走り続けた16年(61)

衆院選 ③

平成17年8月8日、小泉純一郎総理大臣は最重要課題である郵政民営化関連法案が参院で否決されたことから衆院を解散しました。

解散は総理の専権事項であるものの、参院で法案が否決されたことにより、衆院を解散することには理解に苦しみましたが…。

衆院は解散しましたが、私はすでに計画していたこともあり、8月12日、ポーランドとチェコの旅に出ました。これは戦後60年の節目の年に、第二次大戦中のナチスドイツのホロコーストにより、ユダヤ人であるというだけで500万人ともいわれる人々が残虐な手段で命を奪われました。人類史上最も悲惨な負の歴史、その虐殺の現場であった強制収容所のあるアウシュビッツの地を訪れるのが目的でした。

市長職は常勤であり土・日・祝日は各種行事等に参加することから年間を通して休める日は数日に限られます。仕事が趣味の私はいいが、共に働く職員は大変でした。職員には、夏休みは1週間まとめてとり、リフレッシュして仕事に取り組むように勧めていましたが、私が休まなければ休みにくいと聞き、例年8月のこの時期に夏休みを取ることにしていました。海外に行った時は1日に2回は市役所に連絡を取るようにしていました。

ワルシャワから市役所に連絡すると、秘書から保坂三蔵参院議員から度々電話があり、帰国するまで待てないので私から電話が欲しいとのことでした。止むなく自民党都連幹事長の保坂に電話すると「土屋正忠武蔵野市長に衆院選に出てほしいので、あなたから勧めてほしい」とのことでした。私は「それは本人が決めることで私には僭越で言えない」と断りました。

「土屋市長が立候補したら応援してもらえるか」には、「勿論、全力で応援させてもらいます」と応えました。さらに「誰が説得すれば効果があるか」には「小泉総裁でしょう」と言いました。

ポーランドの史都クラクフから、ナチスの強制収容所のあったアウシュビッツへバスで移動中の15日午後、私の携帯電話でなくバスのドライバーに日本から電話が入りました。それは、私の娘からで、「ネットに土屋さんが自民党本部に入ったと出ている、党本部には小泉さんが待機しているようです」という内容でした。

ドライバーの電話機だったので同行のツアー客には会話の中身が筒抜けで、それ以降は度々、衆院選が話題になってしまいました。

土屋は小選挙区制度の導入後、選挙の度ごとに立候補の要請を受けていましたが「自分は中小企業の社長が似合っている、生涯市長だ」と言って断り続けていたのです。

翌日、土屋から電話があり、「出馬を決意した」とのことでした。党は総裁、幹事長等役員が対応し「総理、総裁に頼まれれば断ることはできない」と言い、私には途中で旅行を切り上げないで最後まで楽しんでくるようにとの話でした。

「世界で最も美しい街」との妻の勧めのチェコの首都プラハでも、私の頭の中はアウシュビッツの強制収容所と衆院選のことでいっぱいでした。(敬称略)

(つづく)

走り続けた16年(60)

衆院選 ②

10月22日投開票された第48回衆院選は事前のマスコミの予想どおり、与党、自民・公明の両党が総定数465議席のうち、憲法改正の国会発議に必要な3分の2を超える313議席を獲得し圧勝しました。

しかし、武蔵野市、府中市、小金井市の東京18選挙区は自民党の土屋正忠、立憲民主党の菅直人、希望の党の鴇田敦の3人が立候補しましたが、実質的には「土菅戦争」と呼ばれる土屋と菅との5回目の一騎打ちの様相となりました。

選挙前の土屋が一歩リードのマスコミ報道は選挙対策の責任者である私にとっては困惑する情報発進でした。従前の選挙の菅の得票数に共産党票を加えれば、それは自ずと明らかだからなのです。

結果は、菅の9万6千713票(40・73%)に対し、土屋は9万5千667票(40・29%)と1千46票(0・44%)の僅差で菅の勝利となりました。因みに小金井市では菅の2万4千126票に、土屋は2万1千126票と3千票の差でした。従来から革新が強いとされてきた武蔵野市、小金井市であり比例代表選でも自民党は立憲民主党に及びませんでした。

土屋を支援する議員や選対メンバー、市民の方々には頑張っていただきました。敗因は転出入の多い市民に、土屋の人柄や実績、それに、これからも地域にとっても必要な人であることを伝え切れなかったことです。73歳以上は比例名簿に登載しないという自民党の規約により、東京25選挙区で最も高い惜敗率にもかかわらず、土屋の比例復活はありません。一方、菅は民進党が合流する希望の党から「排除」されたことが幸いし、塞翁が馬を感じさせる当選を果たしました。

