走り続けた16年(47)

苦闘する庁舎問題⑱

議会を代表する篠原ひろし議長の進言により、第二庁舎の取得を断念しました。

リース庁舎の解消を常に主張する議員が、取得に反対した真意が分かりません。リース庁舎を解消するには新庁舎を建設するか第二庁舎を買い取るしか方法はありません。

本来、新庁舎を建設すべきであり、それで計画を進めてきましたが、平成26年度に入り東日本大震災による被災地の復旧・復興事業や東京オリンピック・パラリンピックによる建設ラッシュ等により、建設費が異常に高騰し、55億円の計画が70億円を超えることが試算されました。55億円の捻出も困難な状況であり、無理すれば小金井市の財政を再び危機に晒(さら)すことになると考えました。

昭和50年前後の革新市政時代の大量職員採用による全国ワースト1位の人件費問題の解決には約35年の年月を要しました。

また、平成4年度に、なけなしの基金40億円を頭金に、坪単価300万円の蛇の目工場跡地を120億円で購入し、そのわずか数年後には、誰も予測できなかったバブル経済の崩壊で地価は大暴落となり、蛇の目工場跡地の資産価値は半減、一方、税収は激減し80億円の借金の返済に苦闘し、私の16年の任期の過半は借金の返済に追われ、綱渡りの財政運営を強いられました。

この蛇の目工場跡地の取得は、自民党から共産党まで私も含め全議員が異論もなく賛成したのです。庁舎問題に関しては、議会は熱に浮かされたようで問題があっても異議を挟みにくい状況があり、それが私のトラウマになっていました。

平成26年第3回(9月)定例会で、私は新庁舎建設事業の凍結と第二庁舎を18億6千万円で10月末での取得を提案しました。

しかし、残念ながら議会の反対で断念しました。それが、皮肉にも丁度2年後の平成28年10月末、民間不動産業者と第二庁舎所有者の間で売買が成立し、その金額は、小金井市と合意した金額を上回ると聞いています。

また、第二庁舎の所有者は変わりましたが、リース庁舎の契約を継続しなければなりませんでした。そのリース料は年間2億2千3百万円で月額1千8百万円、1日当たり、60万円になります。

賃料については信託銀行との交渉がまとまらず、市が議会の議決を得て裁判所に調停を申し立て、第三者機関である裁判所が公平、中立の立場で不動産鑑定を踏まえて下した金額ということです。

取得を断念してから、この平成29年6月まで約2年8か月が経過しました。その間、支払ったリース料は約6億円です。

西岡真一郎市長の計画では、新庁舎の完成は平成34年3月で、5月に引っ越して業務の開始となり、その後、約2億円をかけて第二庁舎の原状回復をし、同年の8月に返還するようです。とすれば、今後約4年10か月で約12億円の支払いとなり、18・6億円で買えたものを、これまでの6億円と合わせれば、約8年間で18億円のリース料を支払うことになります。

政治に「たら・れば」はありませんが、あの時「買っといたら」と今となっても思わずにはいられません。

(つづく)

走り続けた16年(36)

苦闘する庁舎問題⑦

小金井市最大の課題である人件費問題は、革新市政による大量職員の採用が原因で、昭和51年度の人件費比率45・2%を最高に、常に40%から30%台と35年以上の長い間、異常な状況が続きました。

私が市長に就任する前の平成10年度決算でも32・3%と、30%台が続いていました。

その後、私の選挙公約である行財政改革も欠員の補充の抑制や給与制度の改正などにより、徐々に進み、就任して12年を経た平成22年度の人件費比率は、悲願であった20%をわずかに切る19・9%となり、決算統計を記録するようになった昭和43年度以降、初めて10%台を記録しました。これは、職員の努力の賜物であるとともに、議会の理解や市民の協力の結果であり、行革の進捗の証明でした。この成果を職員とともに喜びを分かち合いました。

これにより、財政にも若干の余裕も出てきました。また、それ以降は常に10%台をキープしました。因みに市長、16年の最後になる平成27年度決算は15・3%と就任時の半分以下になりました。

平成23年度は蛇の目工場跡地購入の借入金の80億円を完済したことや、総務省が庁舎建設の起債(借金)の限度率を50%から75%へ緩和したことなどから新庁舎建設が具体化に視野に入ってきました。

これらのことから庁内に、新庁舎を建設するための検討委員会を設置し、職員により新庁舎建設基本構想(素案)を策定し、この素案をたたき台として、市民参加による新庁舎建設基本構想策定市民検討委員会を設置し、建設場所を含めた基本構想の策定を諮問しました。

