さくら通信

自民党幹部に届かぬ国民の声(3)

衆議院選挙での国民の厳しい審判は、裏金問題に象徴される派閥政治への批判であり、立憲民主党が勝ったというより自民党が自滅したのです。

今後、国会で不十分な裏金の解明とザル法と揶揄される、政治資金規正法の改正が必要です。

また、公開が不要な政治活動費や、国会議員に毎月支給される100万円旧文書交通費は公開すべきです。

選挙後の会派結成で、裏金に関与し非公認で当選した4議員に「自民党・無所属の会」入りを要請し承認を得て届けられたようです。

4議員は自民党会派に入らずとも、与党とともに行動できる議員であり、国民の理解を得られるものは到底ありません。

国政の混乱の原因は、この4議員の責に帰することが大だからです。

今後、党の対応 次第では、来年7月の参議院選挙で同じ轍を踏むことになります。

国会議員の政治とカネの問題で、厳しい環境で各級選挙が行われることも、党幹部は考えなければなりません。

この一連の流れを、純真な子供たちがどのように見ているかも気になります。

私は市長在任中、市立小・中学校の卒業式には順番に出席しました。

第三小学校では、200人近い卒業生が卒業証書を授与された後、壇上から1人ずつ 将来の夢を話しました。

それは、プロスポーツ選手や医師、看護師、保育士、教師、花屋さんやケーキ屋さん、宇宙飛行士等など多彩です。

しかし、政治家はありません。

その後の私の挨拶で、「政治家がいなかったのは残念」に、保護者や来賓席から失笑が漏れました。

私はめげず政治の重要性を話しましたが、今だったら「政治家を目指せ」と言えるかどうか。

さくら通信

自民党幹部に届かぬ 国民の声(2)

岸田文雄首相の政治改革は、保身のためか国会議員の顔色を伺う中途半端なもので、国民の期待に応えられるものとはならず、支持率は下がり続け、衆院選挙があれば下野することも考えられた。

岸田首相は自民党総裁として「政治とカネ」の責任を取り、総裁選への不出馬を表明した。

もし総理・総裁を辞める覚悟があるなら、国民の期待に沿った思い切った政治改革ができたはずでした。

岸田総裁が立候補を辞退した自民党の総裁選は、40歳代の若い候補者ら9人で争われ、派閥の領袖の影響を排除した新しい形の総裁選となった。

当選した石破氏は、党内野党と言われてきた人でした。

総理大臣に就任した石破氏は、総裁選挙時の発言を翻し、就任 8日後に最短での解散、総選挙となった。

これは、総選挙前に国会での「政治とカネ」の追求を避けるのと、野党統一候補の調整に時間を与えないためと思われます 。

選挙戦は、政策論争は二の次で「政治とカネ」の問題が最大の争点となり、自民党は苦戦を強いられた。

選挙終盤、非公認となった候補者が代表を務める政党支部に、党本部から公認候補と同額の2000万円が支給されたことが報じらた。

国民感情を逆なでした執行部の愚行で、当落線上にあった候補者は苦杯をなめ、その結果、与党は過半数割れの惨敗を喫しました。

さくら通信

自民党幹部に届かぬ国民の声(1)

第50回の衆議院選挙が10月27日投開票され、自民党は公示前の247議席から56議席減の191議席となり、公明党も自民党の政治とカネの逆風の煽りを受けて議席を減らし、自民党総裁の石破茂首相の目標である、与党で過半数の233議席を18議席も下回る215議席と、目標は達成されず自民党は惨敗した。

この結果は組織のトップの責任であり辞任が相当です。

もし、石破総裁が1議員であったなら当然辞任を求めたと思われるが、立場が変われば小泉進次郎選対委員長の引責辞任で済ませることには理解できません。

一旦止めた清和会 (安倍派)のキックバック(還流 )を、安倍晋太郎元総裁の死後 これを復活させたのは誰なのか、清和会の幹部は政治倫理審査会(政倫審)でも 口裏を合わせたかのように、「知らぬ存せぬ」には納得できません。

国民の信頼を裏切る政治資金収支報告書の記載問題が、昨年暮れに発覚し1年近くが経過するが、この間にも信じられないことの連続です。

不記載議員は潔白を証明する絶好のチャンスにも関わらず、整理審への出席を拒否するのは全く理解できません。

また、政治資金収支報告書の記載漏れ500万円未満は不問に付す、自民党の判断も理解できません。

問題は金額の多寡でなく、違法は違法なのです。

裏金問題に関与した議員の46人中28人が落選し、非公認の当選は3人にとどまりました。

国民の怒りや不信が、自民党にお灸を据えたのです。

走り続けた16年(207)

令和3年の終りにあたって

本年も残り僅かになりました。本欄をご愛読いただいたことに感謝申し上げます。

昨年末の新型コロナウイルスの感染拡大により、誰もが日常生活に大きな影響を受けた1年になりました。

特に、幼児から高齢者まで、学校行事や地域での行事、その年代で体験すべきものが果たせず2年間が過ぎました。今後、これらをどう取り戻していくのか、社会全体で考えていく必要があります。

コロナ禍で、開催が危ぶまれた東京オリンピック・パラリンピックは数々のドラマを生み、世界中に夢と希望と感動を与えました。

小金井市にとっては選挙の年でもありました。3月の市議選は24人の当選者は現有勢力に大きな変化はなく、西岡市長には依然として少数与党の体制が続くことになりました。

都議選は自民党が第1党に復帰したとはいえ、前回に次いで2番目に少ない当選者数で国政への逆風を諸に受けました。小金井選挙区は4年前と同じ3名が立候補し、応援する市議会議員の市議選における得票数に倣った票数で漢人明子さんが自民党の広瀬真木さんに勝利しました。

