

(つづく)