平成23年3月、市民検討委員会は、市民1万人アンケート調査や、市民フォーラム等の意見を参考に、17回の審議を重ねるなど精力的に協議・検討を重ねた結果、新庁舎の建設場所を「蛇の目工場跡地」とする等の基本構想案の答申をいただきました。私は、その答申を尊重し、新庁舎の建設場所を「蛇の目工場跡地」とすることを行政決定しました。

平成23年3月11日、未曾有の大災害となった東日本大震災の大混乱がまだ治まらない4月の市長選挙で私が落選し、佐藤和雄市長が誕生しました。

佐藤市長の選挙公約は、ごみ処理経費や市民交流センター(宮地楽器ホール)の取得、そして、第二庁舎の賃貸借は無駄遣いと批判し、当選しました。

就任した佐藤新市長は5月18日、突然、臨時記者会見を開き、新庁舎を蛇の目工場跡地に平成27年中に建設し、その移転目標の平成28年1月1日から業務を開始するというものでした。

これは、佐藤市長が市長選挙で、第二庁舎の賃貸借は無駄遣いであり、早急に解消すべきであるという公約から、一方的に行政内部での協議・検討も一切せず、内容も不十分のまま、で実現の可能性のない計画の、寝耳に水の発表となり、議会は紛糾し市政は大混乱となりました。結局、この提案は撤回されることになりました。

(つづく)

走り続けた16年(35)

苦闘する庁舎問題⑥

平成3年12月のバブル経済時に120億円の最高値で小金井市土地開発公社が先行取得した蛇の目工場跡地を、バブル崩壊後、激減する税収の中でその借入金80億円を返済していくという大変厳しい最悪のパターンになってしまいました。

これは、議会も与野党を問わず大久保慎七市長に購入を求めた結果でもあります。誰もがバブル経済の崩壊を見通せず、地価の下落なども考えられず、熱に浮かされたように蛇の目工場跡地の購入に走ったのです。

庁舎建設基金等40億円を頭金とし、新庁舎建設に着手できないことから、緊急避難として、議会の同意を得て10年の契約で第二庁舎を賃借しました。しかし、新庁舎が建設できなければ、リース庁舎が続くことになり、平成15年には新たに平成20年まで、そして、25年、さらに、30年へとリース庁舎が続くことになります。

平成11年、私が市長就任以降、小金井市の行財政改革が進み、財政の健全化が見えてきた平成20年9月、再び、リーマンショックに見舞われました。それは、世界経済に大きな打撃を与えましたが、小金井市など基礎自治体も税収減等大きな影響を被りました。

私は、従来から庁舎建設は市の政策の優先順位は決して高くないと考えており、市民施設が優先されるべきと考えていました。

庁舎と福祉会館を比べたら福祉会館が優先するというのが考えでした。ただ、小金井市の場合は賃借庁舎であるという特殊事情が、庁舎建設へと向かわせました。

蛇の目工場跡地が、完全に小金井市の所有になったのは平成23年度で、借金の返済に約20年を要しました。また、同年総務省は庁舎建設のための起債(借金)の限度率を、建設事業費の50%から75%に緩和したのです。

10億円の自己財源があれば40億円の庁舎を建てることができるのです。就任時40万円の庁舎建設基金は約4億円となり、これを早急に10億円にするのが当面の目標でした。

また、財政調整基金は就任時の70万円が約16億円になりました。

庁舎建設が見えてきたことから、庁内に新庁舎建設基本計画市民検討委員会を立ち上げ検討に入りました。

庁舎の建設場所について、議会は蛇の目跡地と再開発第2地区に二分され、また第二庁舎の取得を主張する議員もいました。庁舎の位置の変更は議会の特別多数議決であり3分の2以上の同意が必要になります。

そこで、新庁舎建設市民検討委員会の答申を私も尊重するので、議員もいろいろ考えがあるでしょうが、建設場所にあたっては、市民検討委員会の答申を尊重してもらいたいとお願いしました。

答申は、場所を蛇の目工場跡地とし、全体規模を1万3千平方㍍を上限に、建設費は55億円で33億円が借入金で一般財源での捻出が10億円です。建設スケジュールは5年で竣工の計画でした。

私の不安は財源問題です。再び、後年度負担の大きな借金や一般財源の10億円など、蛇の目工場跡地取得の経過がトラウマになっていました。

そこに、再び大きな問題が派生しました。

(つづく)