10月の総選挙は、自民党へ入党し、東京21選挙区から18選挙区に国替えした長島昭久氏が、選挙区では菅直人氏に惜敗しましたが、比例で復活し7回目の当選を果たしました。今後、地域での活躍も期待されます。

さて、私たちに最も身近な市政の課題は財政と庁舎問題です。

西岡市長は市長選挙で、それ以前の市政の行財政改革と庁舎問題を厳しく批判して当選しました。その主張が事実だったからです。

市議会において「平成11年から16年間の行財政改革については、昭和50年当時から約30年間続いていた30〜40%台の人件費比率が15%に半減され、職員はこの16年間で892人から661人に231人の削減を果たしたが、それでも、行革は進まなかったのか」との議員の質問に一転「評価する」とし、それは、今後35年間の公共施設の更新に必要な、約1千497億円を考え、行革が十分だったとは言えない、との趣旨の抗弁でした。しかし、その様は判断をする西岡市長が公共施設整備基金条例を制定しないのは解せません。私は就任時、小金井市を倒産から回避させることに全力でした。

また、庁舎問題に関しても「27年間動かなかった庁舎問題も西岡市政で動き出した」とありますが、27年前に庁舎建設用地を取得、バブル経済後の税収減の中、20年かけて80億円の借金を完済しました。その後、新庁舎建設基本構想、基本計画を作成、さらに、庁舎建設基金の9.2億円の積立をするなど、着実に動いていたのです。

私が、これを問題視するのは、行革や庁舎問題等に懸命に頑張った議員や職員の協力で達成されたのです。現在、第一線を退いたり亡くなられた議員や職員の努力の結果が曲解されるとなれば、私がその真実を伝える必要があるからなのです。

年末を迎え、コロナ禍も落ち着いてきたことで、日常生活も経済活動も次第に復活し、元に戻りつつありますが変異株「オミクロン株」の発生で緊張感も高まっています。年末年始は多くの人々と接する機会が多くあり、感染防止の基本であるうがい手洗いマスクの着用を励行し、希望に満ちた新年を健やかに迎えましょう。

(つづく)

走り続けた16年(60)

衆院選 ②

10月22日投開票された第48回衆院選は事前のマスコミの予想どおり、与党、自民・公明の両党が総定数465議席のうち、憲法改正の国会発議に必要な3分の2を超える313議席を獲得し圧勝しました。

しかし、武蔵野市、府中市、小金井市の東京18選挙区は自民党の土屋正忠、立憲民主党の菅直人、希望の党の鴇田敦の3人が立候補しましたが、実質的には「土菅戦争」と呼ばれる土屋と菅との5回目の一騎打ちの様相となりました。

選挙前の土屋が一歩リードのマスコミ報道は選挙対策の責任者である私にとっては困惑する情報発進でした。従前の選挙の菅の得票数に共産党票を加えれば、それは自ずと明らかだからなのです。

結果は、菅の9万6千713票(40・73%)に対し、土屋は9万5千667票(40・29%)と1千46票(0・44%)の僅差で菅の勝利となりました。因みに小金井市では菅の2万4千126票に、土屋は2万1千126票と3千票の差でした。従来から革新が強いとされてきた武蔵野市、小金井市であり比例代表選でも自民党は立憲民主党に及びませんでした。

土屋を支援する議員や選対メンバー、市民の方々には頑張っていただきました。敗因は転出入の多い市民に、土屋の人柄や実績、それに、これからも地域にとっても必要な人であることを伝え切れなかったことです。73歳以上は比例名簿に登載しないという自民党の規約により、東京25選挙区で最も高い惜敗率にもかかわらず、土屋の比例復活はありません。一方、菅は民進党が合流する希望の党から「排除」されたことが幸いし、塞翁が馬を感じさせる当選を果たしました。

土屋と菅との最初の闘いは平成17年8月、小泉純一郎総理主導の郵政民営化の議案が参議院で否決されたことから小泉総理による郵政解散の衆院選でした。土屋は小泉総理から直々に懇願され武蔵野市長を辞職しての立候補で、9月11日の衆院選では菅12万6千716票、土屋11万8千879票で、その差、7千837票で菅が当選しました。

この選挙で自民党は比例名簿1位に猪口邦子、2位は土屋が登載され、他の小選挙区の候補者は全員が惜敗率により復活当選が決まる並列3位にランク付けされました。そのため、土屋の比例での当選は戦う前から決まってしまいました。この選挙に関しては後日、詳しく報告させていただきます。

二度目の対決は平成21年、自民党に逆風の政権選択マニフェスト選挙で、民主党が308議席を獲得し、鳩山由紀夫による政権交代の実現、自民党は下野しました。この選挙で、菅の16万3千に対し土屋は8万8千票で落選し、3年3か月間の浪人生活となりました。

平成24年12月の三度目の対決は土屋が総理をも経験した菅に勝利したが、菅は比例で復活しました。また、自民党は294議席の当選を果たし3年3か月振りに政権に復帰しました。

3年後の平成26年12月、四度目の選挙も土屋が勝ち、菅は衆院選最後の議席となる475番目での比例復活でした。そして今回、五度目の戦いとなりました。(敬称略)

(つづく)