土屋と菅との最初の闘いは平成17年8月、小泉純一郎総理主導の郵政民営化の議案が参議院で否決されたことから小泉総理による郵政解散の衆院選でした。土屋は小泉総理から直々に懇願され武蔵野市長を辞職しての立候補で、9月11日の衆院選では菅12万6千716票、土屋11万8千879票で、その差、7千837票で菅が当選しました。

この選挙で自民党は比例名簿1位に猪口邦子、2位は土屋が登載され、他の小選挙区の候補者は全員が惜敗率により復活当選が決まる並列3位にランク付けされました。そのため、土屋の比例での当選は戦う前から決まってしまいました。この選挙に関しては後日、詳しく報告させていただきます。

二度目の対決は平成21年、自民党に逆風の政権選択マニフェスト選挙で、民主党が308議席を獲得し、鳩山由紀夫による政権交代の実現、自民党は下野しました。この選挙で、菅の16万3千に対し土屋は8万8千票で落選し、3年3か月間の浪人生活となりました。

平成24年12月の三度目の対決は土屋が総理をも経験した菅に勝利したが、菅は比例で復活しました。また、自民党は294議席の当選を果たし3年3か月振りに政権に復帰しました。

3年後の平成26年12月、四度目の選挙も土屋が勝ち、菅は衆院選最後の議席となる475番目での比例復活でした。そして今回、五度目の戦いとなりました。(敬称略)

(つづく)

走り続けた16年(59)

衆院選 ①

第48回衆院選は10月22日投開票され、与党、自民、公明両党で313議席となり、465定数の3分の2を超えました。

一方、野党は「希望の党」が政権交代を目指し、定数の半数を超える234人を擁立しましたが当選は改選前を下回る50議席に止まりました。また、公示日直前に結成された「立憲民主党」は改選前の3倍強となる55人の当選を果たしました。

7月2日に執行された都議会議員選挙では、安倍内閣の国論を二分する安保法制やテロ等準備罪等での強引な国会運営、森友・加計問題の対応の拙さや、中央政界の議員のスキャンダラスな言動により、内閣も不支持が支持を上回るなど自民党に対する厳しい批判になり、新聞やテレビを見るのが辛い日々が続く中で行われ、自民党は歴史的惨敗を喫しました。

逆に小池百合子都知事への期待は鰻登りで、テレビ等の露出度も非常に高く、小池代表の支援さえあれば、地域に関係のない人でも当選できるような状況で、都民ファーストの会は50人中49人が当選し一挙に都議会第一党に躍進しました。

安倍内閣の支持率が下降する中で、北朝鮮の核実験やミサイル発射により挑発行為がエスカレートし、危機感が高まると安倍総理の外交・防衛に期待感が生まれ内閣の支持率が上昇に転じてきた時点の9月25日に衆院解散を表明しました。

私は、自民党が絶対安定多数を占める状況にあり、課題を先送りしてまで解散する必然性がないと懐疑的でした。それは、前回の選挙で取り過ぎている分、議席数が減ると考えていました。

しかし、野党の離合集散などが自民党有利に働き、マスコミの厳しい批判はあっても世論調査は自公で300議席確保と報じられていました。

9月28日に召集された臨時国会では所信表明も質疑もなく冒頭の解散となり「大義なき解散」と厳しく指摘されました。一方、人気も高く勢いに乗る小池百合子都知事が代表となる「希望の党」が結成されました。

これに対し、混乱が続き支持率が低迷する野党第一党の民進党は離党者が続出することなどから希望の党に合流することになり、民進党は瓦解しました。

その後、小池代表の「排除」発言等により、希望の党への期待が一気に下がり始め、排除の対象となった人たち等が枝野幸男氏を支え「立憲民主党」を結成しました。そのため、選挙戦は自民党・公明党の与党に対し、希望の党・維新の会、立憲民主党・共産党の3極対決の選挙となりました。

安倍内閣の信任が問われる衆院選は、野党の自民・公明両党の圧勝となりました。

これは、ミサイル発射や核実験を繰り返す北朝鮮の脅威から、防衛力と日米同盟の強化が必要であり、安倍総理の外交力に期待するもので、与党の積極的な勝利というより、むしろ野党の調整の誤りによる消去法の勝利であると思います。

今後、国民に約束した選挙公約の実現に向け、謙虚に国政に取り組まなければなりません。

(つづく)